ピンク髪の男爵令嬢が庭師と駆け落ちしたらしい

岩上翠

第1話

卒業式を目前に控えたロイヤルアカデミーから、一人の女子生徒が姿を消した。

たちまち学園内に、ある噂が巻き起こった。


その噂とは、「あのピンク髪の男爵令嬢が庭師と駆け落ちしたらしい」というものだった。



   ***



噂が流れる数か月前。


男爵令嬢アイリーン・ハートネットは悩んでいた。

今日の昼休みにルイス王太子から、「ロイヤルアカデミー卒業後は、ぼくの精神的な支えとなってくれないか? ぼくにはきみが必要なんだ」と言われたからだ。


だが、王太子には幼い頃からの婚約者がいる。

由緒正しい侯爵家の才色兼備の令嬢で、政治バランス的にも、王太子とは完璧な組み合わせだ。

ロイヤルアカデミー卒業後には、盛大な結婚式が挙行されることは、すでに全国民が知っていた。


だから、「精神的な支え」とはつまり、「愛妾」のことを意味している。


「……王太子の愛妾なら、元庶民としては大出世だけど……」


男爵邸のバラ園で膝を抱えてしゃがみこみ、アイリーンは男爵令嬢らしくもなく、バラに向かって話しかけていた。


アイリーンは元々、王都の下町生まれの、生粋の庶民だった。

野心に燃えるハートネット男爵が、年頃の王太子をたらしこむための美しい少女を下町で探していたところを、スカウトされたのだ。

大工だったアイリーンの父は早くに亡くなり、女手一つで育ててくれた母も、先ごろ、病気で臥せってしまった。


母の薬代がどうしても必要だったアイリーンは、やむなく男爵の誘いに乗り、男爵家の養女となって、この国の王侯貴族の子女が集うロイヤルアカデミーに転入したのだった。


狙い通りにアイリーンが王太子のお気に入りとなり、男爵は大喜びだ。


「……でも、父さんが生きていたら、妾なんて絶対に許さないでしょうね……」


腕の立つ大工で、仕事仲間からも慕われていた父は、曲がったことが大嫌いだった。

もしもルイス王太子の言う通りに愛妾になったら、母の薬代には事欠かないかもしれないが、天国の父に顔向けができなくなる。


もしも王太子が自分にベタ惚れで、「侯爵令嬢とは婚約破棄する!」などと言い出したのなら正妃になれるかもしれないが、それはそれで侯爵令嬢に顔向けができなくなるし、今のところ王太子はそこまでアイリーンに夢中ではない。


攻略が不完全だったのかしら?


そんなフレーズが一瞬、脳裏をかすめた。

……だけど、攻略ってどういう意味かしら?

たまにそういった意味不明な言葉が頭に浮かぶのだが、いつも意味をつかむ前に、霧のように消えてしまう。


丹精込めて育てられたバラを眺めながら悶々としていると、ふいに、声をかけられた。


「そんなに悩むくらいなら、断ればいいんじゃないですか?」

「……ピート」


顔を上げたら、庭師の青年のピートがすぐそばに立っていた。


「やだ、いつから聞いてたの?」

「『王太子の愛妾なら、元庶民としては大出』……」

「あー、ストップ! 恥ずかしいからもういいわ!」


記憶力のいいピートは、放っておけば、さっきのアイリーンのセリフを全て暗唱してしまうだろう。

アイリーンはまじまじと庭師を眺めた。


アイリーンよりも二つか三つ年上だろうこの青年は、腕の立つ庭師であり、元庶民であるアイリーンの良き相談相手だった。

黒髪黒目、中肉中背の、あまり目立たない青年だったけれど、植物への観察眼に通じるものがあるのか、人間への観察眼も的確だった。


「噂では、王太子殿下は自分が一番の人間です。気に入らない人間は、次々にいなくなるという不穏な話も聞きます。もし愛妾になっても、お嬢様を大切には扱わないかと」

「それは……きっと、ただの噂よ……」

「……それにお嬢様も、本来の性格や髪の色を変えてまで、殿下の二番目になりたいですか? いや、一番は王太子自身、二番は侯爵令嬢だから、三番目ですか」

「うっ……」


アイリーンは男爵に「そっちの方がかわいいから」と言われるがままに、元々はしっかり者で気丈な性格を、王太子の前では天然の癒し系キャラに変えている。

このことは、以前、ピートに打ち明けたことがある。


さらに、元は赤い髪の色も、男爵が「ピンクの髪の方がかわいく見える」などとおかしなことを言い出したために、転入前に高級魔法アイテムを使ってパステルっぽいピンク色に染めている。

だが、髪のことは、男爵とアイリーンしか知らないはずだった。


「ど、どうして髪の色のことまで知ってるの……?」

「……毎日バラの色つやを観察してれば、わかりますよ」


ふいっと顔を背けるピートに、そういうものか、とアイリーンは納得した。

そして、彼が「仕事の続きがあるので」と立ち去ろうとすると、あわてて呼び止めた。


「待って、ピート。これを渡そうと思ってたの」


アイリーンが制服のポケットから出したのは、今日王太子に「たくさんあっていらないから、あげる」と言われてもらった、キャンディーが幾つか入っているきれいな袋だった。

きらきらとしたオーロラのような包み紙にくるまれたキャンディーは、まだ食べていないけれど、とても美味しそうだ。

王太子がくれたのだから、きっと高級な菓子店のものに違いない。


驚いた顔のピートに、アイリーンは早口で説明した。


「ピートはいつも仕事の手を休めて、わたしの話を聞いてくれるでしょ? だから、その、迷惑料というか、相談料というか……本当は王都のお店で何か買おうと思ってたんだけど、男爵にもらったお金はほとんど母さんへの仕送りにしちゃったし、昼食代を節約して買おうと思ったら、この辺りのお店はどこも高くて……殿下にもらったものをあげるのもどうかと思ったんだけど、すごく美味しそうだから、喜ぶかなって……」


ごにょごにょと言い訳のように説明している内に、どんどん顔が赤くなっていく。

反対に、ピートはどこか険しい表情でその袋を見ていた。


「……ありがとうございます」

「う、うん。どういたしまして」


ピートはそれを受け取ると、思い出したように言った。


「そうだ。今度また殿下から何かをもらったら、食べる前に、おれに教えてくれませんか? ……おれも、王室御用達のお菓子に興味があるので」

「ええ、いいわよ。庶民には手が出せないものね」


にっこり笑って返事をするアイリーンを、ピートはじっと見つめた。





そのときは、案外早くやってきた。

ルイス王太子からお菓子を手渡されるのではなく、ひと気のない学園の倉庫で、無理矢理口につっこまれそうになっているのだったが。


「ちょっ、殿下っ? お、おふざけは、おやめくださいね?」

「悪い子だね、アイリーン。ぼくというものがありながら、毎日男爵家の庭師と仲良くおしゃべりしてるんだって?」


王太子に壁際に追いつめられながらも、顔には笑みを貼りつけていたけれど。

内心、アイリーンはゾッとした。

なぜ知っているのだろう?


それに、自分は侯爵令嬢と結婚しようとしているくせに、アイリーンにだけ過度な貞淑を求めるのも納得がいかない。

庭師とおしゃべりすらできない人生だなんて、考えるだけで気が滅入る。


「ぼくがあげたキャンディーも、そいつにあげたの?」

「……そ……そんなこと、しませんわ」

「本当に? じゃあ、何味だった?」

「…………それは……」

「残念だなあ。これは王都の選ばれたパティシエが作ったキャンディーで、とても美味しいんだよ。ほら、ぼくが食べさせてあげる。はい、あーん」

「……だから、いやですってば!」


まずい。癒し系キャラが崩れかけている。

アイリーンは必死に、どうにかキャンディーを食べずにすませる方法を考えていた。

こんなに無理矢理食べさせようとするなんておかしい。

王太子の美しい顔から、すっと笑顔が削ぎ落ち、上から怖い目でねめつけられた。


「は? おまえ、ぼくに逆らう気か?」

「……で、殿下……いえ、わたしは……」

「うるさい。口答えするな。ぼくを誰だと思ってるんだ? 反逆罪にするぞ?」


アイリーンはぴたりと口をつぐんだ。

ルイス王太子の雰囲気ががらりと変わっている。

『王太子殿下は自分が一番の人間です』というピートの言葉を、今さらながらに思い出した。


黙りこんだアイリーンを見て、王太子はにこりと笑った。


「いい子だ。そうでないと、ぼくの精神的なパートナーなんて務まらないからね」


こんな風に脅されて精神的なパートナーなんて務まるわけがない、と思ったけれど、もちろんそんなことは言えない。

アイリーンは無理にほほえむと、口を開けて、王太子にキャンディーをコロンと入れてもらった。


「……本当ですね。とっても、美味しいです……」

「そうだろう?」


満足気な笑みを浮かべる王太子が背中を向けた隙に、アイリーンはこっそりキャンディーを口から吐き出し、ハンカチに包んだ。

たしかに高級な味がしたけれど、同時に、少し舐めただけで酒に酔ったようにくらっとしたからだ。





王太子は日に日にアイリーンを束縛するようになった。

同時に、笑顔でひどい暴言を吐くようにもなった。

彼に与えられるキャンディーは、いつもバレないようにすぐ口から出していたが、それでもその後はしばらく頭がぼんやりとした。


ある日、庭園でピートにそのことを話すと、彼はとても心配そうな顔をした。


「……お嬢様、しばらく殿下と距離を置くことは可能ですか?」

「え? ……そんなの無理よ。殿下はわたしがいないとすぐに不機嫌になるから……それに、殿下のおそばにいることが、わたしの仕事だから……」

「……ですが、顔色がかなり悪いようです。しばらく学園をお休みになられては?」

「顔色……? やだわ、ピート。わたしは元気よ? それに休んだりしたら、殿下にすごく怒られるもの……」


アイリーンが力なく笑ったそのとき、怖い顔をした男爵が部下を引き連れ、足音も荒く庭園へやってきた。


「ピート! 貴様、あれほど言ったのにまたアイリーンに近づいているのか! 今日という今日はもう許さんぞ、クビだ!!」

「旦那様、そんなことよりアイリーンお嬢さまの体調が……」

「そんなことだと!? いいからアイリーンから離れろ! おまえたち、こいつをひっ捕らえろ!」

「……おとうさま? 何をしていらっしゃるの?」

「おお、アイリーン。おまえは何も心配しなくてもいい。ルイス殿下のお気に入りであるおまえに、この害虫がちょっかいを出していたようだが、今、追い払ってやるからな」

「……ルイス、でん、か…………」


アイリーンはその名を聞いたとたん、怯えたような顔をして固まった。


ピートは屈強な男たちに取り押さえられ、屋敷の外へ叩き出された。

連れて行かれるとき、ピートは必死にアイリーンの方を向いて「お嬢様! 殿下に気をつけてください!」と叫んでいたが、極度にぼんやりとした状態のアイリーンは、養父を止めるどころか、ピートの言葉に反応を返すことすらできなかった。





翌日の放課後、学園内の王族だけが使える鍵付きのラウンジに、王太子とアイリーンの姿があった。


アイリーンは心身共に弱り果てていたが、それでも、王太子から渡されるキャンディーだけは本能が拒否し、食べたふりをして捨て続けていた。


全面に刺繍の施された豪奢なソファに並んで座り、王太子は自分の肩に乗せたアイリーンのピンク色の頭をなでた。


「ぼくのことが好きかい、アイリーン?」

「……はい……」

「卒業したら、約束通り、王都郊外に小さくてかわいらしい館を用意するよ。ぼくに時間があるときは、そこで二人で過ごそう」

「……はい……」


まるで自動人形のように、アイリーンは王太子の言うことにうなずくだけだった。

王太子は彼女の様子を見て、クッと低く笑った。


「……ああ、そういえば、きみの家の庭師だけどさ」


王太子の言葉を聞いて、アイリーンのうつろな瞳に、小さな光が灯った。


「庭師風情のくせに、きみやぼくのことを色々と嗅ぎまわっていて邪魔だったから、消すように命じたよ。今ごろは、王都の森のどこかに埋められているだろうな」


アイリーンが、すっと立ち上がった。

王太子が、おや、というように目線を上げる。


次の瞬間、アイリーンが勢いよく王太子の頬を平手打ちした。


「………………は……?」


ルイス王太子は、しばらく何が起きたか理解できないようだった。

けれど、理解すると同時にガタッと立ち上がり、悪魔のような形相でアイリーンの腕を掴んだ。


「お、おまえ……自分がなにをしたか、わかってるんだろうな!?」

「……わかってるわ。わたしが全部悪いのよ。庶民が貴族の皮をかぶって、婚約者のいる男性に近づくなんて……最初から、そんなバカなことしなければ、ピートだって……死なずにすんだのに……」


言いながら、アイリーンはぼろぼろと涙をこぼした。

王太子はさらに怒り狂った。


「違う! 庭師のことなんてどうでもいい! おまえはこのぼくを、この国の王太子であるぼくを、叩いたんだぞ!!」

「……もう、どうでもいいわ……」


王太子はアイリーンの腕を握る手にグッと力をこめたが、彼女は反応しなかった。


「…………ああそうか。わかったぞ。おまえもあの庭師と同じ森に埋めてやろうか? それで社交界には、おまえはぼくに捨てられて庭師の男と駆け落ちした、って噂を流しといてやるよ」


アイリーンは涙に濡れた顔で、にっこりと笑った。


「ええ、その方がいいわ。あなたの愛妾になるよりも、ずっと」


王太子の顔が、怒りでどす黒く染まった。


「…………この………………いや、やっぱり埋めるのはやめだ。王家の離宮で、特製キャンディーをたっぷりやるよ。それでおまえも、ぼくの従順な人形になるんだ」


アイリーンは、初めて怯えた顔を見せた。


「……あのキャンディー……何が入っているの?」

「あれは王家お抱えの魔法使いに作らせた魔法アイテムだ。食べれば誰でも思考停止して、ぼくの言うことしか聞けない人形になる。食べ続けると中毒になって、半分死人のようになるんだけどね。離宮にはそういうやつらが何人もいる」


アイリーンの脳裏に、ピートの言葉がよみがえった。

王太子殿下のまわりでは『気に入らない人間は、次々にいなくなる』と、ピートは言っていた。

いなくなった人たちは、キャンディー中毒になって、離宮に幽閉されていたのだ。


「そんな……ひどいことを、あなたは…………」

「うるさい、さっさと来い!」

「いやっ!!」


王太子が無理矢理アイリーンを引っ張り、ラウンジから連れ出そうとした。


だが、鍵のかかった扉は、思いがけず外から叩き破られた。


ガシャーン! と、すりガラスの嵌まった扉が派手に壊され、ばたばたと何人もの男がなだれ込んできた。

ルイス王太子は、その先頭に立つ男たちを見て、目を丸くした。


「……は……? ち、父上……? それに、宰相の息子たち……??」

「ルイス……おまえには心底失望したぞ。ここでのアイリーン嬢との会話は、すべて魔法アイテムの録音器によって記録した。ここに、オルブライト公爵家の令息たちという証人もいる。もう言い逃れはできんぞ!」


アイリーンは目を瞬かせた。

姿絵でしか見たことのない国王陛下が、目の前にいるらしい。


けれど。

それより何より、信じられない人が、この場に立っていた。


これが夢なら醒めないでほしいと願いながら、アイリーンはその人に駆け寄り、抱きついた。


「ピート!!」


いつもの作業着ではなくパリッとした服を着たピートは、アイリーンをしっかりと抱き止めた。


「アイリーン! 無事でよかった! ごめん、おれは早く突入しようと何度も言ったんだけど……」

「ピート、ごめんなさい! わたし、あのとき、あなたがおとうさまにクビにされるのを見てることしかできなくて……」

「えっ? あ、いや、それは別に……」

「あのときは頭がぼんやりして、何も判断できなかったの。でもさっき、あなたが森に埋められたと聞いて、胸が張り裂けそうになって……わたし、あなたのことが……」

「アイリーン、ちょっと待ってくれ。それはあとでじっくりと聞きたい! 今は王太子殿下のことを……」


ピートは真っ赤になって、アイリーンの口を手でふさいだ。

その隣にいるピートに似た背の高い男性が、にやにやしながら二人のやりとりを見て、口を挟んだ。


「弟よ、アイリーン嬢はキャンディーの影響でまだ混乱しているようだ。ここは人数も足りているし、おまえは彼女をそこのソファで休ませてやれ」

「……上官、ですが……」

「上官命令だ」


上官とはなんのことだろう、庭師の親方のようなものかしら、とアイリーンが不思議に思っていると、ピートが手を引いてさっきのソファに座らせてくれた。


王太子は何人もの男たちに周囲をがっちりと固められながら、ラウンジを出ていった。

そのあとから、少し疲れたような様子の国王陛下が、ゆっくりとついて行った。


二人だけになると、ピートは自分のフラスクを出してアイリーンに飲ませた。

中身は冷たい水だ。

少しスッキリした気分になって、アイリーンは改めてピートを見た。


「ピート……そういえば、どうしてここに?」


ピートは苦笑して、アイリーンに説明をはじめた。


「アイリーン、おれは本当は庭師じゃなくて、オルブライト公爵家の次男なんだ。まあ、庭いじりも趣味だけど」

「……オルブライト公爵家って、あの、宰相家の……?」

「そうだよ」


アイリーンはまだ少しぼんやりしていて、理解をするのに苦労した。

オルブライト公爵家といえば、王国でも指折りの名家で、代々優秀な宰相を輩出している。

今の宰相も現オルブライト公爵だ。

その長男も、次期宰相の座は間違いないと言われるほど有能な人物で、若くして国家の安全を守る枢密院の長でもある。


そして、噂ではオルブライト家のは、枢密院で兄の補佐をして、国の平和を脅かす人物や組織を陰から調査する仕事をしているらしい。

しかも、隠しキャラだけどヒロインの攻略対象で――


と、そこまで思い出して、アイリーンは頭痛がした。

あれ? 今、何か思い出しかけていたんだけど……確か、隠しなんとかとか、攻略がどうとか……?


すぐに記憶はあやふやになり、アイリーンは思い出すのをあきらめた。

ピートは彼女をいたわるように言った。


「大丈夫? もしつらいなら、話はまた今度に……」

「あ、ううん、平気よ」


アイリーンはあわてて笑顔を浮かべた。

せっかく会えたのに、ここでお別れなんていやだ。


「それじゃあ、ピートは庭師のふりをして男爵家に潜入していたの? 殿下を調べるために?」

「ああ。以前から殿下の周囲で不自然に人が消える事件が多発していたんだ。その中には国の中枢を占める重要人物もいて、枢密院が動いた。

ぼくは、殿下のお気に入りであるきみを見張っていれば、真相にたどりつけると思い、男爵に庭師として雇われた…………でも、いつのまにかきみは、ただの調査対象じゃなくなっていた」


真剣な表情で見つめてくるピートに、アイリーンの鼓動が速くなった。

ピートはほほえんで、遠慮がちにアイリーンの手を握った。


「王太子は廃嫡され、幽閉されることになると思う。王位継承権は第二王子に移るはずだ。知っての通り、この国の王子は十一人もいるから問題ない。

でも、男爵はきみを利用することをあきらめないだろう。男爵のことも調べたんだけど、以前にも若い女性を養女にして高位貴族と婚姻させようとして、失敗したら、裏社会の商人へ売り渡していた」

「……そんな……」

「これから男爵家にも立ち入り捜査が入るんだ。男爵はきみに罪を被せようとするかもしれないし、口封じをされる危険もある。だから、当面の間は男爵家を出て、おれの家に身を隠してほしい。おれが絶対に、きみの安全は保障するから」

「ピート……ありがとう」

「せっかくロイヤルアカデミーに入ったのに、卒業はできなくなるけど……」

「そんなこと気にしなくていいわ。貴族の身分なんていらない。ピートが生きていてくれたんだもの、それだけで十分よ」


アイリーンは心から幸せそうに笑った。

ピートはそれを愛おしげに見つめ、アイリーンをぎゅっと抱きしめた。





それから、王太子は廃嫡されて高い塔に幽閉された。

キャンディーを作った魔法使いも捕らえられ、処刑された。

王太子にキャンディーを与えられ、離宮に軟禁されていた人々は、無事に解放された。

魔法による中毒に詳しい医者によると、しばらくは安静にする必要があるが、きちんと治療すれば治るということだった。


男爵は余罪がぼろぼろと明るみに出たため、爵位を剥奪された。

王家に取り入って権勢を誇ろうという野心が潰えた男爵は、人が変わったようにおとなしくなったそうだ。


卒業式前のロイヤルアカデミーには、「王太子のお気に入りだったあのピンク髪の男爵令嬢が、王太子の廃嫡と男爵の失脚というダブルショックを受け、庭師と駆け落ちしたらしい」という噂が駆け巡った。


それは大変なスキャンダルだったから、同時に流れたもうひとつの噂は、ほとんど注目されることなく消えていった。


その噂とは、ずっと浮いた話のなかった名門オルブライト公爵家の次男が、最近、彼の自宅に赤毛の美女を住まわせている、というものだった。

滅多に外へも出さない過保護っぷりで、彼の留守中は常に部下が数人体制で家を警護しているらしい。

たまに二人が玄関で言い争いをしている姿も目撃されているという。


その内容は、


「わたしにもあなたの仕事を手伝わせて。お金を稼ぎたいし役に立ちたいし、そばにいたいから」

「危ないから絶対にダメ」


……という、ほほえましいものだったそうだ。

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