第13話 嘉永六年のこと
まずは三月にひとつの区切りがつく。
「終わりましたね」
綾野は半ば呆然と呟いた。最後に筆を置いたところなのだがまだ実感がない。
九年かかった『
「これを描き始めてから何度か無理かもしれないって思ったことがありましたよ」
「皆、えらい描いてくれたし。綾野も
不意に
為恭が、ぱしんと手を合わせた。
「綾野、使いに行ってほしい。
綾野は改めて長かった仕事の終わりを噛みしめた。
絵巻を納めるまでにはまだ手間がかかる。これからまだいくつも巻装を頼まなくてはならない。増上寺へ納める際には江戸まで運ばなくてはならない。やることは山と積まれているが心は晴れやかだ。
立ち上がり、使いに立つ準備を始める。
「酒井様には改めて私もご挨拶に伺う。あそこは『
ただで終わらないところが為恭の欲深なところだ。
子どもの頃、父親からもらったという模写の絵巻を今でも大事にしていた。それを広げながら、全部の絵が見たいとよく言ってもいた。
「無理に頼むのはやめてくださいね」
「おお、綾野も止めへんのやな。あの絵巻のすごさがわかるんは偉いぞ。あれは下絵もなしに描いとるていうし、表情も動作も全ての人々が生きとる」
為恭のこれが始まると長い。だが今回は大きな仕事が片付いたところだ。
たまには聞いてやるかと苦笑ひとつですませ、そしてさほど時間を空けず後悔することになった。
「物語を三巻で破綻なく描きあげとるいうからな。そら並大抵やない。構成の素晴らしさは模写からでもわかる。あれを描いた絵師の技量はすごいわ」
為恭が持っているのは全三巻あるうちの一巻分だけだ。となれば揃えたくなるのは止められまい。
相手も門外不出としているそうだから遠慮してほしいのだが、
「為恭様、俺そろそろ知恩院に行こうかと。それに肝心の酒井様のところにもまだ出来上がりをお伝えしていませんし」
「おお、せやったな。また帰ってから続き話そ」
やっと解放されたと綾野は大急ぎで出かけた。
だが道行きに考えるのは為恭のことだ。どうやって抑えようかと知恵を絞るものの、最後は自分を振り切って飛び出していく姿しか見えてこない。
とりあえずは絵巻の仕上がりを伝えなくてはと頭を切り替え、綾野は知恩院と酒井家へ歩を進めた。
そして結局、為恭が出向くのは止められなかった。最初は春先に訪れ今はもう新緑の季節。すっかり酒井家の侍とも顔馴染みだ。
今日も同情の目を向けられ綾野は苦笑いを返す。
「いつもすみません」
「いや、お主も苦労だな。殿も根負けしそうだと漏らしているらしい」
酒井家当主の気苦労を思い、綾野と侍は顔を見合せため息をついた。
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