第18話 狩衣のふたり

 しばらくは不便もあったが近頃はだいぶ落ち着いた。為恭もまた絵を描き始めている。


「今日も高山寺ですか」

「うん、仏画は手ぇかかるわ」


 嬉しそうに言いながら道具を包み、出かけようと立ち上がる。為恭は綾野を見て妙な声で笑った。


「前にも思たんやけど、綾野はなんでも似合うなあ」


 綾野は狩衣かりぎぬ烏帽子えぼし勘弁かんべんしてくれと懇願こんがんしたが、それは為恭に却下された。

 綾野は袖が邪魔だと文句を言う。実際には足回りなど想像していたよりも動きやすい。だが思ったことはおくびにも出さない。


「なんのために袖括そでくくりがついとる思てんのや」


 為恭が綾野の袖をとった。袖口の紐を絞り、長く延びた両袖の紐同士を結んで綾野の首にかける。


「それやったら邪魔にならんやろ」


 ぐうの音も出なかった。難癖をつけて逃れようとしたが有職故実ゆうそくこじつに詳しい敵に隙はない。

 だが手を動かしかけて綾野は不意に気づいた。


「もしかして狩衣を着る必要ってあります?」

「私が着てほしいんやから必要やろ」

「言っときますけど近頃また浪人者が増えてきましたから、あまり外では目立たないほうがいいんですからね」

「家ではええのか」

「そうですね」


 にいっと為恭の唇が弧を描いた。


「わかった」


 しまった、と綾野はほぞをかむ。


「ええやろ、家だけにしたる。衣冠束帯いかんそくたいに太刀も佩いてくれるんやな、楽しみや」


 為恭が奇妙な笑い声を上げる。そのまま機嫌よく出かけていった。

 ここのところ毎日のように高山寺へ行く。願海がんかいという僧と知り合ったと、その依頼で仏画を描いていると嬉しそうだ。今日も跳ねるような足取りだった。

 一方で綾野の行き先は紙屋の娘のところだ。


「こないだはおおきに。知恩院さんに連れてってもろて、ほんま助かったわ」

「怪我もなくてよかったな。ちっこいのは元気か」

「元気すぎてこまとるくらいやわ」


 娘がころころと笑う。

 この娘は性分しょうぶんなのか、嫁にも行かず店を切り盛りしている。客あしらいもさらりと気持ちがいい。気づくと買う予定ではなかったものも勘定の内に入ってしまう。あまりに手際がいいので綾野がやり手婆と言いかけると指導が入った。


「商売がお上手ですねって言うとったらええんよ」


 綾野よりいくつか下だから二十歳はたちは超えているはずだが、十五、六歳じゅうごろくにしか見えない。時が止まったように姿が変わらないのは、やはり狐か狸か怪し婆あやかしばばなのかもしれない。

 そんなことを言ったら孫子まごこの代までたたられそうなので綾野の口は閉じたままなのだが。


「紙うてくれはるのはええんやけど、だいぶ多いんちゃう? 忙しそやなあ」

「まあな、なんだか取り憑かれたみたいに描いてる」


 高山寺で仏画を描き、それだけではなく九条家や三条家、他の公卿や大名からも注文を受けてくる。紙だけでなく絵の具を揃えるのもひと苦労だ。


「絵を描くのがお好き言うても働きづめやねえ」

「描きたいのはいいんだ。ずっと描いてばかりなのが困るんだよ。飯を用意してあるのに食わずに倒れたんだぞ」


 腹が減ったと呟いて為恭が倒れるのは毎度のことだがあれは本当に困る。そう娘に話すのも何度目だろう。紙を買いに来たついでに愚痴を聞いてもらっているようなものだ。


「座りっぱなしなんやね、どっか外ぉ連れたったらどやろか」

「遠出すると絵を描くからって帰ってこなさそうだがなあ」

「ならその辺でお茶飲むくらいやったらええんちゃう?」

「そうだなあ、それならあんたも行くかい」


 返事を期待しない愛想あいそを言うとぽんぽん言葉が返ってきた。


「わたしを誘いに来るんやったら、ちゃんと衣に香をきしめてふみも書いてほしいわ。そん時に使う料紙りょうしうていきよし」

「なんだそれ、光源氏かよ。古いなあ」

「結構、似合うんとちゃう?」

「狩衣は家だけで十分だ」


 勘弁してくれと手を振って綾野はそそくさと逃げ出す。後ろからは嘘か本当か待っていると声が飛び、娘の笑い声がはじけた。

 為恭に話してみると意外にも一緒に行こうと言う。


「あのむすめわかっとるやないか。ちゃんと香は選ぶんやぞ」

「なんでそうなるんです」

「書も教えたる。私、上代様じょうだいようの書風ならちょっとしたもんやからなあ」

「だから! なんでそうなるんですか」


 数日後、果たし合いに来たような顔で綾野は娘の前に立っていた。

 横に並ぶ為恭とふたり、やたらに目立っている気がして仕方がない。というよりも実際目立つ。


「いやあ、おふたりとも似合におてはるわあ。わたしがここおってもええんやろか」

「うふふふふふふ……ええに決まとるやないか。源氏の君がええんやろ」

「綾野はんが源氏? ほな為恭はんは頭中将とうのちゅうじょうやろか。わたしは?」

末摘花すえつむはなあたりやないか」

「失礼やないの、もちょっとええ子にしてほしいわ」


 綾野は紙屋の娘と為恭のやり取りも耳に入っていない。


「綾野、そないにそわそわせんでも」


 為恭の言葉にきょどきょどと振り向いた。


「狩衣はともかく、この匂い強くないですか」


 香りが立つと自分の存在を声高に叫んでいるようでどうにも落ち着かない。こうに慣れないと綾野は鼻を鳴らした。


「お香、苦手やったの。知らんかったわ、堪忍かんにんえ」


 しょげ返る娘に綾野はそうではないと言う。


「あんたは悪くない。為恭様が悪のりしたのがよくない」

「えええ、私のせいなんか?」


 頬を膨らませた為恭を見て娘が笑った。それを見て為恭も笑う。相変わらず妙な笑い方だ。

 だがそのおかげで綾野は自分も鬱々としていたことに今更ながら思い至った。最近は剣呑な空気をまとい始めた京の町だ。それを刺激しないよう気を遣いながら暮らすのも気持ちがすり減るものだったのだ。

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