フラッシュバックメモリー
かわしマン
第1話 目覚め
例えばテーブルに置かれた透明なガラス瓶にいけられた、鮮やかな赤色を咲かせているものが〈花〉だという事を私は知っている。
それを見て心に渦巻く想いを言葉にするとしたらそれは「綺麗」という感情なんだという事も私は知っている。
そして、自分の名前が「
でも十四歳の誕生日以降、今の今まで私はどんな日々を送り、どんな人と出会い交流したのか、どこへ行き何を見たのか、泣いたのか笑ったのか怒ったのかは知らない。
正確に言えば知らないのではなく忘れてしまったのだ。私には十四歳の誕生日以降の記憶がない。気づくと二十六歳になっていた私は、暗くがらんとした部屋の中で茫然とベッドに横たわっていた。
目を覚ました瞬間目に飛び込んで来たのは私の父と母だと名乗る男女だった。
記憶の中におぼろげに残存していた両親の顔と照らし合わせると、確かにそれは一緒の顔だと感じられた。小さな頃にデパートで迷子になった私を見つけた時の、安堵の笑みを浮かべた母と父の顔を真っ先に思い出した。
その記憶は淡く滲んで全てが鮮明ではないけれど、優しく暖かい気持ちに私をさせた。
しかし二十六歳になった私は、私を心配そうに見下ろす父と母の顔を見ても、優しく暖かい気持ちにはならなかった。
記憶の喪失は、人に対して抱く想いをも喪失させるのだろうか?
「あぁ良かった……目を覚ましてくれて本当に良かった……」
そう言って父と母が浮かべた安堵の表情は、デパートて迷子になった幼い私を見つけた時と同じものだったのに……。
「お父さん、お母さん、私、十四歳の誕生日からの記憶がないの。分からないの。私、どうしちゃったの?」
ベッドから体を起こして私は父と母にたずねた。お父さん、お母さんという言葉はごく自然になんの躊躇いもなく私の口から発せられた。
父は眉間に皺を寄せながら、何かを言いかけて止めた。そして隣にいる母の顔へと、すがるように視線を投げた。
母は不自然な作り笑顔を浮かべながら、
「一昨日ね……ひどい事故に遭って頭を強く打ったのよ……でも大丈夫、記憶が無くなるのは一時的な物よ。私たちが支えになって治療をサポートするから……」
そう言って私の肩に手をそっと置いた。
父は母の言葉に大袈裟にうんうんと頭を縦に振った。
私は大きな違和感を覚えた。
父も母も私が記憶がないと言った時、なぜ驚かなかったのだろう?表情がほとんど変わることはなかった。父が眉間に皺を寄せたのも、私が記憶が無いことを告げてから数秒後だった。その間は表情が変わることはなかった。
その後の母の言葉もまるで私が記憶を失っている事をあらかじめ知っているかのような口ぶりだった。
医者か誰かから、頭を強く打ったから記憶が無くなるかもしれないという事を告知されていたのだろうか?
そうだったとしても、娘の記憶がないと知ったら取り乱すように混乱したのち、哀れみと悲しみが入り混じった表情を浮かべるものなのではないのか?
自分の置かれた現状に確かに混乱しながらも、しかし同時に、人の感情や考えを深く考察する冷静さが私にはあった。
父と母は何か隠している。私はそう直感した。
私の心の中にあっという間に不信感が真夏の積乱雲のように立ち込め、今にも不安と恐怖の豪雨を降らせようとしていた。
「ねぇ、記憶がなくなるほどの酷い事故って何? 私の体のどこにも痛い所なんて……ないよ? 私に何があったの?」
冷静さを保っていたつもりが私の声は少し震えていた。
父も母も私のその言葉に表情を変えなかった。
母が不自然な作り笑顔のまま、肩に置いた手を移動させて、今度は私の手を握りながら、
「大丈夫よ。大丈夫。大丈夫だからね。お母さんとお父さんも莉子の側にずっといるからね……」
そう囁くようにゆっくりと言った。
母が私に繰り返した「大丈夫」という言葉から受け取ったのは、あぁやっぱり何かを隠している。誤魔化そうとしている。必死に取り繕うとしている。という確信だった。
父と母が怖くなった。記憶を失ったままこの人達の庇護を受けることにならざるを得ない事に暗澹たる気持ちになった。
逃げ出す? どこに? 十四歳の頃の友達の家? 警察?
ぐるぐると頭の中で思考が数秒の間に猛スピードで動く。動き続けた結果、どこにも行けないという結論が出た。
私はここを動く事がきっと出来ない。
「お腹空いてない?」
そうたずねる母に、「大丈夫。すいてない……」と呟き返すのが私の精一杯だった。
「そう。莉子の好きなクリームシチュー作ってあるからね。お腹すいたら下に降りてらっしゃい」
父と母は部屋から出ていった。
そうだ。毎年私の誕生日に母は、好物のクリームシチューを作ってくれていた。
十四歳の誕生日の朝もクリームシチューを楽しみにしながら家を出て中学校へ向かった。
でもそこからの記憶がない。
十四歳の誕生日の夜、私はクリームシチューを食べたのだろうか?
がらんとした部屋を眺める。真っ白な壁。南向きの窓に掛けられた水色の遮光カーテン。小さな卓上ミラーと櫛と、ガラス瓶にいけられた花が置かれた小さな木製のデスクと椅子。ふわふわでもこもこの白いカーペット。姿見。本棚に敷き詰められたマンガ本や小説。
十四歳の誕生日から何も変わっていないように思えた。写真など失った記憶の手がかりになりそうな物は何もない。
約十年あまりこの部屋で私が普通に生きてきたとして、こんなにもその痕跡が残らない部屋でいられるということなどあり得るのだろうか。
私はベッドから降りてクローゼットの扉を開いてみた。
経年劣化したとしか思えない古びた洋服たちが、顔をしかめるほどの強烈なカビ臭さを放ちながらハンガーに吊るされ、ミイラのごとくそこに佇んでいた。
この部屋は明らかに時が止まっている。
十四歳の誕生日のあの日から────
そう思えて仕方なかった。
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