第2話

 ところで、テウタが権力を掌握するまでのイリュリア王国はどうだったのか。


 実のところ、イリュリア王国に関する情報は少ない。彼ら自身が記録を残さなかったこと、また記録を残したギリシア人やローマ人の記録も僅かしかないことが、その実態を不確かなものにしてしまっている。


 だが、その極僅かな記録の中にあって、テウタ以外で比較的記録の残っている人物が一人いる。それは彼女の夫であり先王のアグロンだ。


 イリュリアの歴代国王の中で、アグロン王は『イリュリアの陸海両軍をかつてないほどに強大化させた王』と評された男だ。


 紀元前二三一年。

 王は東方の大国であるマケドニア王国から要請を受けた。


『メディオン市を救助してほしい』と。


 当時、メディオン市はアイトリア――ギリシア北西部の連邦国家に包囲されていた。それを受けてマケドニア王はメディオン市の救助をアグロン王に要請したのだ。


 なお、これにはアイトリア連邦とマケドニア王国の対立、加えて自軍を派遣したくないマケドニア王個人の都合も関係していたらしい。


 要請を受けたアグロン王は、メディオン市に大軍を派遣した。


 歴史書によると百隻の小型船――防御力を捨てて速力に特化した海賊用ガレー船に五千人の兵士を乗せてメディオン近郊の海岸に上陸。その後、夜明けと同時に陣形を組んでアイトリア軍との戦闘を開始。


 イリュリア軍は市内から打って出てきたメディオン人と連携しながら、ほぼ損害なしでアイトリア軍を撃破したのだった。


 この勝利はアイトリア連邦に大きな衝撃を与えた。彼らはギリシア北西部の覇者たることを自認していたからだ。


 そのアイトリア連邦が海賊風情の国に敗れた。


 メディオンを巡る一戦は、大きな国際情勢の変化をもたらしたと言えよう。

 

 だが、アグロン王の絶頂期は短かった。

 彼は戦勝報告を受けた直後に催した祝宴で酒を飲み過ぎ、数日後に肋膜炎ろくまくえんで崩御してしまったのだ。


 そして、王位は乳児のピンネスへと継承される。


 彼が政務を執れるわけもないので、摂政として先王アグロンの妻テウタが政務を取り仕切ることになる。だが、やがて彼女は自らが『女王』であるかのように振る舞い出し、遂にはテウタが玉座に座り指示を出すようになっていた。


 そして、それを快く思わない男が一人いた。パロス島生まれのデメトリオスという男だ。


 彼は自らが政権を掌握したいがために、テウタが摂政に就任するのと時を同じくしてピンネス王の生母トリテウタ――テウタはピンネス王の母ではなく、先王アグロンの後妻だった――との婚姻を秘密裡に進めようと画策。


 トリテウタも彼に協力し、二人は水面下でテウタの失脚を目論んだ。しかし……。


「どういうことじゃ! デメトリオス!」


 テウタが国内に放っていた間諜がそれを嗅ぎつけ、彼女に伝えてしまった。


「わ、私は決してやましいことは――」

「なら、何故なにゆえわらわの目を盗んで会うておった? トリテウタはピンネス陛下の生母。密かに会わずともよかろう。それにお主は先王アグロンの忠実なしもべじゃったから、わらわも『会うな』とは言わぬぞよ。それとも……」


 狡猾な女狐の如き赤い双眸そうぼうがデメトリオスを射抜く。


「わらわに聞かれたくないことでも話しておったのか?」


 蛇に睨まれた蛙の如く、デメトリオスはすくみあがり何も答えられない。


「ふん、お主の魂胆など見え透いておるわ。わらわを追い落とし、ピンネス陛下の後見人の座に納まりたいのじゃろ? じゃが、させぬ。なぜなら――」


 テウタは見栄を切って豪語した。


「わらわこそが、この『海賊王国』を統治するに相応ふさわしいのじゃからな!」



 その後、デメトリオスは謹慎の後に釈放された。彼の軍事的才能をテウタが利用したかったためにその命までは取らなかったらしい。


 また、ピンネスの生母トリテウタも投獄されることとなったが、さすがに彼女も殺害はしなかったようだ。


 だが、この処置が後々テウタの首を絞めることになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る