【1話完結】犬も喰わない

水也空

草も生えない

「ジョン」


 と妻は、振り返りもせず夫を呼んだ。




 これはとある夫婦の、なんでもないこと。意味もないこと。ただただ日常。それが散り積もってなんと今年で結婚十数年目!?

 なんていう妖気はただよう。ウラシマ気分にもなってしまう。まさかこんな様になってしまうとは。

 当初どちらも思いもよらなかっただろう、男女の変化へんげ。このあり様よ。

 何の為にも身にもならない。期待がなければ愛想もない。あればあったで、どうにもならない。あるとすればこの思いだけ。


(どうしてこうなった)


 この恐怖ときたらどうだろう。ひとにも言えない。

 そんな犬も喰わないこの怪談話を、記念にひとつ。「南無阿弥陀仏」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「ジョン」


 そう呼ばれた夫は、リビングのソファーで長々寝そべる。うんとも言わず、ぐうとも鳴かない。手の中のスマホを半目で見ている。

 なんとなくゲーム。それに電子マンガも斜め読みしつつ、脇のテレビでは動画の垂れ流し。片や、電子タバコの在処をうろうろ探る。そんな見事なマルチぶりだから、一応、妻の自分を呼ぶのはわかってはいるのか。

 妻は別にかまわない。こういうひとだと。

 あきらめではない。愛でもない。古い時分からの腐れ縁というやつ。ゆるくもなく、きつくもない。不自由さはほどけただけ、重ダルさはある。これが十年を経たあたりからちょうどだと刮目したから、多少臭うにせよ、いちいちかまっていられないとさ。

 それよりも。


 たまの休みの朝だった。めずらしく、これがふたりそろって合致した。

 この一年に数度あるかないかの、奇跡の邂逅。それをどうするわけでもない。ただ怠慢にもてあそんでくれるわいと、両手をこすってよろこぶ妻の性分。

 そんな妻が夫を呼ぶのだ。

 たまに立つかあやしいキッチンにて。

 その申し訳程度のシンクを前に、しずかな口調で切り出した。


「…事件だ、ジョン」


 ん、と夫は首だけひねった。様子を見ている。夫なりの用心のあらわれでもある。


「…なんか言ったか?」

「事件だ事件だ」

「うるさいねえホームズ先生。どうしたどうした」

「たまご蒸しパンが食べたい」

「なんて?」

「たまご蒸しパンだ。もう一度言う。たまご蒸しパンだ。そして君はたまご蒸しパンが今すぐ無性に食べたくなーる。さあ材料はなんだ。スラスラと言ってみたまえ」


 そうかヒマかと、夫はスマホをいじりながら「ああ」と立った。が、そうノコノコとは動かない。わざわざ大きな伸びをしてみる。なんだっけと勿体つける。冷蔵庫を大儀そうにのぞき込んで言う。


「こいつは事件だぜ、ホームズ先生」


 妻もそこは心得ているから、取り澄ましたつくり顔。


「なんだジョン。言ってみたまえ」

「肝心の小麦粉が脱獄してるぜ」

「なんだと。怠慢だ。ヤードを呼べ」

「先生、おちつけ」


 このあいだのお好み焼きだと、夫はいさめた。


「さすがだジョン」


 妻は言った。


「じゃあ仕方ない。ここは健康志向とやらの米粉といこう。さ、出してくれ」

「健康??? だれが??? うそつけ???」

「じゃあいい。もういい。そこの生米を粉にしてみよう。ブレンダーにブッ込んでくれ。きっちり66gな。まちがえるな。今すぐたのむ」

「じぶん雑いくせに指示は細けぇ」

「なにか言ったかジョン」

「いいえ先生。あっ、おい、ちょっと待った」

「なんだジョン。トラブルか」

「いや先生、そのフライパンは」

「フライパンだよ」

「バカ。ちがう。おい、もう忘れたのか。それテフロン加工がお亡くなりになって焦げ付きエグイって、おまえ散々」

「買い換えたよ」

「買い換えたのはフライパンのだよホームズ先生」

「先に本体を買えい」

「ソウデスネ!」

「まあいいジョン」


 妻はぐっとうつむいた。

 クスリとでも笑ったら負け。それがこの茶番のルールだ。くだらないにも程があるが真剣なのだ。それが誠意。この妻なりの愛かもしれない。よくわからないが仕掛けた手前、やり切ってみせるのがプロの妻だというのは確かなこと。


「そこの卵と油と混ぜてくれ」


 いそいそと話をもとに戻した。


「あと牛乳…どこ。砂糖は…」

「全部きれてる。いまハチミツしかない」

「謎い」

「そうか?」

「そうだな。甘いならハチミツでもいい。牛乳は豆乳で代用といこう」

「なら先生、グラムどうする。どんだけ入れる」

「ジョン、君さ。たのむからちょっとは自分のあたまで考えてくれないか」

「あ」


 とした拍子に、夫の手から電子タバコのホルダーが飛んだ。あわてて妻からフライパンを取り上げた。確か『蒸しパン』を作るのではなかったか。


「まてまてまてまて、なんでフライパンに油ひいてる? え、焼くの? なにすんの???」

「いやなんかホットケーキが食べたくなった」

「ヤメテ!」

「なんで?」

「なんだその顔」

「チーズ蒸しパンが食べたい顔だよい!」

「たまご蒸しパンじゃなかったんかい!」


 はいはいもうわかりましたよと、夫は半笑いを噛み殺して言った。

 ホルダーを拾った拍子に、げふっとゲップ。もうええわと肩を落とした。


「ちょっとコンビニ行ってくる」

「さすがだジョン!」


 はい歓喜。イエス解決。妻勝利。

 とは素直にいかないのが、人生のミステリというやつ。

 お目当てのブツは不自然なくらい見つからず、捜査は難航。唐突な夫婦の危機。

 これには互いに慎重に協議に協議をかさねた結果、ブランチは天ぷらうどん。夜食にチーズケーキ。あとはグダグダ暮らしたそうな。


(どうしてこうなった)


 なんて、思いわずらったところで草も生えない。

 南無阿弥陀仏。

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