小松菜屋ショートカクヨム
@hatakoma
宇宙バナナ
「なあ、あんた、宇宙バナナって知ってるかい?」
午前二時、ビルの谷間に立ち尽くすシンは、すれ違いざまの老人に声をかけた。湿った夜気が彼のシャツにじっとりと張り付き、街灯の淡い光が老人の皺を深く刻む。
「宇宙バナナ、ねぇ……。まさか、今の若者がそんな与太話を信じてるとは思わなかったよ」老人は、苦笑を浮かべつつため息をついた。
「信じてる訳じゃないけど、見たいんだ。食べてみたら過去と未来がひとつになる……そんな馬鹿げた話、どうしても放っておけないんだ」
シンの声は湿度を含んでやわらかく響く。老人は首をすくめ、「まあ、それで救われるんなら悪くない」と、かすかに笑った。
◇
「なあ、爺さん」
「爺さん呼ばわりはよしてくれ。名は冬田だよ」
「じゃあ、冬田さん。宇宙バナナはどこにあるんだ?」
「この辺じゃないさ。昔、星が綺麗に見えた天文台で、ちらりと見た気がする。あのときはまだ俺も若かった」
老人、いや冬田は、夜空を仰ぎながら寂しそうに目を細める。その仕草は、星の光を滲ませ、シンの胸にわずかな不安と期待を混ぜこんでいった。
◇
「本当に、あんた食べたことあるの?」
「さあね。夢だったかもしれない。だけど、あの甘さとほろ苦さは忘れられない。月明かりを吸い込んだようなその果肉を味わった瞬間、俺はなぜか、自分の過去の失敗やら何やらを、許せる気がしたんだ」
冬田は静かに語り、指先で宙を撫でる。シンは鼻先にふんわりとした香りを感じたような気がした。それが古びたシャツの湿り気か、それとも宇宙バナナの幻なのかはわからない。
「なあ、シン。悩んでるんだろ?将来とか、夢とか」
「分かる?今の仕事もうまくいかないし、俺、もう何が正解かわからないんだよ」
「その果実は、正解を教えるんじゃない。ただ、夜空と心をほんの少し近づけるだけだ」
◇
「天文台って、まだあるのか?」
「昔のままじゃないさ。ビルの向こう、丘の上に錆びたドームが残ってるだろう?あれが残骸さ。でも行くなら今夜だ。星がよく見える」
シンは頷き、冬田の横顔を見た。視線の先には、ぼんやりとした星の光が揺れている。見れば、ビルの縁にゆらめく青白い影が、バナナのような曲線を帯びているような気がした。
「なあ、もしかしたら本当にある……かもしれないのか」
「幻かもな。だが幻でも構わない。行ってみろよ、シン。自分の心が少しでも軽くなるなら」
シンは喉元でつまるような、湿った呼吸を吐き出し、首を縦に振った。
◇
しんと静まった路地裏で、若者と老人の小さな声が星に滲んでゆく。誰もいない夜更け、宇宙バナナの伝説は宙に溶け、ビル街は微かな期待と不確かさでしっとりと濡れていた。
「ありがとう、冬田さん」
「ふん、礼なんていらないさ。俺ももう一度、その味を思い出せた気がするよ」
湿度を帯びた風が吹き抜ける中、シンは夜空を見上げる。たとえ幻でも、そこにある輝きが、明日へのほんの小さな力になることを信じながら、彼は静かに歩き出した。
(了)
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