第23話 禁裏小御所北廂

 為恭の目に映ったのは九条くじょう尚忠ひさただの姿だった。


「九条様? こないなとこまでええんですか」


 尚忠も仕事なのだろうが、公卿が軽々けいけいに作業中の場所を歩いているとは誰も思わないだろう。声が聞こえたらしく、近くにいた絵師がぎょっとした顔でこちらを向く。


「ちと用があってな。ついでや」


 見に来てやったぞと尚忠が扇の後ろで笑う。


「ちょうどこれから下絵にかかるとこです。小下絵こしたえしかお見せできるのがあらへんのですが、ご覧になりますか」


 これならば色もついていると為恭は画帖を広げた。

 年中行事である衣替えの様子が描かれている。下絵とはいえ公卿の直衣のうしの艶やかな色も目に楽しい。御簾みすの緑青もすがしく紅葉が赤く映える。


 もうひとつは鷹狩たかがりの図。馬を駆けさせるのはいずれの御時おんときの方か。馬も人も見目みめ麗しく飾られる。

 馬具や御帳台みちょうだいなど細かな描写が必要になるところは、そこだけを抜き出して横に描いてあった。


「これはええのう、下絵でこれやったら仕上がりも楽しみなことや」

「おおきに、ありがとうさんでございます。精一杯描かせていただこ思てます」


 本当にただ見に来ただけだったのだろう。うなずきながら尚忠が去っていった。

 為恭はそれを見送って辞儀をし、改めて下絵に取りかかる。

 為恭が下絵を写し終わった頃、永岳のいる諸大夫しょだいぶの間では本画に取りかかっていた。


 上段の間から虎、鶴、桜と画題が決まっていて、永岳の担う中段は鶴の間となる。

 襖表面の麻布は胡粉ごふんで仕上られている。そこに描かれるのは三十七羽の鶴だ。優雅に群れる鶴の気品溢れる様子が墨で描かれ淡く色づけされていく。描かれた四面のうち南面の七羽は中空に飛ぶ。


「伯父上、こっちはどないです」

「予定通りや。問題あらへん」


 顔を出した為恭への永岳の返事は力強かった。

 為恭が周りを見回している。綾野は自分を探していることに気づいて声をかけた。


「為恭様、俺そちらに行ったほうがいいですか」

「うん、そろそろ頼むわ。有美ゆうびはどこ行ったんや」

「向こうにいますよ」


 綾野が指す方から有美がはずむように駆けてくる。


「師匠! 僕、どこにどんな絵ぇが描いてあるか、ちゃあんと調べましたよ。師匠も永岳様も御用があったらなんでも言うてくださいね」

「おお、そら頼もしなあ。ほな最初は絵の具溶くとこからやってもらおか」


 小御所こごしょ北廂きたびさしへ向かう途中は、そこかしこで絵師たちが目を輝かせ、頬を紅潮させて絵に向かっていた。凛と張り詰めた緊張感と、この場で描ける嬉しさとで火傷をしそうな熱気が御所をつつむ。その熱気が綾野の心をも高揚させている。

 為恭もその熱に当てられたように唇の端をきゅうと上げた。


「ほな描こか」


 襖に描かれる『清涼殿十月更衣せいりょうでん じゅうがつのころもがえ』。

 帝の御座所ござしょである御帳台みちょうだいは、白地に朽木形くちきがた模様の布で風をさえぎる。そこにかかる赤黒の野筋のすじには蝶鳥紋ちょうちょうもん


 立てかけられた日給簡ひだまいのふだに目をやるのは出仕しゅっしの記録を取ろうとしている蔵人くろうどだろうか。年中行事が書かれた衝立ついたてもさりげなく置かれている。こうしたところは為恭の有職故実ゆうそくこじつの知識が生かされていた。


 当たり前のものが当たり前な顔で置かれているのは、その世界に入りこむためのいい舞台装置と言えよう。

 衣替えでき交う様子は忙しくも楽しそうだ。衣も調度も全てを冬物に取り替えねばならない。新たな季節の調度を目に心はずむのは、今も昔も変わらぬ宮中の一場面である。


 吹抜ふきぬけから見える宮中の様子をすやりがすみが仕切り、『ふけこおり』の図を経て『鷹狩たかがりり』の場へと移る。


 遠く広がる山野さんや、馬具の鮮やかな朱が目に美しくも胸躍る。鷹を腕に止まらせた公達きんだちは狩りを楽しみにしていたのだろう。馬を走らせ供を呼ぶ。それを馬上に追いかける女人も勇ましい。屋形の御簾みすの中から見る母子も楽しそうな様子だ。


「有美、群青と緑青はもっと要る。綾野は山の稜線りょうせんにかかりぃ」


 為恭の声がはずむ。


「綾野、最初は淡い色で描くんやぞ。そっちは奥山やからな」


 その間を縫って走るすやり霞が目を引く。群青の雲も最初の色はまだ淡い。下の色が透けやすいのだ。塗り重ねられて濃い印象的な色になる。画面を仕切る群青が艶やかに御所の中に溢れていく。


「ほう、ええやないか」


 仕上げにかかろうかというところに永岳が顔を出した。

 行きつ戻りつ熱心に絵を見ている。


「伯父上? おかしなとこあるんやろか。有職ゆうそくも間違えてはないはずやけど」

「勉強させてもらお思てな」

「私の絵ぇで、ですか」

「お前んやろと誰んやろと、ええとこがあるんやったら儂はなんでも取り入れるわ」


 なりふりかまわずと言おうか貪欲と言おうか。永岳のこの姿勢は変わることがない。

 次に描くのは御常おつね御殿だと言い置いて戻っていった。


「永岳様は厳しいお方ですね」


 綾野はそう言って永岳の後ろ姿を見つめる。為恭も同じような目で応えた。


「だからこそ九代目なんやろ」


 あの姿勢に負けてはいられないと為恭と綾野は互いにうなずき、また絵筆を握る。

 為恭が描き、綾野が補い、有美が走る。少しずつ襖絵が仕上がっていく。

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