フリーズ42 ふんどし少女は戻りたい

空色凪

第1話 糞

 1あの夏の記憶


 全人類がこの刹那に集っていた。

 花火は絶え間なく打ち上げられ、その映像をわたしは、そう、涙を流しながら眺めていたんだ。人々は喝采し、歓喜し、人生の幸福に胸を躍らせるように声を上げる。ふんどしを締めて神輿を担ぐものが、女も男もいる。入れ墨を入れている妙齢の女は肌を妖艶に露出させていて、男たちの視線を集めている。その白い肌が汗ばんでいたのがやけに気になった。しかし、女は恥じらうことなく笑っていた。これは何の記憶なのか。男たちのふんどしの赤が揺れる。それが鳥居に見えて、目まぐるしくまた次の記憶を呼び起こす。

「そうか、終わったんだった」

 これらはわたしが小学生の頃の記憶だ。夏祭り、原初体験。わたしを過去へと縛り付ける柵のようなものでもあった。でも、その記憶ももう無意味になる。全ては一なる無に帰す。無に帰す。そしてまた始まるんだ。だからいつまでも寝ていてはだめだ。そろそろ起きよう。わたしは記憶が生み出した木々の深緑で包まれた鳥居をくぐる。宮が宇宙の子宮だとしたらわたしはさしずめ受精前の精子か。そんなことを考えては嬉しいのか悲しいのか、わたしはまだ誰もいない世界で産声を上げるのだった。


 モノリスを見ている。ここは久遠の昔。世界が始まるのだ。ああ、恐ろしい。わたしはまた苦しみと快楽と、憂いと幸福の狭間で生まれいずる悩みに苛まれるであろう全人類の全時間に涙せずにはいられなかった。


 2定点観測


 類人猿は快楽の赴くままに腰を振る。子孫が繫栄する。わたしはその記録をとりながらコーヒーを飲む。

「猿の様子はどうだ?」

「やはり歴史は繰り返すしかないのですね。観測する限り、類人猿はそれだけでは永遠に進化などしない。劫歴138億5784万2735年現在では変化の兆しは見られません」

 わたしは淡々と報告をする。ああ、退屈だ。月のアタルヴァ・ベースにはわたししかいない。正確には身の回りの世話をしてくれる自律型AIロボットのメアリがいるが、彼女は愛を知らない。わたしは女同士でもいいのに、愛がほしかった。

 この仕事を引き受けると決めたのはわたしの両親だった。今でも憎んでいる。何故、わたしがこんな職務を引き受けねばならないのか。わたしはコーヒーをすすりながら椅子の背もたれに自重を預ける。

「そうか。引き続き観測をしてくれ。まだ、接触は早い」

「了解しました。今回はどこまで待つのでしたっけ?」

「150億年だ」

「接触方法は?」

「神の降臨でいいだろう。そこはシナリオ通りに」

 通信を切る。

 わたしは溜息を吐く。

「神ね」

 わたしは本当の神に逢ったことがある。それはギリシャ神話の神のように痴話げんかはしないし、日本神話の神のようにいじけたりしない。神は不完全さえも内包する完全な存在であった。無限であり、永遠でいて、全知と全能の狭間で彼はいつだって朗らかに微笑んでいた。彼の居場所は丘の上の病院の一室だった。

「もう一度会いたいな」

 わたしは彼の冴えない横顔を夢想しては、自身の股に手を伸ばすのを止められなかった。


 3追憶


「夕食をお持ちしました」

 面白半分でわたしが作った赤いふんどしを締めて、生真面目に料理を運ぶ上半身裸のメアリは滑稽だ。胸のサイズが負けているのは悔しいけど、仕返しに彼女が運んできた夕飯を受け取る代わりにEカップはあるだろう胸を揉んでやった。きっと作成者は変態じじいに違いない。メアリは案の定無反応。つまらない。

 アタルヴァ・ベースには一人分の食事を供給するシステムがある。出てくるのは小麦を使ったものばかりだ。小麦はパンにもなるし、パスタにもなる。クッキーもできるし、ルーの素材にもなる。米など非効率な食材は育てられていない。もちろん養殖もされていない。肉を生産するのも非効率だからだ。わたしは食べ飽きたペペロンチーノと味のしない完全栄養補給ドリンクを平らげて、食休みする。食器を下げるメアリの赤いふんどしを眺めながら、わたしはまたあの夏の記憶を追想していた。

 夏祭り、熱、屋台、匂い、そしていつも思い出せない誰かの手のぬくもり。

 なぜかあの夏の記憶だけが忘れられない。いや、あの記憶だけがわたしをわたしたらしめているのだ。使徒になる条件。持てる記憶は1GB。なぜ昔のわたしがあの記憶を選んだのかが謎だった。喝采、神輿、打ち上げ花火。やけに花火の音が世界の終わる秒読みに聞こえた。本当はもっと思い出したいのに、記憶は本の1分47秒しかない。しかも、日に日にその記憶も薄れている。

 神の記憶はそれとは別にある。否、使徒になる以上神のことを忘れてはならないのだ。なぜなら、今、わたしたちの任務は、その彼、神を生まれさせることなのだから。

「観測、続けますか」

 わたしは諸々の装置の動作確認を終えると、再び人工冬眠装置に身を委ねた。


 4帝釈天


 わたしは警告音で起こされた。なんで?まだ、100万年しか経っていないのに。わたしは人工冬眠から目覚めたばかりの重い体に鞭打って、急いでアタルヴァ・ベースのシステムを休止状態から呼び起こす。

「システム起動」

『誓いの言葉を』 

「『アレス・ヴィルデ・アマデウス』。さて、なにが問題?」

 全球観測システム、ガイアの画面に表示されたのは変哲もない類人猿。強いて言うなら自らの生殖器を葉っぱで隠すようになったくらいか。問題はそこじゃなかった。

「誰かいるの?」

「こんにちは、旧宇宙の使者よ」

 メアリの声ではない。男の声だった。

「申し遅れました。わたしは帝釈天と申します」

 黒髪美形の長身男は、神聖さを醸しだす漆黒の衣装を揺らしながら、ゆるりとこちらへ歩んでくる。どこからこの基地に侵入したのか。わたしが戸惑っていると自らを帝釈天と呼んだ彼はわたしに接近し、頬に手を添えた。

「なるほど、彼の女の趣味がわかりました」

 顔と顔が近い。瞳と瞳が合う。男の瞳は宇宙の深淵のようだった。

「あなたは誰なの?」

「神の兄ですよ」

「神の兄?」

「双子のね」

 男は微笑んで笑う。その笑い方には、確かに病室で見た彼の面影があった。

「精霊の君よ。一度君を見ておきたかったんだ。ありがとう。君は確率が偶然生んだ奇跡だよ。誇っていい」

「待って!」

 要は済んだと男は、わたしの呼び止めも空しく宇宙の闇に消えていった。わたしの伸ばされた右手は虚空をつかむ。

「帝釈天……」

 仏教の守護神の名前だ。その名を知るとはまさか旧宇宙の者か?わたしが冷静になって冷や汗を拭う頃には警告音は鳴りやんでいた。


 5輪へと


 件の事件から数億年の時を経ると、類人猿は人の姿になっていた。文明を築き、統治し、支配され、神を信仰する。問題はまだこちらから接触していないのにもかかわらずこの進化が起きたことだった。

「なに?類人猿がおのずから人に進化しただと?」

 わたしがこのことを報告すると案の定、画面越しのオペレータは驚く。

「はい。ガイアの履歴を見ても、他の知的生命体との接触は確認できませんでした」

「となると、この前現れたっていう帝釈天だったか。そいつが気になるな」

「はい。ただ、ガイアでは今のところそれらしき人物は補足できていません」

「そうか。今の新人類の文明レベルは7階指標で言うとどのくらいだ?」

「0.14ですね」

「それなら転生も可能か」

「わかりました。調査してきます」

「ああ。ついでに、種も仕込んでおいてくれ。予定よりは早まるが」

「わかりました」

 そこで回線を切る。


 わたしは観測のため、地上で生を受けることになった。だが、予期せぬトラブルが起きた。わたしは何者かが仕組んだ罠に囚われてしまった。自由に意識をベースに眠る本当の体に戻せなくなってしまったのだ。つまるところ、わたしだけが輪廻に囚われることになった。あの1GBの記憶も生まれ変わるたびに劣化し損傷する。このままではわたしがわたしでなくなってしまう。わたしは任務よりも、自我の存続を優先させることにした。自我が無くなれば任務は遂行できないと言い訳をして、わたしは未来のわたしに命運を託す。おそらくはもうわたしを忘れてしまったわたしに。

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