ゾンビ

珠洲泉帆

ゾンビ

 午後四時四十五分、わたしは彼を外の通りへしめ出し、玄関ドアと家中の窓の戸締りをした。午後四時五十九分、通りを見下ろせる窓のそばでうずくまり、間もなく始まるそれを見守るために彼を見つめていた。

 午後五時、それが始まった。彼の顔が歪んで形が変わっていく。全身の皮膚が溶け、その下の肉や骨が露わになる。彼は口をぽっかり開け、両手を前に突き出し、指をだらんと下に垂らして、うめき声をあげながらぎこちなく歩き出す。紛うことなく、ゾンビの姿だ。

 わたしは隣に置いたフライパンの取っ手をにぎりしめ、息をひそめた。通りにはゾンビたちが続々集まり、それぞれ好き勝手な方向へ歩いていっている。いつも挨拶する近所のおばさん、犬の散歩をしているところに出会う顔見知りのおじさん、行きつけのカフェのマスターまでゾンビになって、町の徘徊に出かけるところだ。

 彼はどこに行くだろう? うろうろとしてはいるが、家の前から離れる様子はない。わたしは心の中で必死に祈った。早くどこかへ行って。その姿を見せないで。人を襲わないゾンビなんて滑稽でしょうがない。早く、わたしがフライパンでその頭を叩き潰したくなる前に。

 そう、ゾンビたちは人を絶対に襲わない。ただ見た目が変わって、当てもなく歩き回るだけだ。それも夕方の一時間だけ。わたしにはそれが耐え難い。ゾンビと見るとすぐに臨戦態勢に入ってしまう。害虫を見るとすぐに追い出すように、ゾンビを見ると防衛本能が働くのだ。

 困ったことに、一時間経てばゾンビたちは元の人間に戻る。うっかりゾンビを殺してしまえば、つまり人を殺したということになる。だからわたしはアリスのように大暴れしたい衝動をぐっと抑えて、家の中に閉じこもっていなければならない。これが映画だったらいいのに。

 ゾンビになったり人間に戻ったりするのも怖いが、実はわたしがいちばん怖いかもしれない。だって、やつらの頭を叩き潰したいだのライフルでハチの巣にしたいだの、そんなことばかり考えているんだから。でも、それもこの一時間だけ。人間に対してそんなことを思うわけはないから、この一時間が過ぎれば、安全なわたしに戻れる。

 午後五時三十分。彼はまだ家の前にいる。

 わたしは叫び出しそうになった。何をしてるの? ゾンビになっても優柔不断で、どこに行くかも決められないの? フライパンを握る手に力が入る。階段を下りてドアを開けて、そのまま殴りつけてやろうかと思った。

 いや、もう時間を気にしちゃだめだ。一時間経ったら、彼はドアを大きくノックして知らせてくれる。わたしは苦労して手の力を緩め、体をリラックスさせた。時計のほうに背を向け、窓からも目を離す。ぼうっと考えごとでもしていれば、三十分なんてあっという間だ。

 そういえば、彼はいつからゾンビになるようになったんだっけ? 何かきっかけがあるかもしれない。それが分かれば、ゾンビ化を止める方法が見つかるかも。別にゾンビになったって害があるわけではないけれど、わたしが危ない。毎日飽きもせずゾンビになる彼のことが、なぜか日に日に許せなくなっている。でも、どれだけ考えたって、いつから、そしてどうしてゾンビになったかが思い出せない。

 ひょっとして、少しずつゾンビになっていったから気づかなかったのかも。ここまで大きく変わるまで、ちょっとずつ……。うん、きっとそうだ。じゃあ、それはなぜ?

 どんどん、と大きな音がして、わたしはとっさにフライパンを抱えた。しかし、それが彼の合図だと気がついて、玄関を開ける前にフライパンをキッチンへ片づけた。

 ドアを開けると、彼があっけらかんとした顔で立っている。

「ただいま」

「おかえり」

 午後六時。彼は冷蔵庫の中をのぞいている。

「カレー作ろうと思ってたんだけど、じゃがいもがないや。買いに行くけど、一緒に来る?」

「うん」

 今日も、フライパンは頭を叩き潰さずに済んだ。

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ゾンビ 珠洲泉帆 @suzumizuho

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