ツタンカーメン

ダゴン先生

ツタンカーメン

 執筆している記事が区切りのいいところまで書き終わり、編集へ添削のお願いをメールで送信した。わたしは糸が切れたマリオネットのように緊張の糸から解放された。数週間書き物机との睨み合いが続いていたので、どこかへ出かけていきたい気分であった。

 出かける目的を探していたら、ふと友人であるAのことを思い出した。彼とは大学以来の友人で、文芸サークルで共に書いた作品を読み、切磋琢磨した仲であった。しかし、数か月前にSNSを通じて彼が精神病院へ入院することになったのを知ったのだ。大学を卒業してから疎遠ではあったが、小説の道を諦め、オカルト系の週刊雑誌記者となったわたしとは違い、Aは最後まで小説家の道を外れようとしなかったことだけ覚えていた。そして、彼が類まれなる才があったにも関わらず、いまだに文学賞等の評価を得られていないこともわたしは知っている。小説作品の投稿サイトなどを見て回ったが、彼の作品に贈られる「高評価」のサインは微々たるものであった。

 きっと作品が評価されないことで気が病んでしまったのだろうと思い、彼が入院している病院に面会予約の電話を入れ、電車に揺られてAを訪ねることにした。幸い、わたしの最寄り駅から4-5駅離れた場所に入院先の病院があったので、見舞いに行くこと自体は苦労しなかった。改札を通り、数分待った後電車へ乗り込んだ。

 吊革に掴まりながら電車に揺られていると、この後降りる駅の近くにある博物館で古代エジプト展を開催するという電車の広告を見つけた。確かにその博物館はわたしの住む地域で最も大きな博物館なのだが、あの「ツタンカーメンのマスク」を展示するというのだ。これを見てわたしは「次のネタは古代エジプトにしよう。」と思い付いた。オカルト雑誌において古代エジプト、とりわけツタンカーメンと言えば定番のネタである。だからこそ博物館を見に行き、その内容を書き留めれば次の仕事も楽が出来ると思ったからである。Aの見舞いの帰りに博物館へ寄ろうと決心した時、電車のアナウンスは目的地を告げた。

 病院の受付で面会の予約をしたと告げると、看護師はすぐにAの部屋へ手配してくれた。Aはその時本を読んでいたが、わたしに気づくや否や「久しぶりじゃないか」と歓喜の声をあげた。しかし、そこに移る歓喜の表情は決して健全な人間の顔をしていなかった。頬はやせこけ、目の下にはひどい隈が出来ていた。おそらく睡眠障害か何かを発症して眠れていないのであろう。また、わたしが見る限りAはひどく体を縮こまらせていた。彼はわたしと同い年であるが20代後半の姿には到底見えなかった。ひどい例え方をするならば、まるでミイラのようにシナシナとしていた。「まさか僕のことをお見舞いする人がくるとは思っていなかったよ。」Aは生気を失いつつある顔で無理に笑顔を作った。そんなこと言うなよ。大学以来の知己じゃないかとわたしが言葉を返すと「大学か…あの頃は楽しかったな。お互い文学に真剣になっていた。あの頃に帰りたいよ。」と懐かしんだ。その時はわたしもAと同じ感傷に浸る思いであった。

 Aにこの後はまっすぐ帰るのかと尋ねられたので、近隣の博物館で古代エジプト展を見に行くと答えた。今日は休みなのかとAは重ねて訪ねてきたので、仕事がひと段落したので休みをもらった旨を伝えた。「わざわざ休みの日に狂人の様子を見に来なくてもいいのに。」Aは自身を嘲るかのようなふるまいをしながらもわたしに気を使ってくれた。そうはいっても君が精神病院に入院する羽目になるなんて思わないじゃないか。いったい何があったんだとわたしが訪ねると、Aはぼそり、ぼそりと言葉を紡いだ。

「僕が未だ売れない作家だってことは君も知っているだろう?コンテストに出しても入賞すらせず、最近流行りの小説投稿サイトに自身の言葉を羅列してもさっぱりだ。」その言葉を吐くAの姿には自身への情けなさ、怒りのようなものが見えた。わたしは、Aへ無理に話さなくてもいいと言おうか迷っているうちに彼は独白を続けた。

「でも、この前ようやく小説のコンテストに入賞したんだ。」それを聞いた瞬間よかったじゃないかと思う反面、なぜそれが精神への疾患を引き起こす事になったのかも気になった。「…編集に言われるがままに書いたファンタジー小説さ。」

 電子書籍にもなっていると言われたのでわたしは手元のスマートフォンで無料で読める範囲を指でなぞりながら読んでみた。その内容は、大学時代にAとしての才能を遺憾なく発揮していた「緻密な心理描写」「複雑な人間関係」と言ったものがまるでなかった。まるで牙を抜かれた獅子のような文章に驚きを隠せなかった。

 「なあ、君もそう思うだろう!君は僕を褒める時に小説に出てくる人物の内面を見てくれた!読んでほしかったものを目に止めてくれたんだ!だが世間はどうだ!誰も心理描写なんて分かりやしない!人間関係を読めやしない!投稿サイトの感想欄にもっと分かりやすい文章は書けないのかと言われたんだぞ!」彼の怒りの原因が分かった。自身が最も得意とし、誰よりも褒められたい部分が評価されず、自我の籠っていない魂の抜け殻のような作品が評価されるという自己尊厳への侮辱に対する怒りだ。

 「ちょうどいい。君にならわかるだろう。せっかくだから君が行こうとする古代エジプト展のツタンカーメンを使って説明してやろう。この理不尽を!」聞いてもいないのにAは自身の怒りについて饒舌に語り始めた。彼への怒りはもう十分に分かっていたのだが、ここで止めてしまうとAが何をしでかすか分からないという恐怖で思わず怒りの演説に耳を傾けざるを得なかった。

 「ツタンカーメンっているだろう。あの黄金のマスクで有名なエジプトのファラオだ。どの博物館もエジプト展で取り上げるのはあの金ぴかでテカテカとした権威しか示さない黄金のマスクさ。だがな、本当に大事なのはなんでそんな黄金のマスクを作られたかという点だ。それはツタンカーメンという男がそれを作られるだけの偉大なファラオだったという事だろう。愚かな王であったり、ましてやただの民草だったらあんなマスク誰も作りやしない。作ろうとも思いやしない!つまり本当に価値があるのはツタンカーメンのマスクではなく、それを作らせたツタンカーメンそのものの価値であるはずなんだ。マスクよりもミイラの方が価値があるはずなんだ。ところが世間はどうだ!あの虚飾に満ちた仮面ばかりを評価し、醜くやせ細り、朽ち果てたミイラになんて誰にも目を向けない!大衆は目の前の黄金しか見えず、本当の価値を見失っているんだ!あの朽ち果てたミイラが何を伝えようとしているのか!それに耳を傾けることもしないんだ!!」

 わたしは、Aが自身のことをツタンカーメンであるかのように主張しているさまに一種の優性思想を感じ取った。自分には価値があるはずだ。価値を読み取れず目に見えるものにしか評価が出来ない大衆は愚かだと言い放っているのと同じであった。何が彼をこうさせてしまったのだろう。自身の得意とするものへのプライドを折られたことによるものなのか、それとも編集による強い圧力によって歪にゆがめられた彼の作風への恨みなのか。今にも朽ち果てそうなAに対し、わたしはこう一言をかけるしか方法がなかった。「でも、ツタンカーメンのマスクをきっかけにミイラを見てくれる人だっているかもしれないじゃあないか。」

 面会時間を終えてわたしは病院を出た。あの発言を言った後に繰り広げたAとの会話はほとんど覚えていない。ただ、あの発言が彼の導火線に火を放ったのは紛れもない事実であった。今は編集の圧に屈してでも、とりあえず入賞したことを喜び、そこから名を馳せて本来の実力を発揮してもいいのではないかというわたしの意見は受け入れられなかった。Aは、どこまでも大学時代にわたしから得た賞賛に執着し、自身のあるがままの形で入賞しない限りは納得を見せない姿勢を貫いた。どちらにせよ、Aがあのまま精神病院で怨恨を燻ぶらせ続けることがないよう祈るしかわたしにはできなかった。

 病院を出てから少し肌寒くなった。朝は晴れていたのに雲が太陽を隠し始めたからだろう。自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、それを飲み干してから第二の目的である博物館へ向かった。特別展のチケットを買い、古代エジプトの世界へ入り込んだ私は様々なものを見た。当時使われていた刀剣や何かを伝えようとしていた壁画。ガラス越しに見える4000年前の主張を受け止めてから、お目当てであったツタンカーメンの黄金マスクを目にした。

 世界でもっともよく知られた芸術作品の一つというだけあり、その黄金のマスクは壮観であった。古代神オシリスの顔を模したと言われる表情には王の権威と威厳を感じ取ることが出来た。展示されている黄金のマスクをまじまじと見た後、展示解説を読むことにしたが、そこにはわたしの愚かさを示す三文字が文章が書かれていた。「ツタンカーメンのマスク(複製品)」

 そう、わたしは本物ではなく複製品に心を打たれていたのである。Aの主張が心をえぐる。わたしはAの怒りを理解していたつもりでありながら、彼の怒りの元凶であった表面上の価値しか見いだせない大衆の一人にすぎなかったのである。その三文字を見てから、先ほどまで威厳を見せていたマスクが虚飾に満ちた陳腐な置物のようにしか見えなくなってしまった。自分が愚かな大衆だと分かった瞬間、Aと対等であったという自信、さらにAを価値という視点で諭そうとしていた自身の傲慢が恥ずかしく思えてきたのである。

 博物館に行ったのは失敗であった。黄金のマスクは贋作であり、Aが熱く語っていたミイラは展示すらされていなかった。展示されていたとしても、きっと複製された価値のないものであったのだろう。わたしは価値が分かる人間だと思っていたが思い上がりであったことを思い知ることになった一日であった。しかし疑問が残る。複製品に価値がないのだとしたらなぜ彼らは作られるのだろう。価値がないまま生み出されることを哀れだと思うのも一種の傲慢ではないのか?本当の価値とは何なのであろうか?厚い雲に覆われて暗くなる夕方、わたしは悶々とした思いを抱えながら帰りの電車に乗るために駅へ向かった。

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