十月にふたり

珠洲泉帆

第1話 詩集

1 詩集


 アカバニラ材の扉を開ければ、正面にカウンターが置いてある。そして左右に広がる書棚と、ところどころに置かれたソファ。新聞を読むための書見台。館内の案内図。

 入って右手、まっすぐ進んだ壁際の席にいつも彼はいる。借りた本や家から持ってきた本をテーブルに積み上げて、静かに読書にふけるのが彼の日課だ。この小さな図書館の数少ない常連の横顔は、ちょうど書棚のあいだを通してカウンターから見通すことができる。

 マシューは、毎日のように彼と顔を合わせている。彼はマシューが調べ物や仕事をするために図書館に来て、数時間もすればやって来る。そして三時間ほど読書をして過ごし、帰っていく。そのあいだ、彼とマシューは同じ場所にいることになる。だが、時間は別だ。彼は本を読み、マシューはマシューのやるべきことに励む。本を読むということは自分だけの時間を持つということで、そこにマシューが入りこむことはできない。

 マシューが知っている彼の顔は、読書する横顔と、本の貸し借りの手続きのさいに浮かべる微笑くらいだ。言葉を交わしたことはない。彼については知らないことばかりだが、本を読むという私的な精神世界にひたる姿だけは知っている。

 そんなやや遠い二人の距離だったが、ある雨の日、それが変わった。

 来る途中で降られたのか、彼は雨に濡れていた。彼は入り口でハンカチを取り出すと、丁寧に水滴を拭いたり払い落としたりしてからカウンターへ行き、本の返却を告げた。マシューはすぐそばの棚で仕事に使う資料を物色しながら、書棚の間に行く彼を見送った。

 彼の姿が見えなくなり、今日も仕事をしようと席へ向かいかけたとき、カウンターに紺色のハンカチが忘れられているのに気がついた。彼が持っていたものだ。

 マシューは彼の気配に気をつけた。彼が帰るタイミングを逃さないようにし、本を入れたバッグを持って彼が立ち上がったとき、マシューはハンカチを持ち、近づいていって声をかけた。

「お忘れ物です」

「ああ、ありがとうございます」

 彼は微笑んでハンカチを受け取った。穏やかで小さな微笑だ。

 マシューは初めて、彼と会話をした。


「アレンカ・アンブロシュの詩がお好きですか」

 思いきって言ったのではなかった。言葉が自然に口から出てきたのだ。彼が頻繁にその詩人の本を借りるせい、そしてマシュー自身もその詩人の作品が好きで、共感したから言ったのだった。

 アンブロシュは放浪の詩人だ。生まれ故郷を出てあちこちへ旅をし、旅先で詩を詠んだ。生まれ育った町からほとんど出たことのないマシューは、憧れを抱いて彼女の詩を味わう。旅情や異国情緒にあふれた言葉が想像力をかき立て、知らない土地に思いをはせさせてくれるのだった。

 閲覧スペースでソファに座っていた彼は、虚をつかれたようだったがすぐに応じた。

「ええ、わたしもよく旅に出るものですから。彼女の詩を読むと、何か通ずるものがある気がするんです」

 にわかに、マシューの彼への興味が強まった。どんなところに旅をして、何を感じてきたのだろう? ヒントはアンブロシュの詩にあるようだ。どうやら、彼は共感をもって彼女の詩に接しているのだった。

「この町に来たのも、旅の途中で?」

「そんなところです。ここで少しひと休みしていこうかと」

 そこでやり取りは終わった。マシューの故郷といえるこの町は、彼にとってはいくつもある旅先のうちのひとつでしかない。その違いについて考えていると、仕事が終わった。

 マシューはここで生まれ、ここで育った。両親も同じだったが、マシューが全寮制の高校に入ることになったとき、二人とも町を出ていった。連絡はちゃんとついていたが、マシューのほうから何か言ってよこすことはほぼなかった。高校卒業後は大学で評論の勉強をした。高校と大学に通った七年が、マシューが町の外で過ごした時間のすべてだ。外といっても、すぐそばの隣町だからさして違いはない。

 両親が何を思って出ていったのか、マシューにはわからない。はっきり言葉で示さずに行ってしまった二人に対して、マシューは最初、怒りを抱いた。それがいつしか諦めに変わり、やがて無関心になった。けれど、その奥にずっと変わらない感情があることはぼんやり自覚していた。その感情について、考えてみたことはあまりないけれど。

 ある休日、マシューはアンブロシュの詩集を持って喫茶店に入った。窓際の席に落ち着くと、紅茶を一杯注文して本を開く。店員が注文したものを持ってきたので目を上げたとき、ドアを押し開けて入ってきた彼の姿が目に入った。

 彼はマシューを見つけると、まっすぐこちらの席に向かった。マシューの正面の席を引き、「ご一緒しても?」と微笑む。マシューが嫌がるはずはない。

「どうぞ」

 彼は静かに席に着き、口を開いた。

「先日は、ハンカチをありがとうございました。あなたのことは前からお見かけしていましたよ」

 店員がやって来て、彼に注文を尋ねる。彼はコーヒーを頼み、マシューに向き直った。

「わたしのことはルイと呼んでください。あなたのお名前は?」

「マシューです。ぼくもあなたの顔を知っていましたよ。図書館仲間ですね」

 運ばれてきたコーヒーに口をつけ、ルイは笑う。

「住んでいる場所の図書館には、必ず行くようにしているんです。いつでも本を読みたいのはそうですが、あちこち転々としていると、図書館ごとの違いを見つけるのも楽しくなってきます」

 図書館ごとの違い。あまり意識したことのないものにマシューは驚き、ルイに質問した。

「そんなに地域で違いが出るなら、ぼくらのところの図書館はどんなところですか?」

「そうですね。今まで行った中でも特に、わたし好みの本をたくさん置いてくれています。おかげで退屈しません」

「どんな本がお好きなんですか?」

「旅行記や書簡集、それからアレンカ・アンブロシュ。どこかからどこかへの距離を感じさせる文章が好きなんでしょう。遠くを移動してきた文章、といいますか……」

 二人ともそれぞれの飲みものを飲んだので、会話が途切れた。マシューは不思議な心地のよさを感じていた。まだ少ししか話していないのに、ルイとは相性のよさ、同じ世界に住む者だという感覚がある。こういった直感はまず間違うことがなくて、ルイのことをもっと知りたいと思った。

「あなたはどんな本を読みますか、マシュー?」

「仕事柄、芸術に関するものが多いですね。個人的には推理小説や冒険小説。子供のころから好きなんです」

 二人は本の話で盛り上がった。有名な作家の名や本のタイトルを言うと、すぐに通じるのが嬉しかった。本にまつわる思い出や本への愛を語り合い、二人が同じものを大切にしていると確信する。ルイもマシューも、本が常に心の真ん中にあるような人間だった。

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