「魏領軍」史渙と曹操の興起

灰人

序―「魏領軍史渙」

 『世説新語』言語第二に「嵇中散語趙景真」という条があり、その注に引く「嵇紹趙至敘」中に「至鄴、、至便依之、遂名翼、字陽和。」という一文がある。

 この趙至(字景真)については『晉書』卷九二文苑傳中に傳があるが、同傳では嵇康との邂逅に関する記事があるのみで、「沛國史仲和」なる人物は登場せず、史仲和自身についても不明である。從って、史仲和について判明するのは、「魏領軍史渙孫」である事のみである。

 さて、その「魏領軍史渙」について、『三國志』卷九諸夏侯曹傳の夏侯惇条末尾に「韓浩者、河內人。(及)與浩倶以忠勇顯。浩至中護軍、、皆掌禁兵、封列侯。」とある。「沛國」の人で、官も「至中領軍」とあり、この「史渙」が史仲和の祖父に当たる人物であるのは間違いがないであろう。


 史渙についての記述は、上記夏侯惇傳中の韓浩の附傳に添えられた僅か二十三字、それも半ば以上(十四字)は韓浩と共通する。

 但し、韓浩の名が夏侯惇傳以外では卷一武帝紀に二回見えるのみであるのに対して、史渙は同じく武帝紀に二回見える他に、五傳に記述があり、やや多い。何れにせよ、僅かな記述であり、『三國志』に於ける史渙の重要度は低いと言える。

 それを反映してと言うべきか、史渙は後世の『三國志演義』(百二十回本;以下、『演義』)にも名のみを含めて四回登場しているが、端役とも言うべき扱いであり、所謂「官渡の戦い」後に、袁紹との戦いでその子袁尚に一騎打ちで討ち取られるという、史実と全く異なる死を迎えている。


 しかし、実際の史渙は「端役」であったとは言い難く、少なくともその当時、彼の生前には曹操の麾下において一定の地歩を築いていたと考えられる。その史渙の実態を曹操の軍事面における軌跡に沿いながら、検討してみたい。

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