第35話 攘夷浪士からの逃亡

 尚忠の閉居と同じ頃、酒井忠義ただあきも京都所司代を御役御免となった。

 そしてほぼひと月の後、為恭への斬奸状に名の出た島田左近は田中たなか新兵衛しんべえによって殺され、四条河原に首をさらされる。

 それが天誅てんちゅうの始まりだった。この先、京は血で染まることになる。


「為恭様。俺、少し外を見回ってきます」


 このところ毎日のように綾野は日が落ちると外へ出る。ひとりで見回るには限界もあるだろうが脅威があるなら少しでも早く見つけたかった。


「なにもないとは思いますけどね、外には出ないでくださいよ」


 口調だけは軽く、綾野は出かけていった。

 まだ暑さが残る京の夏夕なつゆう。だが日暮れとみれば、途端にばたばたと戸が立てられていく。

 外を歩くのは目をぎらつかせた攘夷浪士という獣たち。酒に酔い、己に酔い、刀に酔う。飛び火を避ける京の人々が早くに姿を消すのも大袈裟なことではないのだ。


「落ち着かんなあ」


 落ち着かないのは為恭だけではない。外から入り込む暑さだけではない空気に寝つけぬ者も多いだろう。

 熱の残る夏の夜にため息を吐き出し、為恭は画室でひとり絵筆を握った。少し筆を動かすと気持ちが落ち着いてくる。少しずつ暑さが抜け、夜が更けていく。

 もしや気にしすぎだったのかと、そう思った時だった。

 おとなう声がする。

 出るなという綾野の声を思い出し、為恭は首をすくめた。筆を置き、灯を消す。

 執拗しつように呼ばわる声がする。


「このような時分にどなた様でございましょう」


 しつこい訪いに根負けしたらしい綾衣の声がした。


「岡田為恭はおるか」


 枝折戸しおりど越しに朱鞘しゅざやの侍の姿がある。それはここ最近よく見かける顔だった。


「ご用でしたら日のあるうちにお出でいただけませんこと?」


 素知らぬ顔で権高に言い放った綾衣に大楽はぎろりと目を向ける。


「では冷泉為恭はおるか」


 御所に務める者としても絵師としても知られている。ここが為恭の家だと確信があっての問いなのだ。何をされるかわからない。不在で通そうと綾衣も覚悟を決めた。


他行たぎょうしておりますわ」

「どこへ行った」


 それ以上は言う必要がないと不愉快を隠さず応えを拒む。


「隠し立ては為にならぬぞ」

「……狩野の家ですわ」


 つばに指をかけた様子を見せられては綾衣も答えざるを得ない。渋々ながらの返答だったが大楽は唇をつり上げた。


「あんたはご内儀ないぎか。まさか嘘をついてはおらぬだろうな」

わたくしは休もうとしていただけです。そもそもこんな時分に来るのは無礼だと思いませんの?」


 にらみつける綾衣の目が提灯ちょうちんの灯に当たり燠火おきびのようにちろちろと燃える。

 その目と浮き上がる白い肌が大楽の心を焼いた。


 今、ここにいるのは高嶺の花ではない。自分の手の届くところに咲いている、手折って散らす里の花だ。とらわれたは恋心か妄執もうしゅうか、かつての初心うぶな大楽とは様子が違った。綾衣から目をそらさず、そのおとがいに手をかける。


「……いい女だな、あんな男はやめて俺といい仲になれよ」

「本当に無礼ですわね」

「無礼で結構」


 大楽の頬を打とうとした綾衣の手が軽々と止められた。握られた手首は朱に染まる。


「痛っ」


 楽しそうに笑い声をあげる大楽は歪めた顔を綾衣に寄せた。


「また来る」


 耳元でささやき、綾衣の手首を放つ。

 大楽は通りで待っていた侍の元へ戻ると、加納の家だと低い声で告げた。

 歩きながら大楽の心は為恭ではなく綾衣に向いている。

 綾衣に触れた。陶器のような白い肌は熱くつやめいて柔らかかった。燃えて睨む目はなぶりたいほどに蠱惑的で愛おしい。歪んだ笑みが浮かんだ。


「……大楽さん?」

「なんだ」

「聞いちょられんのかと思いましたよ。どうしますか」

「行った先が与力よりき加納かのう繁三郎しげさぶろうなら黒じゃろう。証拠を固めたら踏み込む」


 暗い情熱を込めて大楽が言った。

 彼らが去った後、帰ってきた綾野は顛末てんまつを聞くと驚いたが、ひとまず無事を喜んだ。


「ともかく為恭様が出られなかったのはよかったです。綾衣様、ありがとうございました」

「すまんかったなあ、綾衣には怖い思いをさせてしもた」


 あの恐ろしさは対峙した本人でなければわからない。だが綾衣が見せたのはどうということもないというすまし顔だった。綾衣なりに心配をかけまいとしているのだろう。

 その握りしめた拳が震えているのを見た綾野は少し思案していたが、つと顔を上げる。


「為恭様、ここを出ましょう」


 どう考えても家を見つけられたのは危ない。なにしろ為恭と綾衣以外は下人だけという心許なさなのだ。

 踏み込まれ捕まるだけならまだしも、最悪は殺されるかもしれない。ならば一旦ここを離れ、ほとぼりが冷めてから戻るという対策は有用ではないか。


「高山寺に行ってしばらく匿ってもらおか」

「難しいかもしれません。どなたかご相談できる方は?」

「この時分に頼れるんは……せや、表具師ひょうぐしの奥村はんはどうやろ。あの人なら世の裏も表も知ってはる」


 うなずいた綾野は為恭を見据えて言った。


「戻らないつもりで準備してください」


 それを聞いた綾衣が息をのむ。


「それほど、危険、なのですか」

「わかりません。攘夷派と公武合体派の間を行き来するのがよくないにしても、せいぜい利用されていると思っているのだろうと、そう考えていました。ここまで目をつけられる理由がわからないんですよ。綾衣様もできるだけ早く、ご実家やご親類を頼られたほうが安全だと思います」

「私を連れて行ってはくださいませんのね」


 逃避行は女の足ではなかなか厳しい。それは致し方ないことではある。

 顔を伏せ悲しげな綾衣を為恭が抱きしめた。


「危険やないいうことがわかったら必ず戻ってくる。それまで待っとってくれへんか」

「……あまり遅いとわたくし、浮気をしてしまいますわよ」

「綾衣、そら困る言うたやろ」

「お願いですから必ず戻ると約束してくださいまし」


 ふたりを見る綾野は少し困ったような顔をしていたが、それではと立ち上がり支度を始めた。

 奥村おくむら蒿菴こうあんの家は代々、表具師を生業なりわいとしていた。蒿菴は歴代中もっとも腕が良く、表具の達人と言われている。国学、儒学に通じ、尊王攘夷派の学者や浪士とも深く交わりを持つ人物でもある。

 尋ねていった為恭を夜分にも関わらず家へ上げてくれた。


「為恭様、この夜分に来られるということは例の件でしょうか」

「ようおわかりですね。さすが攘夷派のお人ともおつきあいのある方や。私を突き出しはりますか」

「そんな気があったら為恭様はもう捕まってますよ」


 最後まで警戒していた綾野は、そこでようやく息を吐いた。


「奥村様、為恭様をかくまっていただきたいのですが高山寺はどうでしょう」

「高山寺は為恭様がいつもいらっしゃるのを相手も知っているのではないでしょうか。むしろ西賀茂の神光院じんこういんのほうが安全かと思います」


 綾野の問いに蒿菴こうあんがすぱりと答えた。


「神光院いうたら月心げっしん和尚様のとこですか」

「ええ、気骨のあるお方ですし、かつて剣を取っていた頃は腕前も大したものだったと聞いております」


 為恭はそのまま奥村の家を立ち、夜更けの道を神光院へと急いだ。

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