先輩
逢沢 今日助
先輩
ほけ…「それじゃ、今年も一日お疲れ様でしたー! 乾杯!」
サークル長である瀬谷さんの一言を皮切りに,そわそわしていた他の皆はジョッキを片手に持ち飛び跳ねる鯉の如く席を立つ。
そうして出来た挨拶の流れに埋盛らないよう、二回生の
今日は陽介が所属している映研サークルの打ち上げで、皆の盛り上がりも激しく、数時間前別の店であったらしい零次会に参加した人たちは一人残らず出来上がっており、床に転がっている人もちらほら。
陽介は粗方全員の元へ挨拶に行き、最後の一人の前で足を止めた。
突如、心臓の鼓動が早くなる。
この年になっても、好きな人に話しかけに行くのは気恥ずかしいものだ。
陽介は深呼吸をして一向に落ち着く気配のない脈拍をなだめ、なるべく平静を装った声でお疲れ様です、と一言。
「ん? お~陽介君。 お疲れ様」
詩織は左手に持っていたグラスを小さく掲げ、今年を振り返って、どうでしたか? とグラスをマイクに見立て、陽介の口元にぐいと近づける。
陽介はそうですね…と言葉を紡ぎながら、詩織が差し出したグラスから目が離せないでいた。
縁にうっすらと桜色のリップがついた、レモンの匂いがついたグラス。
ここに結城さんが口をつけてたんだ…
なんて、我ながら気持ち悪い発想だ、と思いつつ首を傾げたままの詩織に目線を移し替える。
真っ黒で丸い二つの瞳が、陽介をしっかりと捉える。
「去年よりも忙しかったけど、何とか生き延びました」
吹き出す手汗をジーンズで拭いながら言葉を返す。
去年、か。
そういえば俺と結城さんが初めて出会ったのも去年の春頃だったっけ。
半ば強引にこのサークルに入れさせられたのは吃驚したけど、ここに来てよかった。
「もし大学で彼女を作るんなら、ちゃんと自分の事大切にしてくれる人を選ぶんだよ? 例えば夏美ちゃんとか、北原先輩とか…私とか?」
そう言っていじらしく笑うあの頃の詩織思い出し、陽介はもう一段階顔を赤くさせる。
詩織はよくできました、と微笑みながらまたグラスに口をつける。
陽介はそんな詩織の様子を無言で見つめる。
肩につくあたりで綺麗に切り揃えられた、居酒屋の温かい光に照らされ眩しい程に光る結城さんの茶髪はヘアセットのおかげで見事な曲線を描いて外に跳ねている。
すらりと通った鼻筋に黄金比を感じさせる大きさの、柔らかそうな唇。
左の目元に小さな泣きボクロを並べ、黒縁の丸い伊達メガネをかけている優し気な瞳が…
ってあれ、なんで結城さんこっち見てるんだ?
いつの間にか中身を飲み干していた詩織が、陽介の顔を不思議そうに見つめている。
「藤野君? 私の顔何か変?」
「へ? いや、可愛いなーって思って」
「え」
「あっ」
しまった、見られてた恥ずかしさで滅茶苦茶気持ち悪いことを…!」
陽介の背筋が凍り付く。
あわてて口を覆うが時既に遅し、詩織は恐らく今日イチの意地悪な笑みを浮かべ陽介に歩み寄る。
その雰囲気は、さながら大スターのスキャンダルという特ダネを仕入れた週刊誌の番記者だ。
陽介は蛇に睨まれた蛙のように、その場で立ちすくむ事しかできない。
「藤野く~ん、女性を口説くんならもっと場所とかムードとか考えないとね~え?」
詩織は、今にも破裂しそうな程に膨らんだ赤い風船みたいな顔をしている陽介を、つんつんとつつく。
「それじゃ、失礼します!」
詩織から逃げるようにして踵を返す。
「藤野君」
蕩けそうな甘い声が後ろからして、思わず振り向くと、頬杖をついて陽介を見送る詩織の姿があった。
「ありがとね」
ああ、まただ。
結城さんに掌で転がされているような、この感覚。
嫌だけど嫌じゃない、そんな感覚。
結城さんの一挙手一投足に、犬みたいに尻尾を振り回す犬みたいな気持ちになる。
陽介は顔をしかめ、ずかずかと自分の席に歩を進める。
そんな鬱屈とした気持ちを晴らすべく、陽介は他のサークルメンバーと一緒に呑みに興じた。
このサークルには一回生がいない。
それどころか、二回生すら僕一人という有様だ。
陽介は空になったメガハイボールのジョッキを見つめる
だからって俺の事可愛がりすぎだろ!
先程の飲みゲーでは、どういう訳か僕の全敗で幕を閉じた。
きっと結城さんと話しすぎたから皆怒ってるんだ。
陽介は壁にもたれかかりうつらうつらとし始めた。
向こうの席でまた何かやっているのだろう。
みんなの歓声と笑い声が陽介の右耳から入り、左耳へと抜けた。
今はそれくらいの方が心地よい。
雑音がだんだん遠く感じてきて、陽介は水の底へと沈むように意識を……手放そうとしたのだが、突然額に
「ん…??」
「わっ」
陽介が鬱陶しそうに眼を開けると、息がかかる程近くに詩織の姿があった。
一瞬心臓が跳ねるもこれ程までに突拍子もない出来事、陽介はすぐに冷静さを取り戻す。
「あれ…結城さん?」
「…あ、ゴメン、起こしちゃった?」
「いや、もともと寝てなかったんで…それよりどうしたんすか?」
「さっき大分飲まされてたからさ、体調大丈夫かなーと思って」
酒のせいだろう、顔をほんのり赤くさせた詩織は自分の前髪をめくってみせた。
なるほど、額をあわせて熱を測ってくれたのか。
嬉しい気持ちもありつつ、大胆な詩織の行動に、陽介は面食らう。
「ありがとうございます」
「いいえー。 それよりちょっと寝ときなよ。 終わったら起こしたげるから」
貸し出されているブランケットを手渡し、顔を綻ばせる。
その声と全身を包むブランケットの温かみを噛みしめながら、陽介は今度こそ微睡の中に意識を落とした。
◇
ふぅーっ、寝てくれた。
すやすやと気持ちよさそうな寝息をたてる陽介を見つめながら、額に滲む冷や汗を拭う。
急に眼開けた時はびっくりしたよ。
あともうちょっとで照れかけてた。
詩織の脳裏に、去年の記憶が蘇る。
『いい先輩になりたいんなら、常に余裕のある態度を崩さないこと。 それから…』
去年卒業していったあの人の言葉。
断片的で一部思い出せないながらも、詩織はこのアドバイスに頼り陽介と接してきた。
ふと、鼻腔にバニラの甘ったるい香りが過る。
セブンスターを蓄え、可愛げな八重歯を覗かせるあの口元が忘れられない。
元気かなぁ。
宴も酣、向こうの席で瀬谷さんが恒例行事と化した一芸対決を繰り広げていたので、詩織は今日何杯目かのレモンサワーを注文し、皆の方へ加わった。
◇
「よし、じゃあ二次会行く人は会計終わったら集合ね。 あ、あとお前ら藤野の事あんまいじめすぎんなよ? 特に結城な。 それじゃ、解散!」
「え? 私?」
瀬谷さんの一言があっても、皆名残惜しいのか、各々で駄弁りを続けている。
詩織は、依然として寝たままの陽介に手を伸ばす。
陽介の頭を数回小突き、声をかける。
「陽介君、もう一次会終わったよ」
んー、と不機嫌そうな唸り声を上げながら、陽介がむくりと起き上がる。
うっとりとした、焦点のあってない眼で、詩織を見続ける。
「結城さん、好きです。」
目の前にいる詩織にしか聞こえない声量で呟く。
来た。
自然と詩織の口角が上がる。
「はいはい、知ってるから。 帰ろ?」
陽介の腕をつかみ、引き上げる。
何故か力の全く入ってない陽介の腕は思ったよりも重く、持てる力のすべてを使っても手に余る程だ。
「可愛いですね、結城さん」
「はいはい、ありがとね」
詩織が口を尖らせる。
「あれ、何か塩すぎません? いつもだったら『陽介君もかっこいいよ♡』くらいは言ってくれるのに」
「そんな事今まで一回も言ったことないし、態と重くして持ち上がらないようにしてるでしょ。」
「ばれたか」
陽介が悪戯っぽくはにかみ、幅の広い、猫を思わせる丸い瞳が細まり、いつもより数段と可愛げが増している。
癖っ気のある黒髪が、居酒屋の熱気に煽られてふわりと舞った。
「ほんと、損してるよね」
「? 何がですか?」
「素面の時もそんな感じでいれば、もっとモテてたんじゃない?」
「まあ女の子と飲んだりする機会もないですし」
「ですし?」
陽介が上目遣いで詩織を見つめる。
「結城さん以外にモテても意味ないんで!」
「いやそんな満面の笑みで言われてもなぁ」
「え、駄目だったですか?」
「…もうこの話おわり。 かえろ」
「は~い」
千鳥足の陽介を肩に担ぎ、出口へと向かう。
「あれ、結城と藤野帰るのか?」
「はい。 よいお年を」
「来年もよろしくお願いします、瀬谷先輩」
二人で頭を下げる。
「結城先輩、酔ってそのまま帰るの無理そうだったら僕が家まで連れていきましょうか?」
「んんー、西谷君は二人きりになったら私の事襲いそうだからやめとく!」
「そんなぁ~!」
どっと巻き起こる笑い声を後に、店を出る。
雪が降っていた。
先程まで暖かい所に居た所為か、底冷えするような寒さに耐えられず、着ていたロングコートの中へ、亀のように首を縮める。
今年も冬が来ていたことを、改めて実感した。
陽介の家はここからそう遠くなく、歩いて二十分程のところにある。
「寒くない? 陽介君」
「大丈夫です。 それより」
二人の顔が近づく。
「さっき西谷先輩に言われたとき、なんで俺がいるから大丈夫って断らなかったんですか。」
責めるような陽介のジト目。
詩織は思わず顔を背けた。
「だって陽介君、今は私に介抱されてる側じゃん」
「それはそうですけど。 なんかもやもやします」
素直なところが陽介君の長所だと思ってたけど、こんなに曝け出せられるんだ。
不本意ながら、心臓が高鳴る音が聞こえた。
「あれ、何にやにやしてるんですか」
「陽介君って意外と可愛いところあるんだなー、って思って」
「そこはかっこいいって言って欲しいんですけど」
「ごめんごめん」
「じゃあ介抱されてる身ですし、腕に掴まっててもいいですか?」
「いいけど、今日はやけにくっつきたがるね」
「だって寒くないですか?」
「…まあね」
「あ、結城さん、見ててください!」
陽介が息をふーっ、と吹き出す。
真っ暗な夜空に白い霧がかかった。
幻想的な景色に、思わずわぁ、と声が漏れた。
やっぱり、冬が好きだなぁ。
こんな季節が一生続けばいいのに。
陽介は、アルコールを摂取しすぎると普段内に抱えている感情が抑えられなくなる。
そうして思ったことが口を衝いて出てしまう状態に陥ってしまい、自分でも歯止めが利かなくなる。
しかしその間の記憶を陽介は全く覚えておらず、その様なんな危険な状態にあることを本人は知る由もない。
詩織だけが唯一この事を知っているが、面白がって放置している。
◇
河川敷の土手を歩く。
一面真っ白に降り積もる雪に残す、二人だけの足跡。
――まるでこの世界に私たちしかいないみたいだね。
そんな気障な台詞が喉まで出かかったが、陽介に揶揄われそうなので、やめた。
「この世界から俺たち以外皆消えたみたいですね」
二人の後ろに続く、四つの足跡を見ながら陽介がつぶやく。
思わず吹き出してしまった。
辺りの家屋の灯りもぽつぽつと消え始めた頃、最終列車とすれ違った。
「結城さん、終電行っちゃいましたよ」
陽介の、腕を掴む力が強まる。
「んー? 大丈夫、大丈夫」
「ほんとですか? もし良かったら俺の家来ます? 指一本触れないんで」
「腕に絡みついてる人が言う言葉とは思えないね」
「あっ…ごめんなさい、嫌でした?」
「もう慣れたよ。 あと泊まるとこはちゃんと用意してるから大丈夫。 ありがとね」
「ならいいですけど…」
私の腕を更に抱き寄せる。
「着いたよ」
目の前には二階建てのこじんまりとしたアパート。
この一階に、陽介の住む部屋がある。
陽介に鍵を開けてもらい、玄関に座らせる。
「結城さん、ありがとうございました」
「いーえ、もう何回か来てるしね」
「あ、やっぱりか。 道理で僕の部屋番号知ってる訳だ」
「じゃあ、酔ってるまま外で歩くのは危ないから暫くは部屋にいること」
「はい」
「よろしい。 じゃあね」
ぎぃー、と古めかしい音を立てながら分厚いドアを閉める。
――結城さん、好きです。
あの時の言葉を思い出した。
「酔ってない時に言ってくれればなぁ…」
ぶつぶつと独り言をいいながら、数歩先の階段に足をかける。
詩織の部屋は陽介の真上にある。
それを知ったのは今日の様に酔った陽介を初めて家に連れてきた時だが、面白がった詩織はそれすらも陽介に打ち明けていない。
ドアノブに手をかける。
「詩織、さっきの藤野君?」
どこからか声がした。
それは陽介のものよりも低く、瀬谷のものよりもっと鋭い、詩織のよく知る、大好きな声。
見回すと、アパートの入口に
最後に見た時と違い堅苦しいスーツ姿に身を包んではいるが、あの時と何も変わらない、一重で切れ長な瞳と尖った八重歯。
映研サークルの卒業生、つまり詩織の――
「先輩」
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