『三國志』に於ける史渙
先ず、『三國志』に於ける史渙に関する記述を一通り確認しておきたい。
史渙について基礎となるのは以下の夏侯惇条の記述、韓浩と共に「忠勇」を以て知られ、「禁兵」を掌り、官は中領軍に至り、列侯に封じられた、である。
韓浩者、河內人。(及)沛國史渙與浩倶以忠勇顯。浩至中護軍、渙至中領軍、皆掌禁兵、封列侯。
この記述から判明するのは史渙が最終的に中領軍・列侯に至ったという事のみである。中領軍・列侯については折に触れるとして、「忠勇」を以て知られ、「禁兵」を掌ったという事からは、彼の事績が基本的に武事に依るという事が推察できる。
そして、それを裏付ける様に、他の記述も以下の如く、武事に係わる事で占められており、『三國志』に於ける年代記とも言うべき卷一武帝(曹操)紀では以下の如く、建安四年(199)・五年(200)に見える。
(建安)四年春二月、公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊、眭固又殺醜、以其眾屬袁紹、屯射犬。夏四月、進軍臨河、使史渙・曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪・河內太守繆尚留守、自將兵北迎紹求救、與渙・仁相遇犬城。交戰、大破之、斬固。公遂濟河、圍射犬。洪・尚率眾降、封爲列侯、還軍敖倉。以魏种爲河內太守、屬以河北事。
(建安五年)袁紹運穀車數千乘至、公用荀攸計、遣徐晃・史渙邀擊、大破之、盡燒其車。
この二事に関連して、前者については当事者たる張楊の傳と、武帝紀には名が見えないが于禁・徐晃の傳に、後者については名が挙がっている荀攸・徐晃、そして、于禁傳で名が見える曹仁の傳に、史渙への記述がある。
其將楊醜、殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜、將其眾、欲北合袁紹。太祖遣史渙邀擊、破之於犬城、斬固、盡收其眾也。(卷八張楊傳)
復從攻張繡於穰、禽呂布於下邳、別與史渙・曹仁攻眭固於射犬、破斬之。(卷十七于禁傳)
與史渙斬眭固於河內。(卷十七徐晃傳)
紹遣別將韓荀鈔斷西道、仁擊荀於雞洛山、大破之。由是紹不敢復分兵出。復與史渙等鈔紹運車、燒其糧穀。(卷九曹仁傳)
軍食方盡、攸言於太祖曰:「紹運車旦暮至、其將韓𦳣銳而輕敵、擊可破也。」太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之、燒其輜重。(卷十荀攸傳)
與曹洪擊濦彊賊祝臂、破之、又與史渙擊袁紹運車於故市、功最多、封都亭侯。(卷十七徐晃傳)
この二事八ヶ所が『三國志』中で史渙の動向が見える全事例であるが、追々見ていく様に、これ等が彼の全事績ではない。この他に、史渙についての記述があるのは、『三國志』に対する裴松之の注(裴注)であり、『魏書』(王沈撰)を引いて、韓浩に関する記述に附して、史渙の簡易な傳が記されている。
太祖欲討柳城、領軍史渙以爲道遠深入、非完計也、欲與浩共諫。浩曰:「今兵勢彊盛、威加四海、戰勝攻取、無不如志、不以此時遂除天下之患、將爲後憂。且公神武、舉無遺策、吾與君爲中軍主、不宜沮眾。」遂從破柳城、改其官爲中護軍、置長史・司馬。
史渙字公劉。少任俠、有雄氣。太祖初起、以客從、行中軍校尉、從征伐、常監諸將、見親信、轉拜中領軍。十四年薨。子靜嗣。
以上が、裴注も含めた『三國志』中の史渙に関する記述の総てであり、以降は基本的に時系列に從って彼の動向を見て行きたい。
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