小松菜屋ショートカクヨム

@hatakoma

宇宙バナナ

「なあ、あんた、宇宙バナナって知ってるかい?」


 午前二時、ビルの谷間に立ち尽くすシンは、すれ違いざまの老人に声をかけた。湿った夜気が彼のシャツにじっとりと張り付き、街灯の淡い光が老人の皺を深く刻む。


「宇宙バナナ、ねぇ……。まさか、今の若者がそんな与太話を信じてるとは思わなかったよ」老人は、苦笑を浮かべつつため息をついた。


「信じてる訳じゃないけど、見たいんだ。食べてみたら過去と未来がひとつになる……そんな馬鹿げた話、どうしても放っておけないんだ」


 シンの声は湿度を含んでやわらかく響く。老人は首をすくめ、「まあ、それで救われるんなら悪くない」と、かすかに笑った。



「なあ、爺さん」


「爺さん呼ばわりはよしてくれ。名は冬田だよ」


「じゃあ、冬田さん。宇宙バナナはどこにあるんだ?」


「この辺じゃないさ。昔、星が綺麗に見えた天文台で、ちらりと見た気がする。あのときはまだ俺も若かった」


 老人、いや冬田は、夜空を仰ぎながら寂しそうに目を細める。その仕草は、星の光を滲ませ、シンの胸にわずかな不安と期待を混ぜこんでいった。



「本当に、あんた食べたことあるの?」


「さあね。夢だったかもしれない。だけど、あの甘さとほろ苦さは忘れられない。月明かりを吸い込んだようなその果肉を味わった瞬間、俺はなぜか、自分の過去の失敗やら何やらを、許せる気がしたんだ」


 冬田は静かに語り、指先で宙を撫でる。シンは鼻先にふんわりとした香りを感じたような気がした。それが古びたシャツの湿り気か、それとも宇宙バナナの幻なのかはわからない。


「なあ、シン。悩んでるんだろ?将来とか、夢とか」


「分かる?今の仕事もうまくいかないし、俺、もう何が正解かわからないんだよ」


「その果実は、正解を教えるんじゃない。ただ、夜空と心をほんの少し近づけるだけだ」



「天文台って、まだあるのか?」


「昔のままじゃないさ。ビルの向こう、丘の上に錆びたドームが残ってるだろう?あれが残骸さ。でも行くなら今夜だ。星がよく見える」


 シンは頷き、冬田の横顔を見た。視線の先には、ぼんやりとした星の光が揺れている。見れば、ビルの縁にゆらめく青白い影が、バナナのような曲線を帯びているような気がした。


「なあ、もしかしたら本当にある……かもしれないのか」


「幻かもな。だが幻でも構わない。行ってみろよ、シン。自分の心が少しでも軽くなるなら」


 シンは喉元でつまるような、湿った呼吸を吐き出し、首を縦に振った。



 しんと静まった路地裏で、若者と老人の小さな声が星に滲んでゆく。誰もいない夜更け、宇宙バナナの伝説は宙に溶け、ビル街は微かな期待と不確かさでしっとりと濡れていた。


「ありがとう、冬田さん」


「ふん、礼なんていらないさ。俺ももう一度、その味を思い出せた気がするよ」


 湿度を帯びた風が吹き抜ける中、シンは夜空を見上げる。たとえ幻でも、そこにある輝きが、明日へのほんの小さな力になることを信じながら、彼は静かに歩き出した。


(了)


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