いつもは一人ぼっち。傘を開くとふたりぼっち。

むぎ茶

雨が降る時だけ、君はそこにいる

 灰色の雲が空を覆い尽くし、遠くで雷鳴が低く轟いている。

 雨の匂いが湿った風と共に商店街を通り抜け、ため息をつく。


 傘を忘れてしまった。


 大学の講義が終わり帰っている途中、ポツリ、ポツリと雨粒が地面に弾け、あっという間に土砂降りになった。


 悠はたまたま近くにあった古びた雑貨屋に逃げ込んだ。シャッターが半分降りた店先には、プラスチックの籠に詰め込まれたポケットティッシュや、色褪せたキーホルダーが無造作に置かれている。


 その横に、1本の透明なビニール傘が立てかけられていた。


「忘れ物か……? 売り物、じゃないよな……」


 一瞬だけ迷ったが、少し錆びている骨組やビニールが汚れていることを考えると、どう見ても商品には見えない。

 雨足は強く、家までまだ距離もある。これ以上濡れるのはごめんだ。


 「……まぁ、ちょっと借りるだけだし」


 そう自分に言い訳をしながら、悠はビニール傘の柄を掴んだ。一応柄の部分に名前が書かれていないことも確認しつつ、すっと傘を開いた。


 カシャリと少し鈍い音が鳴ったが、問題なく使えそうだ。


「ラッキーだな」


 悠は軽い気持ちで雑貨屋の軒を出た。

 先ほどまでとは違い、雨音が傘に当たりぼやけるのを感じる。


「あれ? それ、私の傘だよ」


 ふいに、声がした。


 反射的に振り返ると、赤いパーカーに制服のようなスカートを着た少女が立っていた。

 見たところ、同い年くらいだろうか。

 怪訝そうな声の割に、顔は不思議と笑みを浮かべている。


「傘? この雑貨屋さんの前に放置されてたんだけど」


 悠は肩をすくめながら答える。


「うん。だから、それは私のだよ」


 彼女は静かに笑いながら、悠の目を見た。

 

 俺のことをからかっているのか? 

 彼女の意図が読めない悠はその視線に一瞬だけ圧されかけたが、すぐに平然を装った。


「……でもこれ、店の前に無造作に置いてあったし、店主も何も言わなかったけどな」


 咄嗟に嘘をついた。そもそも店は開いていなかったし店主なんか見ていない。

 彼女は「うーん?」と少しだけ首をかしげたが、その後何かを納得したかのように頷く。


「じゃあ、その傘持っていっていいよ」


 拍子抜けするほどあっさりした態度だった。


「……なんだよ、それ」


 小さく呟きながら、悠は背を向けて歩き出した。


「ねぇ!」


 再び背後から声がした。


「なに?」


 振り向くと、彼女が悠のすぐ後ろにいた。

 そのまま傘の中に入ると、悠のことを覗き込むように見上げる。その目は、ガラス玉のように透き通っていた。女性とここまで接近したことがない悠は、思わず目を逸らしてしまう。


「一緒に歩いてもいい?」


「は? なんで?」


「だって、その傘は私のだから」


 何を言ってるのか意味が分からなかったが、恐らく彼女は俺が何を言っても聞き入れないのだろう。この数分の会話の中だけでもそれが伝わった。


「……勝手にしろ」


 そう言い捨てて歩き出すと、彼女は静かに隣を歩き始めた。


 ◇


 雨は途切れる気配もなく降り続けていた。


「悠って大学生?」


「そうだけど……。いきなり呼び捨てかよ」


 確かに名前は教えたが、初対面でいきなり呼び捨てにされるとは思っていなかった悠は思わず動揺してしまう。


「ふーん、友達いないの?」


 不意打ちのような言葉だった。悠は足を止め、彼女をじっと見た。


「は?」


「だってほら、一人で帰ってるし」


 彼女はひょうひょうとした様子で言う。全く悪びれていないその様子に悠は心の中で舌打ちした。


「……友達なんて別に居なくても困らないだろ」


 彼女は悠の答えを聞くと「ふーん、そっか」と一言呟き、それ以上何も言わなかった。

 気にしないつもりだったが、自分が一人だと改めて認識させられたことが、どこか引っかかった。こういうのを図星を突かれたって言うんだろうか。


「……お前は?」


「お前じゃなくて、夏南」


「お前には友達がいるのか?」


「夏南」


「……夏南には友達がいるのか?」


 彼女は一瞬、考えるような素振りを見せた後「うーん、私もいないかも」と笑った。


「でも、こうして悠と歩いてるから今は一人じゃないけどね」


 彼女の無邪気な笑顔に、悠は言い返せず黙ってしまう。

 不思議と、その言葉が頭の中でリピートされていた。


 ◇


 坂道を抜け、駅の方に向かう細い路地へと入った。車や生活音がないからか、雨音がやけに響いている。


 不意に、彼女がポツリと呟いた。


「ねぇ、悠は『忘れられないもの』ってある?」


「は? いきなり何だよ」


「ううん、ちょっと気になって」


 彼女は微笑みながら「ある?」ともう一度尋ねた。

 その笑みは、先ほどまでとは違い、どこか大人びた表情だ。


「ないな。忘れっぽいし」


 悠は考える素振りも見せずに即答する。


 答えを聞いた夏南の顔が、一瞬曇ったように見えた。


「そっか」


 彼女の声は、どこか寂しそうに聞こえた。

 「夏南には忘れられないものがあるのか?」と聞きたかったが、何故か喉元で引っ掛かり、お互い無言の時間が続く。


 その日、一日中雨は強く降り続けた。

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