水の沈黙

萩津茜

水の沈黙

 一円に鋭く甲高い音が響いている。

 確実に一秒ごと、耳を天つ空へと引きちぎる。

 二度鳴り、三度目はリコーダーで限りなく高音を出したときのような、耳を両手でふさぎたくなる、幾分も鋭い音が出る。

 心拍は等間隔のスピーカーと共にある。

 試しに胸へ手をあててみようか。上裸体と手の貼りつく感じは奇妙に震える。手の甲は顕著に震える。三度のサイレン、五秒の環境音。三度のサイレン、五秒の群衆音。たった五秒の場の沈黙は、ただひたすらに、黄昏たる斜陽に照らされ、焦れる己を見ていた。この群衆音というのは、砂塵を駆ける、熱く乾いた足音であり、屋上より広がる金管の上品な咆哮であり、学童じみた水遊びの波音でもある。下界音は当然に在るものだ。

 とは思ってもらいたくない。

 この場は、賑々しいようで、単なる机上から鑑賞する映像と相違ないものであると、独り合点しているのだ。風情はあるが、形に残らない。だから、そこに在ると云っても、妄想ではないか、と聴き返したくなる。私は、目に映る人間と、関わる全てが幻影であると信じて疑わない。先程の視覚・聴覚はまったく想像なのだと思ってもらいたい。つまり、今此の時、物音一つなく、哀しくもしんとしているのだ。故に気を惑わそうと、誇張した形容表現を用いている。

 クリーム色の校舎のコンクリート壁が茜色に染まりだした。

 一円に響く、鋭く甲高いタイマー音は、暮れ泥む半天を助長している。SEIKO のほとんど壊れたタイマーは、わざとです、と云わむばかりに、こちらの背中を押し飛ばした。

 練習再開。

 何食わぬ顔で水中に頭をうずめる。意識した態勢をつくる。両足で、ビニール壁をおもいっきりに蹴り、前方へ突進する。

 両腹を冷気が通る。じわじわとした寒気に慣れるものではなかった。未だ環境に左右されている己が哀れでならないが、負けは負け。人類はとっくに自然には大敗している。所詮奴隷に過ぎない。ほらまた、皮膚が痛む、彼らに虐げられた。

 自然の苦しみのみではなく、またそれを扱おうとする人も、耐え難い苦しみなのだ。此処では、陸で何が在るか、はて認識できない。阿鼻叫喚に狭い宇宙をさまよう内に、錯覚さえ起こす。自分は今、宇宙の片隅に居る、なんて大層なことを罪なりに想像してしまう。

 聴覚も遠ざかった頃、手は壁に突き、顔は空気に飢え、求めていた。結局の誇張表現で体を左右揺らすのだ。

 尽きない思考が煩わしくなった時、ようやく下校を告げるオルゴールが聴こえた。




 五十年と短い歳月の片隅に居る。

 意志を無視し、創造性を持て余して過ごしてきたこと、何となく思い至った。

 タイマーは鳴り、潜る。

 灯っては、消える。

 云うまでもない、変わらないさ。

 私が抱むは、物理的な物ではなかった。豊かな心が与えた、その強欲。

 端々帰宅の途につき、布団にくるみ、目を覚ませば、大した記憶を残さず三日が経っていた。それを知ったのも、教室内のカレンダーである。斜陽で赤らむ席を発つと、数歩のうちに水の中に居る。

 どこまで瞬間的であろうか。木材と埃の匂いは今だ鮮明である。朝食のパンの味だって舌が残している。ただ、その情景が浮かんだ時、前を向けば曙が目に映っている。さあ、今日もきっと炎暑なのだろう、窓を開けて涼もう。と、寝ぼけの頭で布団を脱すれば、冷ややかな風に凍り、風邪を患うはめになった。

 咳込み、自室に籠る一日、二日、三日、四日、幾日を指折りする暇であるが、過ぎ去れば一切が遠い昔かのように、懐かしくさえなる。回復した頃には厚手の服で出歩くようになった。雪がしんしん降ったこともあったには在ったが、そばをすすって深い眠りにつけば、長袖のシャツでも蒸す春陽に照らされた。

 朝食をすまし、チャイムが鳴る。伽藍とした日常を退出する際、日付は確認しようと、影射すカレンダーを覗いた。今学年が解散したそうだ。

 めまぐるしい日常の変化の間々、静かな水に潜って意も介さず泳いでいた。水は冷えにくく、温まりにくいということで、かくに何時も不動の沈黙を貫いていたのだと思ふ。地上から俯瞰すると、時に水は宇宙よりも深くなる。時に、今際の淵まで連れ込む。ところが水も宇宙も、等しく畏れら万象であろう。水と宇宙はそもそも、一つの空間なのだと思つたのだ。水とは自然の権化であり、敬遠するものであるはずだが、一方、宇宙に最も近いゲートでもある。




 これはまた、ある春の夕である。

 水面に背を浮かべ、一種の生死の淵という関係を気強く抱いて両腕を水上に滑らせていた。人間のプライドから、意識はすでに玉の緒さえ断ち切って、宇宙をかいていた。目にはさやかに、恒久の斜光を放つ黄昏の麗天、去来する白雲が移つてゐた。それはまるで星雲であり、身に潜む魂が天空をさまよっているのは云うまでもなく、召されるならそれでよかった。恐らく、今まで過ごした(気でいた)生活こそ幻覚であつて、ようやく夢から覚めるものであつた。実に、雑音などピタリ立たず、モノを認知できなかった。たしかな碧空のみ、地平線を横断していたからである。

 此処なら、我が魂を縛りつけても問題はないと思つてゐた。

 自然の息吹とは善悪などの俗世からは遥かにかけ離れていて、いつも当然に在るのに、ある瞬間、飲み込まれるものなのだ。第一、水ははて、はじめから沈黙していたのだ。私は恐ろしくて堪らない。なぜなら、時に不変を破り、人に刺激を与ふる。それは星座の星が点滅するのと同じで、水自身の意識も届かない領域であるのだ。我々は、こういう空間に住まう存在なのである。

 我々の抱く意識もまた、どうしようもなくいつも沈黙している。

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