第11章 同盟

第二十三話 足利軍

―足利尊氏の出陣―


 楠木正成は千早城の高みから、眼下に広がる幕府軍の動きを鋭く見つめていた。

 一時は勝利の兆しが見えたかに思われた。

 

 だが、正成は気を緩めることなく、常に次の動きを見極めていた。

 そして、ついにその時が訪れた。

 

 幕府は長い戦いの中で疲弊し、士気も崩れかけていたが、ここにきて強硬な指令を出した。

 これまで動きを見せていなかった強者、足利尊氏に対してついに千早城攻撃の正式な出陣命令が下ったという報せが、城内に入った。


「足利尊氏が……」

 正成はその名を口にするだけで、重々しい威圧感を感じ取った。

 尊氏は、ただの武将ではない。彼の背後には強力な軍勢が控えているだけでなく、彼自身が戦場で培った恐ろしいまでの戦術力を持っている。


 これまでに幕府軍を相手に数々の勝利を収めてきた正成ですら、この報せに一瞬、思考が止まった。

「ついに動き出したか」

 正成は静かに呟いたが、その声には緊張がにじんでいた。


 まもなく、東国に潜入していた天幻丸が、急ぎ千早城に戻ってきた。

 その顔には、焦燥が見え隠れしている。

 何か重大な知らせをもたらしたのだと、正成は直感的に感じ取った。


「天幻丸、何があった」

 正成は冷静を装いながらも、鋭い目で彼に問いかけた。


「尊氏公が畿内へ出陣する直前、尊氏公から義貞公へ書状が届きました」

 天幻丸は息を切らせながら答えた。


「書状か……。その内容は?」

 正成はすぐに問い返した。


 天幻丸は、新田義貞から預かった一枚の書状を懐からとり取り出すと、正成にそっと渡した。


 正成は、静かにその内容を確認した後、一言呟いた。

だな、尊氏公……」

 正成は低く呟いた。


 彼の頭の中では様々な戦術が瞬時に浮かび、また消えていった。

 ふと、正成は顔を上げ、冷静な口調で天幻丸に語りかけた。

「知らせを持ってきてくれたことに感謝する。だが、これから東国が大きく動きだす。新田殿もまた重大な決断を迫られるだろう。お前には再び東国に戻り、彼を支えてもらいたい」


「承知しました」

 天幻丸は一礼し、すぐさまその場を立ち去った。


 彼の姿が視界から消えると、正成はまた一人思索を巡らせる。

 尊氏の策にどう対抗すべきか、決断の時は近い。

 このままでは大きな嵐が訪れることを正成は感じ取っていた。



―足利尊氏対楠木正成―



 足利軍は、まず摂津に入り、堺に向かい陣を構えた。

 その後、尊氏は、赤松円心の攻撃に備え、自軍の半分をそのま堺に残して、河内に向かった。

 そしてついに、足利尊氏の軍が姿を現した。

 千早城の兵たちは、城壁の上からその光景を目の当たりにした。数千にも及ぶ騎馬武者が堂々と進軍してくる様は圧巻だった。

 遠くからでも、尊氏軍の威圧感と練度の高さが伝わってきた。

 

――正成は、伊賀で修行に励んでいた若き日に、神々しい姿で、次々と敵を倒す尊氏の姿を回想していた。


 重厚な鎧を纏い、槍を突き立てる兵たちの行列が地平線まで続いている。

 尊氏の軍は、単に数が多いだけではない。

 兵たちは一糸乱れず整然と進み、その進軍速度は驚異的であった。


「これが足利尊氏の力か……」

 正成の隣に立つ雷蔵が、圧倒されるように呟いた。


「だが、彼らが強いのはその規律だけではない。尊氏には、一人一人の兵に徹底的に叩き込まれた戦術がある。彼は全軍を一つの身体のように操る」

 正成は冷静にそう言い放ったが、その表情には緊張が漂っていた。


 足利尊氏の軍は、威圧的な迫力を持って千早城の麓に迫ってくる。

 槍を持つ兵たちが前進し、弓兵たちがその後に続く。

 盾を掲げた部隊が一列に並び、さらにその後方には騎馬隊が控えている。

 まるで巨大な生き物のように統制の取れた動きがなされていた。


「待っていたぞ、尊氏」

 正成は足利軍の動きに目を凝らしながら言葉を絞り出すように呟いた。

 正成は、状況を見極めることに決めた。


 やがて、足利軍の先鋒が千早城の周辺に姿を現した。

 山の麓には幕府軍の旗が林立し、その数は圧倒的だった。

 だが、正成は決して動じなかった。


「今は我々が耐える時だ」

 正成は静かに、しかし力強く言った。


 千早城の兵士たちは、正成の言葉に鼓舞され一致団結して防衛の体制を整えた。

 彼らは自分たちの力を信じ、城を守り抜く覚悟を決めた。

 そして、足利軍との壮絶な戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。


 楠木正成の決断と戦略、そして彼に従う兵士たちの勇気はこの歴史的な戦いの中で試されることになる。

 正成の目には、まだ終わらぬ戦いの炎が燃え続けていた。

 これが彼の信念であり、朝廷を支える最後の希望だった。

 足利尊氏率いる幕府軍は、ついに金剛山を背にした千早城の前面に陣を構えた。

 幕府の旗が城を取り囲み、その数の多さに圧倒される光景が広がっていた。


 尊氏は自らの軍勢に対し、「指示があるまで一切動くな」という厳命を下し、慎重に戦局を見極めようとしていた。

 一方で、楠木正成も千早城の防衛を固めていた。兵たちは城壁の内側で戦闘準備を整え、いつでも戦いに応じる構えであった。

 正成も、同じく自らの軍に対し、指示があるまで動かないように厳命を出した。


 そして、その静けさの中で楠木正成が姿を現した。

 彼は甲冑も身に着けず、武器さえ持たないの姿だった。

 戦場という厳しい現実の中で、彼の姿はあまりにも異様でありながらも、

どこか神々しささえ漂っていた。

 正成は、まるで何も恐れることがないかのように、ゆっくりと兵たちの前を歩き始めた。

 その足取りは力強く、迷いの一切ない堂々たるものだった。


 彼の目は一点を見据え、まっすぐに敵陣へと向かっていた。


「殿…………」

 家臣の一人が思わず声をかけた。


 周囲の兵たちは驚きに満ちた表情を浮かべていたが、正成は一切答えず、ただ前進を続けた。

 その姿は、まるで一切の武力も、恐怖も彼には関係ないかのようであった。

 そのまま正成は敵陣に向かって進んでいく。


 最前線に立つ足利軍の兵士たちは、その異様な光景に次第に動揺を見せ始めた。

 彼らは、まさか丸腰の男が自分たちの陣を通り抜けるなどとは夢にも思っていなかった。

 足を止めて見つめるしかできず、その場から動けなくなっていた。


 楠木正成の存在は、武器や鎧を超えた何か、神秘的な力を帯びていた。

 やがて正成は敵陣の最前線を悠々と通り過ぎ、足利尊氏の本陣へと向かっていく。


 そしてついに、正成は尊氏の陣に到達した。

 彼がそこに立っただけで、周囲の空気が変わったようだった。

 正成は無言のまま尊氏を見つめ、その瞳にはただ一つの決意が映っていた。

 やがて、正成は尊氏の目の前、わずかの距離にまで近づいた。


 両者は鋭い視線でにらみ合い、周囲には緊迫した空気が漂った。


 尊氏が静かに口を開いた。

「我が足利軍の圧倒的な勢いを目の前にして、正成公、お前は刀も持たず降伏か」

 尊氏の声には威厳と自信が満ちていた。


 周囲の兵たちは息を呑み、正成の次の言葉を待っていた。


 だが、正成はその質問に対して、かすかな微笑みを浮かべながら答えた。

「おぬしの方こそ。ここは、楠木軍最強の城、千早城。ここに足を踏み入れた以上、無事に帰れることはない。後悔するのは、尊氏公おぬしだ」


 正成の言葉には、戦場において何度も生き抜いてきた武将の自信が感じられた。

 その言葉を聞いた尊氏の眉が一瞬動いた。

 周囲の兵士たちは、一瞬、尊氏が激怒するのではないかと緊張を走らせた。


 しかし、正成はその表情を変えることなく続けた。

「おぬしも哀れな男だ。幕府から命令を受けてここに来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかぬであろう。今、その刀で俺の首を取れば、おぬしも胸を張って無事、東国に戻れる」

「しかしここは『楠木軍最強の城』俺の首をとった瞬間、おぬしの命もない。どうだその刀で俺の首を取ってみるか」

 正成の挑発的な言葉に、一瞬沈黙が落ちた。尊氏はその言葉を聞き、鋭い目で正成を見つめた。


 その間、まるで時が止まったかのように、周囲の兵たちが、

「これからどうなるのだ」と息を詰めた。


 やがて、尊氏が口を開いた。

「おもしろい。それでは望み通り、ここで正成公の首を頂くとするか」

 尊氏の手が静かに刀の柄に伸びる。

 周囲の兵士たちは一瞬にして緊張し、手を握りしめた。

 戦場に漂う緊迫感は、次の瞬間に全てが動き出す予兆を感じさせていた。


 しかし、その刹那、尊氏の唇が微かに笑みを浮かべた。

「と言いたいところだが…………」

 尊氏は静かに刀から手を離し、笑みを浮かべながら続けた。

「俺がこの戦で持ち帰るのは、『』だ。のことなど眼中にない、既に捨てておるわ」


 その言葉に、正成は深く頷き、同じく静かな笑みを返した。

「『天下の安寧』か。こうなると、俺の首も全く価値なしだな」


 尊氏の挑発を受け流すように、正成は一歩前に進み、尊氏の方へと歩み寄った。

 それに応じるように、尊氏もまた歩を進め、二人は戦場の中央で向かい合った。

 二人の間には言葉以上の何かが通じ合っていた。

 そして、不意にその静寂を破るように、二人は同時に笑い始めた。


「よく来られた河内の国へ。尊氏殿」

「あっはっはー」



―歴史的同盟―



 その響きは、まるで戦場の緊張を一瞬にして吹き飛ばすかのように広がり、周囲の兵たちはただ茫然と立ち尽くした。

 二人の笑い声は、戦場という殺伐とした場所に、不思議な一瞬の和やかさをもたらした。

 この瞬間、戦場にいる全員が、尊氏と正成の間にある不思議な敬意と理解を感じ取ったのだった。


 武将としての誇りと戦略、そして冷静さを持ち合わせた二人は、決して互いを侮ることなく、その存在を尊重していたのだ。

 そして、その笑い声が止む頃、戦場は再び静けさを取り戻したが、その空気は少しだけ柔らかく、しかし同時に緊張感が漂い続けていた。


 兵士たちは、その光景を見てさらに動揺したが、正成と尊氏の会話は続いた。

「よく決断された。向かうは、京の都、六波羅というところか」

 正成は微笑みながら問いかけた。


 尊氏も笑みを返しながら応じた。

「そうだ。間もなく後醍醐天皇が、京の都にお戻りになられる。一足先に、六波羅を綺麗にしておく」


 さらに正成は、言葉を続けた。

「赤松軍の攻撃に備えた体裁で、堺に半分軍を残してきたようだが、これからその軍を動かして、鎌倉幕府軍を挟み撃ちにして一掃するつもりであろう、尊氏公、おぬしもなかなか抜け目がないのう」


 尊氏はその言葉に頷き、正成の鋭さに感嘆した。

正成は続けて言った。

「この河内の地では、何の心配もいらぬ。我が楠木軍が足利軍に加勢しよう,背後からの幕府軍の追撃は、心配ない安心されよ」「天王山の赤松軍も間もなく南下し、堺に到着するであろう。足利軍に加勢する手筈も既に整えておる。この勢いで、一気に幕府軍を一掃しよう」


 その言葉に、尊氏は静かに深く頷いた。

 そして正成は、尊氏に向き直り、真剣な眼差しで言葉を発した。

「尊氏公、おぬしが望む『天下の安寧』、全く遠慮はいらぬ。ここ河内に来た手土産として欲しいだけ持って帰れ。いくらでも用意するぞ」


「ならば正成公、我々の同盟は今から始まるということだ」

 尊氏はその言葉と同時に正成に手を差し出した。

 尊氏はその手をしっかりと握り返し、二人は強い決意と共に握手を交わした。


――こうして、歴史的な同盟がこの場で成立したのであった。

 楠木正成と足利尊氏、この二人の名将が手を取り合い、鎌倉幕府を打倒するための戦いが新たに始まろうとしていた。

 日本の「天下の安寧」と「平和な社会」は、今まさに、この二人の手に委ねられたのである。


 握手を終えた正成と尊氏は、お互いに目を見交わし、無言のままそれぞれの陣営に戻っていった。楠木軍と足利軍の兵士たちは、二人の背中を見送りながら、これから始まるであろう新たな戦いに胸を高鳴らせていた。


 その後、足利軍は、堺で赤松軍と合流し、瞬く間に幕府軍を一掃し、続き、六波羅探題を攻め、陥落させた。



―尊氏の戦略と同盟―



 翌日、楠木正季は、兄である正成と二人きりになる機会を得た。


 正季はためらいながらも口を開いた。

「兄者、昨日は本当に肝を冷やしたぞ。刀なしで敵のど真ん中を歩くとは、一体何を考えていたんだ。俺は、生きた心地がしなかった」


 正成は笑いながら答えた。

「そうか、正季。昨日は、この正成も生きた心地がしなかったわ。一世一代の大勝負だった」

 さらに正成は、話を続けた。

「今回の同盟は、尊氏公の戦略だ。尊氏公は、俺と新田義貞公が接触していることを見越して、朝廷方に寝返ることを事前に新田義貞公に知らせた」

「その狙いは、尊氏公は、楠木軍との同盟を成立させ、背後から迫る執権、北条高時の追撃に備えることだった」


 と言いながら正成は新田義貞から届けられた『』と書かれた書状を懐から出し、「これが尊氏公が義貞公にあてた書状だ」

 と、正季に見せた。


「遠い敵とは同盟を結び、近い敵を攻撃するという戦略だ。尊氏は朝廷側に寝返ることを決意しての出陣であった。こちらとしては、尊氏の戦略に乗り同盟を成立させることを彼に示すために、その証として、刀も持たずこの身一つで足利軍に乗り込んだということだ」

「こんな紙切れ一枚で、命がけの芝居をさせられた。ちなみに仮にあの時、足利尊氏と戦いになっていたとしても我が軍が勝っていたことは間違いない。こちらの戦いの準備は、完璧だった」


 さらに正季への説明は、続く。

「あれだけ多くの家臣たちの前で同盟を締結したとなれば、当然、この同盟は、全国に急速に広まることになるだろう。しかも、後醍醐天皇の還幸途次の日も決まっており間もなく京の都にお戻りになる。そうなれば、幕府軍は面目を失いまさに雪崩を打つように全てが崩れていく『戦わずして勝つ』、これが我々悪党の戦い方の神髄だ」


「さあ、正季。これから俺が仕組んだ最後の仕掛けが動き出すぞ」

「間もなく、新田殿の寝返り劇だ」

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