史官の裔

 史渙の生涯について見ていく前に、彼自身及びその家系について考察してみたい。


 言うまでもなく史渙の姓は「史」であるが、『新唐書』宰相世系四(卷七十四)に依れば、「史氏出自周太史佚之後、子孫以官爲氏。」とあり、史氏は周の太史佚の後裔で、その官を以て氏と為したと云う。

 これは無論、傳承に過ぎず、事実としても、周の太史のみに淵源を持つとは限らないであろう。ただ、後代の外来氏族を除いて、史氏が史官に所縁を持つという認識はある程度普遍性を有していたと考えられる。

 「史」という姓は官名や、所謂「歴史」に係わる一般名詞である為、その族員を諸史料から検出するのが困難であるが、そもそも、史氏は著姓とは言い難く、『三國志』中で史姓の人物は以下の二名及び、卷二文帝(曹丕)紀の裴注に見える二名のみである。


 牽招字子經、安平觀津人也。年十餘歳、詣同縣樂隱受學。後隱爲車騎將軍何苗長史、招隨卒業。值京都亂、苗・隱見害、招俱與等觸蹈鋒刃、共殯斂隱屍、送喪還歸。道遇寇鈔、路等皆悉散走。賊欲斫棺取釘、招垂淚請赦。賊義之、乃釋而去。由此顯名。(卷二十六牽招傳)

 朱符死後、漢遣張津爲交州刺史、津後又爲其將區景所殺、而荊州牧劉表遣零陵賴恭代津。是時死、表又遣吳巨代之、與恭俱至。(卷四十九士燮傳)


 (黃)權及等三百一十八人、詣荊州刺史奉上所假印綬・棨戟・幢麾・牙門・鼓車。……拜權爲侍中鎮南將軍、封列侯、即日召使驂乘;及封等四十二人皆爲列侯、爲將軍郎將百餘人。(文帝紀黃初三年引『魏書』)

 余又學擊劍、閱師多矣、四方之法各異、唯京師爲善。桓・靈之間、有虎賁王越善斯術、稱於京師。言昔與越遊、具得其法、余從阿學之精熟。 (文帝紀引『典論』自敘)


 何れも断片的な記述であり、各々が如何なる人物であったのかは判然とせず、史阿が河南の人である事が判明するのみである。

 因みに、史路は何苗が殺害されたのが光熹元年(189)、史璜は張津が交州刺史と為ったのが『晉書』卷十四地理志に「建安八年、張津爲刺史」とあるので同年(203)以降、史阿は「桓・靈之間」と桓帝(在位146~167)・靈帝(在位168~189)以降の人である。

 以下に述べる様に史渙は建安年間(196~220)前半の人であるので、多少の前後はあれ、概ね同時代人である。史郃も黃初三年(222)に領南郡太守であるのだから、やや後ではあるが、近接する時代の人物と言える。


 彼等以外に史姓の人物で前後の史書に立傳されているのは、『漢書』卷八十二の史丹、『後漢書』卷五十四の史弼の二名のみである。

 史丹は魯國の人だが、後に杜陵に徙った家系で、祖父恭の女弟(妹)が良娣として漢武帝の太子據(衛太子)の子である劉進(史皇孫)を生んでいる。

 史皇孫は後に「巫蠱事」によって衛太子等と共に殺害されるが、更に後、その子である劉詢(宣帝)が即位した事で、史氏は広義の外戚として、父高が元帝の輔政に当たるなど、元・成帝朝に重きをなしている。宰相世系に見える史氏はこの史丹の後裔とされている。

 史弼は字を公謙といい、陳留考城の人で、「篤學」を以て「でし」数百を擁し、尚書・郡守を歴任している。彼の父である史敞も尚書・郡守に至っているが、「佞辯」を以てとされ、「政特挫抑彊豪」とされる史弼とは少しく為人が異なる様である。

 そして、彼はその為人から、時に専権を振っていた宦官侯覽と対立し、誣告されて棄市となるべきを故吏などの奔走により死一等を免じられている。後に「幹國之器」有りとして、議郎に徵され、「光和中」に彭城相と為るも、卒している。

 光和年間(178~184)には曹操も議郎と為っており、或いは多少なりとも接点があったかも知れないが、桓帝在世時に官途にある事から、一世代上の人物である。

 なお、史渙は裴注から建安十四年(209)に薨じた事が判るが、享年が不明であるので、その生年は未詳である。曹操は同二十五年(220)に「年六十六」であるので永壽元年(155)生まれであり、史渙も十年前後の上下はあれ、概ね同じ頃の生まれではないか。


 この他、『後漢書』では卷二十三竇融傳に『三輔決錄』注を引いて「茂陵人」という「張掖都尉史苞」、卷八十文苑傳に「王莽末」に「以文章顯」れた「沛國史岑子孝」なる人物が見える。

 何れも西漢末から東漢初に掛けての人物だが、史苞は或いは杜陵に徙ったと云う史丹の係累かとも思われる。一方、史岑は史渙が夏侯惇傳で「沛國史渙」とされている事を思えば、後裔という可能性もあるが、年代的な隔たりが大きく、直接の関係は無いであろう。


 以上、簡単に史氏について見たが、事例が少なく不詳であり、互いの関係も疎隔であるので、傾向と言える程のものは見出せないが、強いて言えば、史官の裔という伝えに相応しく、文辞に係わる人物がやや多いだろうか。

 本貫が判明するのは史渙・史岑の沛國以外では、史恭(史丹)の魯國、史弼の陳留考城、史阿の河南、そして、史丹等が徙ったと云う杜陵及び 史苞の茂陵である。

 京兆(長安周辺)の杜陵・茂陵を除けば、河南も含め概ね洛陽以東であり、史姓は山東にやや多いと言えるだろうか。東漢代には陳留は兗州、沛・魯は豫州に屬するが、陳留は河南に接する兗州の西端で、考城はその東端で豫州の梁國に近い。その梁國の東・南部が沛國であり、沛國の東北が魯國となる。

 梁國一帯は戦国時代には宋の領域で、周辺の魏・楚・齊などの勢力が入り交じった地域である。そうした地域で、史氏は同祖ではなくとも、各国の史官に淵源を持つ氏族として広範に分布していたのではないか。

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