第37話 粉河寺

「お頼み申します、願海がんかい様はおられますか」


 おとなう為恭の前に現れた願海が驚きに目を見開いた。


「為恭、様……どうなさったのですか」

「お久しゅうございます、願海様」


 ともかく中へと案内された為恭と綾野は、願海にこれまでのことを話した。


「……そうでしたか」

「ご迷惑は重々承知やけど、どうかかくもうていただけまへんやろか」

「もちろんです。いつまででもかまいません。ここにおいでください」


 こうして為恭は粉河寺こかわでら御池房みいけぼうという落ち着き先を得る。しばらくの間は寝つけなかったり夜中に飛び起きたりしていたが、少しずつ生気のある顔をするようになってきた。

 そのうちに書き物ができるくらいには為恭の気持ちも落ち着いたようで書院に籠もり写経を始める。一文字ごとに信心を写す。

 できあがった写経に弘法こうぼう大師だいしの筆と伝わる紺地こんじ金泥きんでいの心経を一巻付けて綾野の前に差し出した。


「これを神光院じんこういんの和尚さんに届けてほしい。私が感謝しとったと、くれぐれもよろしゅうお伝えしてくれ」

「わかりました。他にご用は」

「絵の具と絵筆を頼む」


 綾野は嬉しそうに目を輝かせた。


「いつでも描けるように準備してあります」

「うん、おおきに。願海様のために仏さんを描こて思とる」


 それからの為恭が手がけるものは仏画が多くなった。

 願海のためであり、己のためである。仏に縋り、信心を表すことで心が落ちつく。絵筆が走る。鮮やかな色彩が紙におどる。


 山の稜線に沿って写実的に描かれた松林が伸びていく。その手前にある大ぶりな桜の木は、山の中腹であでやかにその手を広げる。鹿の遊ぶ開けた場所からは滝が音を立てて流れ落ちる様子が見えている。

 見上げれば山の向こうに阿弥陀如来の姿。その手に縋りゆく道は浄土へと続く。


 この『山越やまごし阿弥陀如来図あみだにょらいず』には「心蓮しんれん光阿こうあ」と落款らっかんがある。

 粉河寺に着いた時に願海がつけてくれた名だ。それまでは居心地悪そうにいつも頭を撫でていたが、この名付けのおかげで僧形であることに折り合いをつけられたのかもしれない。名をもらってからはそれをしなくなった。


 ひとつ描き上げると、いつもの調子が戻ってくるらしい。

 先日は高野山で『不動明王ふどうみょうおう三童子像さんどうじぞう』の模写をした。粉河寺に為恭が居ると付近の住民が知るようになってからは、絵の揮毫きごうを頼まれることも増えている。


 為恭が藩内で絵を描くことについて紀州徳川家は寛大だった。

 このことは徳川御三家のひとつであり、攘夷派の動向をおもしろく思っていなかったことや、京狩野が紀州藩お抱えの絵師だったことに起因する。その庇護の元、為恭はようやく羽を伸ばすことができた。


「綾野、藤崎ふじさきへ行く」

古岳こがく様のところですか」

「絵を描いてもええ言うてもろたし、しばらく古岳庵こがくあんに滞在する」


 いおりに近づくにつれて琴の音が聞こえてくる。嬉しそうに足を運んでいた為恭が立ち止まり目を閉じた。


「ええなあ、琴の音が紀ノ川きのかわけてくようや」


 綾野は琴に聞き入っている為恭をつつく。


「為恭様、そろそろ参りませんか」

「わかっとる。伺うのを忘れたりせえへんわ」


 為恭が本当かとからかうようにのぞき込んだ綾野に言い訳をする。ふくれっ面が楽しそうだ。


 琴曲きんぎょくを伝授され錬磨を重ねた古岳上人は技芸の妙に至ったという。だが高野山というところは音曲を教えても奏でることに厳しい。戒律に反するのだ。古琴こきん一張いっちょう、背に負った古岳は、遠くに高野山を望み近くには紀ノ川が流れる藤崎に庵を結んだ。

 風雅を友とし琴をだんじる。松の木の下、優しげな風貌の『古岳上人像』にも光阿こうあと落款が入れられた。


 古岳の元で琴を聞いたり詩作をしたりして過ごす為恭の表情は穏やかだ。日々、絵を描き和歌を詠む。為恭にとって美しいものに触れることはなによりも嬉しいことだったので、思いがけずも贅沢ぜいたくな時間を過ごしていた。


 ともすれば追われている身だということを為恭自身が忘れそうになる。それほどに粉河寺の日々は久しぶりにのびのびと過ごせる穏やかで豊かなものだった。


「為恭様、出歩くのもいいですけど少しは自重してください。攘夷浪士が絶対に来ないというわけではないんですから」


 綾野の苦言もどこかのんびりした口調になっていた。これではまずいと思いながらも粉河寺と紀州藩に甘えている。


「せやなあ。けどこないに穏やかやったら、もう私のことなんぞ忘れてしもたんやないかて思うわ」


 調べてこようかと綾野は言った。だがそれを聞いた為恭が首を竦めて肩を抱く。

 うっすらと聞こえてくる浪士の動向をはっきりと知ればまた眠れなくなるとしり込みした。


「それを知るのは恐ろしゅうてかなわん」


 知らぬことで穏やかに過ごしたいのが為恭なら、綾野は知ることで安心を担保したい。やはり現状を調べておこうと心の内に決めた。もしも切迫した事情があれば、その時伝えればいい。その場は話を引っ込めた。

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