第35話 攘夷浪士からの逃亡
尚忠の閉居と同じ頃、酒井
そしてほぼひと月の後、為恭への斬奸状に名の出た島田左近は
それが
「為恭様。俺、少し外を見回ってきます」
このところ毎日のように綾野は日が落ちると外へ出る。ひとりで見回るには限界もあるだろうが脅威があるなら少しでも早く見つけたかった。
「なにもないとは思いますけどね、外には出ないでくださいよ」
口調だけは軽く、綾野は出かけていった。
まだ暑さが残る京の
外を歩くのは目をぎらつかせた攘夷浪士という獣たち。酒に酔い、己に酔い、刀に酔う。飛び火を避ける京の人々が早くに姿を消すのも大袈裟なことではないのだ。
「落ち着かんなあ」
落ち着かないのは為恭だけではない。外から入り込む暑さだけではない空気に寝つけぬ者も多いだろう。
熱の残る夏の夜にため息を吐き出し、為恭は画室でひとり絵筆を握った。少し筆を動かすと気持ちが落ち着いてくる。少しずつ暑さが抜け、夜が更けていく。
もしや気にしすぎだったのかと、そう思った時だった。
出るなという綾野の声を思い出し、為恭は首を
「このような時分にどなた様でございましょう」
しつこい訪いに根負けしたらしい綾衣の声がした。
「岡田為恭はおるか」
「ご用でしたら日のあるうちにお出でいただけませんこと?」
素知らぬ顔で権高に言い放った綾衣に大楽はぎろりと目を向ける。
「では冷泉為恭はおるか」
御所に務める者としても絵師としても知られている。ここが為恭の家だと確信があっての問いなのだ。何をされるかわからない。不在で通そうと綾衣も覚悟を決めた。
「
「どこへ行った」
それ以上は言う必要がないと不愉快を隠さず応えを拒む。
「隠し立ては為にならぬぞ」
「……狩野の家ですわ」
「あんたはご
「
その目と浮き上がる白い肌が大楽の心を焼いた。
今、ここにいるのは高嶺の花ではない。自分の手の届くところに咲いている、手折って散らす里の花だ。
「……いい女だな、あんな男はやめて俺といい仲になれよ」
「本当に無礼ですわね」
「無礼で結構」
大楽の頬を打とうとした綾衣の手が軽々と止められた。握られた手首は朱に染まる。
「痛っ」
楽しそうに笑い声をあげる大楽は歪めた顔を綾衣に寄せた。
「また来る」
耳元で
大楽は通りで待っていた侍の元へ戻ると、加納の家だと低い声で告げた。
歩きながら大楽の心は為恭ではなく綾衣に向いている。
綾衣に触れた。陶器のような白い肌は熱く
「……大楽さん?」
「なんだ」
「聞いちょられんのかと思いましたよ。どうしますか」
「行った先が
暗い情熱を込めて大楽が言った。
彼らが去った後、帰ってきた綾野は
「ともかく為恭様が出られなかったのはよかったです。綾衣様、ありがとうございました」
「すまんかったなあ、綾衣には怖い思いをさせてしもた」
あの恐ろしさは対峙した本人でなければわからない。だが綾衣が見せたのはどうということもないというすまし顔だった。綾衣なりに心配をかけまいとしているのだろう。
その握りしめた拳が震えているのを見た綾野は少し思案していたが、つと顔を上げる。
「為恭様、ここを出ましょう」
どう考えても家を見つけられたのは危ない。なにしろ為恭と綾衣以外は下人だけという心許なさなのだ。
踏み込まれ捕まるだけならまだしも、最悪は殺されるかもしれない。ならば一旦ここを離れ、ほとぼりが冷めてから戻るという対策は有用ではないか。
「高山寺に行ってしばらく匿ってもらおか」
「難しいかもしれません。どなたかご相談できる方は?」
「この時分に頼れるんは……せや、
うなずいた綾野は為恭を見据えて言った。
「戻らないつもりで準備してください」
それを聞いた綾衣が息をのむ。
「それほど、危険、なのですか」
「わかりません。攘夷派と公武合体派の間を行き来するのがよくないにしても、せいぜい利用されていると思っているのだろうと、そう考えていました。ここまで目をつけられる理由がわからないんですよ。綾衣様もできるだけ早く、ご実家やご親類を頼られたほうが安全だと思います」
「私を連れて行ってはくださいませんのね」
逃避行は女の足ではなかなか厳しい。それは致し方ないことではある。
顔を伏せ悲しげな綾衣を為恭が抱きしめた。
「危険やないいうことがわかったら必ず戻ってくる。それまで待っとってくれへんか」
「……あまり遅いと
「綾衣、そら困る言うたやろ」
「お願いですから必ず戻ると約束してくださいまし」
ふたりを見る綾野は少し困ったような顔をしていたが、それではと立ち上がり支度を始めた。
尋ねていった為恭を夜分にも関わらず家へ上げてくれた。
「為恭様、この夜分に来られるということは例の件でしょうか」
「ようおわかりですね。さすが攘夷派のお人ともおつきあいのある方や。私を突き出しはりますか」
「そんな気があったら為恭様はもう捕まってますよ」
最後まで警戒していた綾野は、そこでようやく息を吐いた。
「奥村様、為恭様を
「高山寺は為恭様がいつもいらっしゃるのを相手も知っているのではないでしょうか。むしろ西賀茂の
綾野の問いに
「神光院いうたら
「ええ、気骨のあるお方ですし、かつて剣を取っていた頃は腕前も大したものだったと聞いております」
為恭はそのまま奥村の家を立ち、夜更けの道を神光院へと急いだ。
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