剣闘士グルカ
@matora
剣闘士グルカ
①
砂塵舞う円形闘技場の中心で、剣闘士のグルカは異形と対峙していた。異形の正体はコルドパイソン。あらゆる蛇に芸事を調教させてきた伝説の蛇使いによって、人を殺す術だけを叩き込まれた大蛇だ。全長は5メートルを優に超え、鱗の光沢が闘技場のギラついた光を反射し禍々しく輝く。うねりながら相手の体を巻き付けるのを得意とし、これまでに七人もの剣闘士を屠ってきた。
一方、グルカは中腰の姿勢で、右手に持った剣の先端を、蛇の目線が正面となるよう、真っすぐ水平に構えていた。
太腿、脹脛、足指の順に、下半身にぐぐぐっと力を込める。分厚く盛り上がった筋肉は、まるで年輪を重ねた大木のようだ。足の親指は爪を立て、くの字で折れ曲げた恰好で地面に接している。前後左右瞬時に動けるよう、両の踵を浮かせ、つま先立ちの状態だ。
闘技場はこれから始まる戦いを前に緊張感に包まれていた。すぐに訪れるであろう血の赤に胸を膨らませるもの、大金を賭け脳から快楽汁を垂れ流すもの、グルカを英雄視し崇め勝利を祈るもの等様々いたが、いずれが抱くのは、観客である自分達が、闘技場の外側という「安全圏」から感興を得られることのできる、死に直面する剣闘士に対する、生への優越感であった。
やがて戦いのドラが大地を震わせると、観客の狂気の声と共に鎌首をもたげたコルドパイソンが真正面から突っ込んできた!
喉元に迫ろうとするその首が、剣をすり抜け、長さの半分まで来た瞬間、グルカは真横に飛び跳ねる。己の瞬発力を爆発させれば、残りの剣の長さまでに、相手の牙が自分に届くことはない。剣を"ものさし"に見立てた、グルカ絶対の回避策であった。
(虚を突いたところを袈裟斬りで仕留めてやる)
そう思い描いていた勝利の図式は一瞬で覆される。コルドパイソンはグルカの首が元あった場所でガチンッと牙を鳴らすが、それが不発と理解すると、物理法則を無視したような動きで半身を直角に曲げ、グルカに襲い掛かってきたのだ!
しかし、この歴戦の剣闘士は至って冷静だった。剣による斬撃を諦めたグルカは、熱砂の地面に剣を突き刺し、左手に装着した鉄の盾ごと、正拳を打つようにエイヤッ!と蛇の口内にカウンターを食らわせた!
ガギギギギイッ!!と牙と盾が織り成す不快な金属音がグルカの耳をつんざかせたが、まるで意に介さないそぶりで、おもむろに地面から剣を抜くと、グルリと弧を描きながら、まるでハンマーを振り下ろすかのように、体重と遠心力を乗せた剣の柄頭を渾身の力で蛇頭に振り下ろした!
グチャア、と盾と柄頭で挟み込まれた蛇の頭肉から無数の赤い滴が宙に舞う。その場から逃れようと、鞭のように体をしならせグルカの体を締め付けてきたが、動じることなくグルカの左腕は蛇の首をつかんで離さない。
鉄槌は一度では終わらず、容赦なく数十回と繰り返され、その度蛇の尾がビクンッと跳ねる。降り注ぐ血飛沫は盾を、柄を、そしてグルカの肉体を朱に染め上げていった。やがて締め付ける力が弱まり、反応が鈍ってきたことを確認すると、剣を持ち替え頭部を切断する。切れ味の悪い剣はまるで鋸のようにギリギリと少しずつ蛇の頭と胴体を切り離していく。ほとんど千切れかけの状態となったところで腕を振ると、今の今まで盾を噛み続けていた蛇の頭がブツッと切り離され、地面に転がっていく。そして、剣を蛇の頭上ごと地面に突き刺し、グルカは右腕を掲げた。
その瞬間、興奮の渦が巻き起こり、歓声と熱気が竜巻のように闘技場を包み込んだ。グルカは感慨にふける訳でもなく、足元の頭だけとなった蛇を見下ろした。(俺はまだやれるぞ)と言わんばかりに、離れた頭と胴体を未だ活発に動かし続ける、その恐るべき生命力の肉塊を一瞥すると、グルカは剣闘士達が待つ待機所へと戻っていくのだった。
②
「やるじゃねえか。これで90勝目か」
男たちの血と汗でむせ返る、据えた匂いの広がる待機所に戻るや否や、痩せこけた"歯欠け"の男に声を掛けられた。
(この前来たジャンとかいっていたな……)
しゃべり好きで元盗賊であるこの男は、自分の戦いが始まる前だというのに、にやけた顔でそこらの剣闘士たちと雑談を交わしていた。そこから、剣闘士で最も強いとされるグルカの噂を聞いていたのだ。グルカは男の挨拶を無視し、待機所の隣にある武器庫に、戦いで使用した剣と盾を元に戻した。
「愛想がわるくていけねえや。次は俺っちの番だからな。少しぐれえお前さんの"ツキ"をくれや」
そう言いながらジャンも武器庫の中に入ると、おもむろに、壁に掛けられた、青銅でできたショートダガーを二本取り出した。
「やっぱり俺っちが使う獲物はコイツじゃねえとな」
ジャンは刃渡り10センチくらいのそれを逆手に握り、シュッシュッと軽く素振りをしてみせると、「じゃあな。せいぜいやってくるわ」と言い、足早に闘技場に繋がる廊下に向かっていった。
(おいおい、そんな武器で戦うとは正気か?)
グルカは言葉を放とうとしたが、闘技場の"無知な新参者"がきまって辿る末路を思い浮かび、言うのを止めた。
続くジャンの試合、対戦相手の獣はエンシェントグリズリー。北洋の海域にしか生息しないといわれるヒグマの亜種で、人間の二回りほどの大きさの、比較的小ぶりなものだったが、その分、凶暴さは一般的な熊とは比較にならない。闘技場の初戦を歓迎するにはそこそこ手頃な相手だと言える。しかし……
「あいつ、終わったな」
「ああ」
待機所から闘技場の舞台をながめる剣闘士たちは口々にそういうと、冷たい視線をジャンに送っていた。
毛皮の上からでは分厚い脂肪に阻まれ、あの程度の長さの刃では内臓を傷つけることすら不可能であろう。ジャンは武器選びの時点で失敗したのだ。グルカも冷徹に状況を分析していた。そして、その後の光景を想像し、久々にとる食事がまずくなる、とその場を後にした。
「あいつ、若いネエチャンに抱かれて死にたいって言ってたな」
「五歳の雌だ。おあつらえ向きじゃねえか」
③
「あと10勝か……」部屋の天井を眺めながらグルカは独りつぶやいた。この闘技場では100勝するまで、剣闘士は外に出ることが許されない、という鉄の掟がある。なぜなら、剣闘士は自らなろうとするものではなく、もっぱら罪人として裁かれるものや、戦争が終わり食い扶持を失った傭兵、貧しい村から一縷の望みに賭け大金を得ようとするもの等、いずれもやむにやまれぬ事情を抱えたものが、なるものであったからだ。しかし、こうした立場の人間同士を戦わせても大して面白味はないし、お互いに殺し合いをさせるとすぐに「駒」が尽きてしまう。
そう考えた闘技場の支配人は、どこからか調達してきた多種多様な獣と人間を戦わせることを考案した。さらに、剣闘士側には事前に対戦相手が知らされず、その状態で武器を選ばなければならない。このシステムが見るものに緊迫感を与え、既に戦争が終わって久しいこの国の国民にとって最大級の余興事となっていき、大金が動くことも相まって、最早国と同等以上の権力を有するまでに至った。かつて、戦士たちが名誉を賭けて命をかける場所であった闘技場は、今や熱狂のカタルシスを産む狂宴のるつぼと化していた。
しかし、グルカにとっては、剣闘士達の事情も世の中の世事にも全くといって興味がなかった。物心ついた頃から闘技場という名の檻のなかで生きてきて、月に一度の戦いを繰り返し幾数年。世間では成年とされる年齢ではあったのだが、自分の年すら正確に分からなかった。そして、彼の知る限り、未だかつて100勝を達成した剣闘士もいなかった。
④
グルカが闘技場で生きてきた経緯についてもう少し語ろう。彼の父親も剣闘士で、その名はバルザスといった。バルザスは元々この国の上級指揮官で、平民から成り上がった勇猛な男であったが、既に婚約者のいた、国の第三王女と姦通した罪で剣闘士に堕とされてしまった。王女は孕んでおり、下賤の血が流れているということを理由に、生まれた子もすぐに処刑されるはずであった。しかし、王女の手引きによって、国の力が唯一及ばない、治外法権の外にある闘技場に送られるのであった。その赤子は木籠に布で隠すように包まれていた。中には、「グルカ」の文字が柄に刻まれた、太陽を表す紋の入った、赤子と同じくらいの長さの短剣だけが入っていた。それは王家に伝わる宝剣で、柄の文字はこの国で「猛きもの」を冠していた。
既に数度も死線を越えていたバルザスは、自分と同じように堕とされた我が子と邂逅を果たすと、天に向かって慟哭した。そして、汗と埃まみれの腕で抱きかかえると、その子を剣と同じグルカと名づけたのだ。それから、闘技場の中での二人の生活が始まった。
元々無骨で寡黙な男であったバルザスは、読み書きよりも先に剣の振り方を息子に学ばせた。と言っても直接口で教えるのではなく、修行している様子を横で見させていただけであったが。グルカもそれ以外知らぬ、といった体で、遊具の代わりに木剣を振り回すことを日常としていた。そして、自分の字名が付いた宝剣を、毎夜星や月の光にかざし、その輝きに見惚れていた。そうして、まるで子供が人形を抱くように、剣を大事に抱えながら眠りにつく、それが彼の幼少時代の過ごし方であった。父の戦いがあれば、待機所の窓から身を乗り出し、父の名を呼び鼓舞し続けた。バルザスもそれに応えるかのように、勝ち続けた。
しかし、彼は勝ちすぎてしまったのだ。賭けが成立しないことを理由に、支配人から目を付けられたのがバルザスの運の尽きであった。当時最強の獣であった、サーベルタイガーとシベリアトラを交配させた剣闘虎のガオウ(牙王)と、試合を組まされたバルザスは、奮闘の甲斐なく、はらわたを喰い破られ絶命した。まるで神の化身のような青く美しい毛並みを纏うその獣が、父の肉で腹を満たす一部始終をグルカは歯を食いしばりながら眺めていた。父から遺されたのは、彼が闘技場で愛用していた、持ち手よりも倍ほどの長さの、両刃が付いた片手斧だけであった。
⑤
バルザスを弔う間もなく、グルカも闘技場に出ざるをえなかった。これまでは、父の庇護の下、食住が保障されていたが、この先生きていくには、自身の力で糧を勝ち取っていく必要があったからだ。
グルカの初めての対戦相手は、体長2メートルを超える、ギガントボアと呼ばれる、オオツノイノシシだった。まだ十歳にも満たない少年には10倍の賭け金が設定されたが、彼は全身を血みどろになりながら辛くも勝利した。それから先、グルカの戦いはもれなく死闘であった。
「生物」とは「生きる物」であり、己の本能に従い、日々の生存闘争を生き抜くものたちをさす。そうした相手と命のやり取りをするのだから、グルカにとってただの一つも楽に勝てる戦いなどありはしなかった。
だが、父から受け継いだ戦闘の知識やセンス、闘技場で一生を過ごしてきたことで得た、対戦相手となる獣の特徴や、相棒となる武器の特性への理解が、彼を勝利に導いていった。その内に、剣だけでなく、斧や槍など、あらゆる武器を使いこなす、闘技場の覇者として君臨していた。
⑥
91、92、93……と勝利を重ねていたグルカは、ある時、支配人室に来るよう命じられた。これは彼にとって初めてのことであった。
(とうとう目を付けられたか……)
グルカは闘技場の奥にある支配人室に向かう回廊を歩く道中、父が勝ちすぎた結果によって、最凶の獣と戦わされ、無惨に殺されたことを思い出していた。
やがて部屋の前にたどり着くと、外から微かな獣臭が漂ってきた。グルカが少しだけ緊張感を高めながら入ると、そこには異様な光景が広がっていた。広間といっても差し支えないそのだだっぴろい空間は、豪華なペルシャ絨毯が敷かれ、絵画や銅像が立ち並び、さながら王宮の一室のようだ。それだけであれば単に趣味の悪さを露呈しただけであったが、部屋の奥には、煌びやかな装飾が施された真鍮の机を取り囲むように、無数の檻が壁際に並んでいた。
(匂いの出所はこいつらか)
そして、机には肘をついた中年の男が、深紅に染まる血のような葡萄酒を飲んでいた。男の頭は禿げ上がっており、右目と左足が無い。代わりに、黒い眼帯と義足を付けていた。
「調子がいいようだな」
「……」
威圧感のある男の低い声に動じることなく、返答もしないまま、グルカは男の向かいにある椅子に腰掛けた。
「もうすぐ100勝だ。ここを出たらどうする気だ。母親にでも会いに行く気か?」
「……」
グルカはバルザスから自身の出自について聞かされていた。もし運命が流転していれば、王家の家系に連なる可能性があったことを。だが、これまでグルカは父を恨んだことも母に会いたいと思ったこともなかった。
「まあいい。ここまできたおめえにあえて言う必要もねえが、あしたを夢見ちゃいけねえ。今だ。今この瞬間(とき)だけ生き残ることを考えるんだ。そうしねえとおめえも親父と同じ目にあうぞ。ヤツは100勝しておめえと一緒にここを出ることを思い描いていた。それが戦いのカンを鈍らせたんだ。その一瞬を見逃してくれるほど、俺様の獣たちは甘かねえ」
男の言葉に、檻の中の獣たちの目が一斉にギラリと光る。獲物を狙う鈍色のくすんだ邪光は、見るものをすくませる恐怖の瞳を備えていた。自然の中で自由に生きてきた彼らは、暗くて狭い檻に閉じ込めた元凶である人間たちへの憎悪を膨らませ、いつか巡ってくる復讐の機会を虎視眈々と狙っていた。一方で、支配人はこの部屋で、獣たちから発せられる死の視線を浴びながら愉悦に浸っていた。どうあれいずれ死にゆく獣たちに、自身の支配者としての立場を重ね合わせ、闘技場の観客達と同様「生」への実感を顕著にする。それはどんな美酒よりも極上の味わいで男を陶酔させるのだ。
「俺は、俺の戦いをするだけだ」
グルカは一言だけ発し、支配人室から出ていった。
「せいぜい頑張りな」
男はひとりになった部屋で、誰に聞かせるともなく呟いた。そうして、机上に飾られた、頭だけのハイイロオオカミのはく製を愛おしそうに撫でた。その骸はかつて、男の目と足を奪ったものの成れの果てだった。
⑦
支配人の男と話を終えると、グルカは自室に戻っていった。自室といっても、乾いた藁を敷き詰めた粗末な寝床と、便所用の欠けた陶器の壺が置かれただけの、外側からしか鍵のかからない、監獄同然の場所だ。だとしても、グルカにとっては、そこだけが、己の孤独を愛せる空間であった。目を閉じ、この先のことを考える。闘争を日常とする世界を生きてきた彼には、闘技場の外の世界等、考えるべくもなかった。生や死に執着することなく、淡々と己を鍛え上げてきた結果が後からついてきただけのことだった。だとすれば、果たして100勝を超えた先には何があるのだろうか。グルカは答えを見いだせないでいた。それは、闘技場という世界のなかでただ一人、「生」への希求がない生き物の迷い、或いは純粋さであった。
その後も激闘は続いていった。97、98、99……と支配人が用意した凶悪な魔獣たちを、険しい山を踏破するかの如く、グルカは一つずつ粉砕していった。
そして、100戦目の朝が訪れた。
⑧
朝、グルカはいつもと同じ様子で目を覚ました。戦う前の習わしで、三日前から食事は取っていない。神経を鋭敏にするのと共に、万が一敗北した時、闘技場を己の糞尿で汚さない為だ。
下準備を整え待機所に向かう。辺りを見渡せば剣闘士達が羨望と嫉妬のまなざしでグルカを見つめていた。グルカの見知った顔は、もはやただの一人も残っていなかった。誰に話しかけることもなく武器庫に入ると、剣、槍、鎚、様々な武器が並んでいたが、今日の戦いに用いる武器は予め決めていた。父が遺した鋼鉄の片手斧だ。それは、父が愛用していたという感傷的な理由もあったにせよ、その広く大きい刃を正面にかざせば大盾にもなり、両手で思い切り振り下ろした時の破壊力は剣の比ではない、という質実的な意味をも兼ね備えていた。重すぎて扱えるものがグルカ以外にいない、という理由で脇に追いやられていたそれを強く握り締める。さらに、背丈の半分ほどの長さの鉄の短槍をもう片方の手に取り、腰には母から託された剣を携えた。準備は整った。
廊下を抜け、戦場に降り立つグルカに、闘技場の観客達は割れんばかりの歓声をあげた。その絶叫は天にも響かんばかりに、グルカの全身の毛をビリビリと逆立たせる。その、むずがゆい肌の粟立ちを感じながら相対する向かいの檻を見やると、これまでよりも一際大きいその檻から出てきたのは、水鏡のように澄んだ蒼白の毛並みをもつ獣であった。グルルルルゥと低い唸り声をあげながら悠然と姿を現す。あまりにも神秘的なそのいでたちに、闘技場は一瞬冷気に包まれた。しかし、その姿を見たグルカは只一人異なっていた。
(アイツはかつて父を殺した獣の仔だっ!!)
そう確信すると、グルカの体内から、燃え滾るマグマのように、アドレナリンが一気に噴出しはじめた!いつもは冷静なグルカは己の野性が爆発するのを必死に堪え、歯をギチギチと噛み鳴らす。獣に対し明確に殺意を持ったのは父が殺されたあの時以来だ。
一方獣は、人を、世界を、全てを憐れむような視線で周囲を見渡すと、大空に向けて、己の存在を誇示するようにアォォォォンと咆哮を上げた。
かつてガオウと呼ばれた、バルザスを殺めた獣の子孫であるそれは、尊敬と畏怖の念を込め、ビャッコ(百琥。東方で伝説上の神獣を表す言葉)と名付けられた。支配人はいずれこの戦いが来ることを予見し、グルカに会わせないよう今の今まで秘蔵していたのだ。ビャッコもまた、グルカと同様に、外の世界を知らずにこの闘技場という檻のなかで生きてきた。
闘技場のボルテージは最高潮に達していた。間もなくグルカ最後の闘いが始まる。
⑨
ゴオオオオオオオン。ドラムの音が鳴り響くと、グルカは斧と槍をそれぞれの手に持ち、一直線にビャッコに向かって突っかけていった!
相手の出方を伺いながら慎重に戦ってきたこれまでの戦い方と異なり、先手必勝で攻め込むグルカの振る舞いに、序盤からクライマックスを感じ取った観客はざわと沸き立つ。そして、グルカは万の力をもちい、目の前の獣に向かって戦斧を大きく振りかぶる!
ガキィーーーーーン!!
しかし、嵐のようなその一撃を、獣の王はまるで蠅を追い払うかのように、人の胴体ほどもあろう前腕で薙ぎ払う。ビャッコの爪によって斧は弾かれ、まるで木の葉が突風で舞い散るがの如く、グルカは数メートル吹き飛ばされ、頭から地面に叩きつけられた。
……
何事が起きたか誰も理解できず、まるで時の流れが凍りついたように静かになった。
ドク。ドク。ドク。
されど、頭から流れる血が、心臓の鼓動が、時を刻み、グルカ自身に生きていることを理解させた。そして、数瞬の間は、彼に軽い脳震盪を起こさせた代わりに、平静を取り戻させることに成功した。
(俺は、一体何をした。どうなったんだ。……体は、動く。まだ、やれる!)
気づいてようやく、槍を杖代わりにし、踏ん張りながら立ち上がる。その間も、ビャッコはその場から動かず、グルカのことを平然と見下ろしていた。
(力も速さもヤツの方が数段上。真正面から戦っても無駄死にするだけだ)
グルカは纏わりつく死のイメージを振り払うかのように大きく深呼吸する。酸素が体内を循環し、血が駆け巡る。思考は驚くほど鮮明になる。そうして、ビャッコを見据えたまま、屈み込むようなポーズを取った。両足で大地を踏みしめ、左手で地面を支え、右手に斧を握り締める。遠目にはその姿がまるで四足獣のようにみえた。ビャッコは、目の前の小さきものがどう出てくるか値踏みしながら、グルカの姿を捉えたまま、八の字にぐるうりと回る。やがてピタッと体の動きを止めると、
(今度はこちらからいくぞ)
と言わんばかりに信じられない速度でグルカに襲い掛かってきた!
一方グルカは、相手が向かってくるのをじっくりと待ち構える。そして、斧が届く数歩手前で振り上げた!
空振る斧にビャッコは少しだけ身じろぐ。それもそのはず、グルカは、斧の刃の部分に掌に収まるくらいの砂を載せ、ビャッコの顔面めがけぶちまけたのだ。
射程外からの思わぬ"目くらまし"は獣の動きを止めるのに十分だった。グルカは続けざま、地面に置いた槍を器用に足ですくい上げると、空いた左手で投げやりの要領で獣に向かって投げ打った!
一閃!光の筋が鋭くビャッコの肩の肉を抉り、鮮血が地面を濡らす。
(今だ!!)
グルカはそれが致命傷にならないことを承知の上で飛び込んだ。射程の外から嬲られたら勝ち目はない。本当の狙いは獣の懐に入ることだ。
だがしかし、ビャッコは野生の勘で相手の動きを察知すると、圧死せんと、飛び込んてきたグルカのさらに頭上からのしかかってきた!
巨体が降り落つさまに、グルカは咄嗟に斧を前面にし身構える。
ズーーーーーン。
砂埃が舞う。獣の下敷きとなったグルカに体中の骨が軋むような衝撃が走る。あばらのいくつかは耐えきれず、まるで薄氷が割れるように音を立て崩れ去った。
ビシャッ!
内臓が押しつぶされる。圧迫され行き場を失った大量の血が目や口、耳から吹き出し、辺りをまき散らす。辛うじて両腕は動かせたが、それ以外は獣の体に押し付けられ、身動きが取れなくなった。
斧も槍もどこかに吹き飛んでしまっていた。その絶体絶命のなか、ガァ、と最期のとどめをささんとビャッコが虎口を開く!
しかし、全てを破壊するその牙は、グルカの頭蓋を噛み砕かんとする直前で動きを止めた。
いや、正確には、目前に差し出された、筋肉の詰まったグルカの右腕に反射的に噛みついたのだ。それは、腹を空かせた肉食獣が抗うことのできない、絶対の本能だった。
ぞぶり。
グルカの右肘より先の部分がごっそり削られ、黒に飲み込まれる。間隙を縫う刹那。腕を代償に得た一瞬の勝機。グルカは必死になって腰の短剣を抜くと、首元の頸動脈めがけ突き刺した!
ヴォォォォォォォォン。
思いがけない急所への痛撃にビャッコはあばれ狂い、絶鳴が闘技場内にこだまする。グルカは、振り落とされないように無くなった腕と両足で首にぶら下がりながら、深く奥へ奥へと剣を突き刺していく。
その先に、太い荒縄のような感触を確かめると、切断せしめんと剛腕を振るい、力任せに一気に真下に引き落とした!!
……ぶつんっ。
それはまさしく致命の一撃だった。
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥン。
首や口からぼこぼこと血の泡を噴き出し、砂煙と共に崩れ落ちるビャッコ。伏していたグルカはやがて決着がついたことを確信し、ゆっくり。ゆっくりと立ち上がる。勝利の喜びはなく、悲哀に満ちた表情は目下のあわれなけものを見つめていた。
(おまえはこんな世界でも生き続けたかったか?俺は……)
英雄の勝利を称える周囲のわめき声をよそに、グルカの心は乾いた砂漠のように空虚であった。
⑩
闘いは終わった。グルカは闘技場から出ることを許され、ビャッコに止めをさした短剣だけを手に、これまでの勝利で得るはずの金も受け取らずに、出ていった。
片腕を失い、戦えなくなったグルカに、支配人の男も剣闘士としての興味を失った。賭けの対象にならなくなったお荷物には一刻も早くこの場から出てもらいたかった。しかしそれは表面上で、闘技場の中でしか生きてこなかったグルカに対し、男も気づかないところで何らかの情があったのだろう。別れの際には、おまえはおまえだけの人生を自由に生きていけ、とだけ寂しそうに短い言葉を贈るのであった。
初めて闘技場の外の世界に足を踏み出したグルカは、感傷に浸る間もなく、すぐそばにある集団墓地を訪れていた。そこには、戦いで死んでいった剣闘士達の墓があった。
(ここに父の亡骸があるわけではない。それでも)
グルカは、ただ一つの持ち物である剣を墓標に突き刺した。そして、どこを目指すこともなく、荒れ果てた野に向かってひとり歩き始めた。それは、未知の世界を往く青年の第一歩だった。
(おわり)
剣闘士グルカ @matora
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます