暗闇の底

未来 響

第1話 親の異常行動

  夜半過ぎのことである。


 次郎は、コーヒーでも飲もうとおもむろにいすから立ち上がった。


 その時、トントンと力のない様子で、玄関ドアをたたく者がいた。


 今ごろだれだろう、と次郎は思った。


 玄関に行き、「どちらさまですか?」と次郎はたずねた。


 「おれだよ、修一だよ」と声をひそめていたが、それはまさしく修一の声だと次郎  は分かった。


 「どうした!」と言いながらすかさずドアを開けた。


 玄関の前には、久しぶりに会う友の姿があった。


 「まあとにかく入れよ。いったい今ごろどうしたんだい?」


 「いやー悪いなこんな遅くに」


 修一のことばは重く暗かった。


 修一を部屋に通すとき、その肩を落とした後ろ姿が次郎にとっては印象的だった。


 それはまるで体の全細胞が破壊されたような廃人の後ろ姿であった。




  二人は次郎の部屋に入った。


 「実は、今晩ここへ泊めてもらいたいと思ってね」


 ゆっくりと重苦しい口調で修一は語り始めた。


 「いやー、それはいいんだけど一体何があったんだ、様子がどうも普通じゃないんで」


 次郎は口をそえた。


 「んー、おやじとおおげんかしてさ。おれもう家に帰らないよ。おふくろはおふくろで冷たいしさ。そういう家なんだよ、うちは」




  修一の家庭の様子は、以前より次郎は聞いて知っていた。


 父親は大酒飲みで、それが元で職も失い、毎日が酒と暴力に明け暮れていた。


 あげくの果てに母親は家を出て、現在いるのは後妻である。


 父親は、泥酔状態になると奇妙な行動をとった。


 体を蛇のようにくねらせ床をはい回り、長い舌をシュルッと出しては不気味な笑みを浮かべる。


 ある時、その長い舌でそばにいたゴキブリを巻いて食ってしまった。


 それを見た前妻は、あまりの不気味な行為にショックを受け、そばにしゃがみこんでしまったという。




  父親のこのような異常行為と暴力を、修一は幼い時から見てきた。


 そのたびに前妻は、修一を置き去りにし、何日間も家をあけた。


 その間、修一は部屋の片すみで、震えながら父親の姿をうかがっていたのである。




  後妻はといえば、これもまた珍しい女であった。


 夫が酒を飲みだすと一緒に飲み、テーブルの上にあぐらをかきながら、上半身裸になり踊り出すのである。


 夫が喜ぶのは言うまでもない。だがこれには妻の意図があった。


 単純な夫に色仕掛けをし、暴力の攻撃を避けたのである。




  「ビールでも飲もうか。まあ、今回はうちでゆっくりしていきなよ」


 次郎が切り出した。


 「いやー、今回はそのつもりじゃないんだよ」


 修一のこのことばには動揺があった。


 「どうしてだい、だって当面行くところがないだろう?」


 台所からビールとグラスを持って来ながら、次郎は修一の顔を見た。


 修一はぽつりぽつり話し始めた。


 「おれが小さい時、おふくろが確か言ってたけど、北海道におじがいるらしいんだ。で、そこへ行ってみようと思うんだ」


 「北海道のどこなんだ?」


 「確か、礼文って言ってたな」


 「礼文って礼文島のことだろう?」


 次郎は念を押すように聞き返した。


 「んー、多分そうじゃないかな」


 「で、名前は分かるの?」


 「んー、確か堀田って言ってたような気がする」


 修一のあいまいな返答に、次郎は半ばため息をつきながら、


 「名字だけじゃ分からないんじゃないかな」


 「んー、名前か、何っていったけかなー、まあ今晩中に思い出してみるよ」


 そして、遠慮深げに修一はつけ加えた。


 「ところで最近忙しいんだろう」


 「おれかい、んー、ちょっとレポートがたまっててね。今晩もそれをやってたんだ」


 次郎は、フーッと大きく息をはきながら答えた。




  次郎は大学の医学部の学生である。


 これに対し、中学を卒業してすぐ働いた修一にとっては、幼い時から次郎はあこがれの対象であった。


 うらやましい限りであった。


 しかし、次郎はこのことに対しては全く関心がなかった。


 修一を見下げるわけでもなく、てらうわけでもない、ただ子供の頃からごく自然につきあってきただけのことである。


 これが修一にとってはうれしかった。




  「ところで、いつ行くつもりだい?」


 次郎はおもむろにたずねた。


 「んー、できれば明日にでも行きたいと思ってるんだけど・・・・・」


 「明日!」


 次郎はちょっと驚いた表情をした。


 「だって、住所も名前もはっきりしないんだろう」


 「んー、実はね、お前にも一緒に行ってもらいたいと思ってたんだけど、今は忙しくて無理だろうし・・・」


 修一は寂しげに言った。


 「そうだなー」


 次郎はうつむき加減に返事をし、ちょっと考えた。そして、すかさず「よし、行こう!」と答えた。


 「でも、レポートがあるんだろう。どうする?」


 「んー、二、三日ぐらいならなんとかなるよ。お前のおじさんの家を見つけたらすぐ帰って来るよ」


 「そうか、助かるよ、ありがとう」


 修一の顔には少し明るさが戻った。


 二人が寝たのは、すでに夜中の三時過ぎであった。

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