二章:一、疑心

 少し前まで、独りでネットカフェやドヤ街の安宿に寝泊まりしていたのが嘘のようだ。

 今は巨大な日本家屋の和室で、畳に布団を敷いて横になっている。


 絶えず線香の匂いが漂い、老人の咳や念仏が聞こえる奇妙な家だ。明かりを消しても、外の塀に吊るした赤提灯の光が茫洋と部屋を染め上げ、天井の木目に赤い影を作る。障子の向こうから折れた石灯籠の影が伸びてくる。


 平阪ひらさか家に加えられてから五日経ったが、いまだに慣れない。

 あれから全員が顔を合わせることはなかった。老夫婦はどこかの寺に祈祷に呼ばれ、父親役の四朗しろうは警察との調査に出かけたきりだ。

 全員が今までの人生を捨て、同じ家で家族として暮らしている他人だ。

 俺もいつか柊一しゅういちたちのように、こいつらを家族だと思うのだろうか。


 俺は邪念を振り払うように枕に額を擦り付けた。

 俺の家族は死んだ婆さんだけだ。


 そう言い聞かせ、眠りにつこうとしたとき、するりと襖が開いた。

 廊下から暗い橙の明かりが差し込み、人影を浮かび上がらせた。


 俺は薄目を開けて確かめる。母親役の五樹いつきが佇んでいた。いつもはプラスティックのように固めてる結い髪を下ろし、喪服を着替えて薄い寝巻きを纏っていた。

 五樹はじっと俺を眺めている。幼い子どもの寝室を見に来た母のような佇まいだ。

 不気味さを感じると同時に、この女にも子どもがいたんだと思い返して言葉にならない気持ちになる。


「母さん、恭二きょうじがどうかしましたか」

 廊下の奥から柊一の声が聞こえた。五樹は静かに襖を閉めた。

「柊一さん、何故彼を連れてきたのですか」

 苦渋に満ちた声だった。

「それしか助ける術がなかったからです。それに、恭二はうちに必要な人材でしょう」

「わかっています。ですが、私の気持ちも考えてもらいたいものですね。明里あかりさんに合わせる顔がありません」


 衣擦れが聞こえ、五樹が遠ざかる足音が響いた。

 俺は布団の中で硬直する。明里は俺の母親の名前だ。

 親戚の話では、親父が死んだ直後、俺と兄貴を抱えて川に飛び込もうとして、結局自分ひとりで逝ったらしい。

 何故、あの女が俺の母親を知っているんだ。

 途端に布団が死人のように冷たく重くなったような気がして、俺は足先を擦り合わせた。



 翌朝は平阪家の全員が揃っていた。

 広間の遺影と布団は片付けられていたが、

 部屋の奥にはいつでも白菊の花輪を吊るせるよう支柱が置かれ、線香は絶えず煙を流している。中央にいつでも布団や棺を置けるようにするためか、テーブルはなく、皆が膳でそれぞれ朝食を食っていた。


 今日の献立はハムとキャベツの炒め物と白米とスープだった。

 和食以外も出るのかと思いつつ、箸をつける。炒め物は塩辛く所々焦げていて、スープは味がしない。ここで出る飯が美味いのだけが救いだったが、今日はその救いもなさそうだ。


 不思議に思っていると、五樹が向かいに座る四朗を見据えた。

「お父さん。お仕事でお疲れとは言え、もう少し料理を学んだ方がよろしいのではないですか」

「……すまない」

 四朗は大柄な身体を縮こめた。こいつが料理当番だったのか。

 鬼嫁の尻に敷かれる夫らしい光景に思わず苦笑を漏らすと、四朗から鋭い視線が飛んだ。この男は会うたびに何故か俺を敵視しているようだ。


 睨み返そうとしたとき、片目の老人が大声で笑った。

「四朗も大変だなあ。俺が若い頃は男子厨房に入らずって言われたぐらいだが」

 三沙みさが焦げた炒め物を頬張りながら言う。

「じゃあ、お祖母さんは苦労したでしょ」

 老女は首を横に振り、「没有那回事」と答えた。意味はわからないが、否定したのだろう。

「三沙にはわからねえだろうが、俺たちの頃は男は外で稼いで、女は家を守るもんだったんだ。そこに不満なんかねえよなあ、ばあさん」

 老女は赤べこのように何度も頷いた。


 こいつらが普通の家族を演じるのもいつものことだが、今は新鮮な違和感がある。

 昨夜の五樹の言葉が耳から離れない。

 平阪家の連中は、俺の何を知っているんだろう。


 四朗は早々に朝食を終え、腰を上げた。

「恭二、話がある。食べ終えたら外に来なさい」

 形だけは父親らしく振る舞っているが、表に出ろとはまるで喧嘩を売るようだ。俺はぱさついた白米をスープで流し込んだ。



 玄関に置きっぱなしの雪駄を突っ掛けて外に出ると、門柱の前で四朗が待っていた。訪問に来た部外者のようだ。

「話って何だよ」


 俺が歩み寄ると、四朗は腕を組んで俺を見下ろした。家の中にいるときの身の置き場のなさそうな顔とは違う、厳格で隙のない表情だった。

出淵でぶち恭二、俺に見覚えはないか」

 俺は息を呑む。

 五樹といい、俺の母親を知ってるのか。平阪家が隠した何かを明かそうとしているのか。


 俺が首を横に振ると、四朗は更に目を吊り上げた。

「俺は覚えてるぞ。バイク泥棒の高校生」

 俺は思わず呻いた。どこかで見た覚えがあると思っていた。

「あんた、あのときの刑事かよ!」

「やっと気づいたか」

 記憶がやっと結びついた。

 こいつは高校生の頃、ろくでもない仲間とつるんでいた俺を補導した。そのときも、腕を組んで俺を見下ろしてきた。


 落胆と安堵が同時に訪れる。

「何だよ、そんなことか。俺はてっきり平阪家に関係があることかと……」

「犯罪をしといて『そんなこと』か?」


 四朗は俺ににじり寄る。デカい身体が影を落とし、俺に降り注いだ。

「相変わらずろくでもないことに手を出して生きてきたようだな。偽葬は金目当てにやるものじゃない。考え直せ」

「うるせえよ。生きるためにはしょうがねえだろ。バイク泥棒だって地元の先輩に言われてしょうがなくやったんだ。刑事が他人に死ねって言うのかよ」

「邪な気持ちで関わるなと言っているんだ」

 初めて見たときから、高圧的な態度が気に食わなかった。


 俺は鼻先が触れそうなほど近づいて睨めつける。

「お前こそ刑事が何でこんなことやってんだよ」

「市民を守るためだ。刑事も偽葬屋も同じことだ」

「高尚なこと言いやがって。三沙から聞いたぜ。平阪家の連中はみんな怪異を恨んでるって。お前も復讐か何だろ。刑事のやることじゃねえよ」

 四朗は憮然と唇を結んだ。苛立ちで身体が熱くなる。


 もう一言言ってやろうと思ったとき、家の方から柊一の声がした。

「父さん、恭二、外で親子喧嘩はやめてくれないか」

「あんたには関係ねえだろ」

 柊一は煙草を挟んだ手で道の先を指した。

「客が来た。と言っても同業者だが」

「同業者……?」


 通りの角を曲がったところに三つの人影があった。

 三人とも女だ。

 還暦は越えたらしい白髪混じりの女の左右を、芸者のように肌を白く塗った四十路の女と、二つ結びの素朴な女子高生と思しき少女。

 皆、喪服だった。

 顔は似ていないが、雰囲気が似通って、大中小のこけしが並んでいるように見えた。


 女子高生がいがみ合う俺と四朗に目を留め、口を覆って笑った。他のふたりもさざなみが伝播したように笑う。

 四朗は素早く俺を跳ね除けて身を引いた。お陰で俺はひっくり返りそうになった。舌打ちを返したが、あの三人の前で続きをする気にはなれなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る