第5話 帰国
日本語にあふれる空港を通って、
日本語にあふれる電車に乗って、
日本語にあふれる街を歩いても、
俺のなかで「日本に帰ってきた」という実感は湧かない。
小さなアパートの一室の前にたどり着く。
ドアのインターホンを押してしばらく待つ。
すると開錠の音がして、細い手がドアを開けてくれた。
「お兄様……っ!」
ドアを開けた先で、俺を出迎えてくれた黒髪の少女。
しばらく見ないうちにかなり痩せている。抜群の美貌の持ち主だが、痩せた姿では健康的な美とは言い難い。これは少し肥やさないといかん。
「お兄様、嗚呼お兄様、お兄様……おかえりなさい、鞠の兄様」
お兄様を連呼しているのは、俺の妹・毛利
甘え縋ってくる妹に対して「ただいま」と言ったとき。
俺はようやく、日本に帰ってきたのだという実感を得た。
俺と鞠は二人暮らし。
両親や他の兄弟とは、理由があって別居している。
だから兄妹で安アパートに身を寄せて生きている。
俺は奨学金を頼りに、私立・御息所学園に通っている。
一方、鞠は学校に通っていない。いわゆる不登校。
理由を聞いたら「なんとなく」だそう。
ある日突然、学校に足が向かなくなったという。
なんとなく学校に行けなくなったのなら、なんとなく学校に行ける日も来るのかもしれない。
そう思って待ってみたが、妹に復学の兆しはない。
そして鞠は在宅の時間を活かせる強みを持っている。
実は鞠、BL漫画の作家。
それもメチャクチャの売れっ子で、俺と鞠の生活は鞠の脳内妄想が支えている。
妹に養われることに男としての面子の危機を感じた俺は、バイトをしようと試みたこともあった。
だが鞠が、涙ながらに反対してきた。
『お兄様、どうか鞠にお兄様を支えてさせてください』
『家にいられなくなってしまった鞠を、お兄様が拾ってくださった。そのご恩に報いたいのです』
『お兄様からも必要とされなくなったら、鞠はもう、生きている意味が分からない』
『お願いです。鞠の命を救うと思って、鞠に甘えてください』
そんなやり取りがあって以来、俺は鞠に生活を支えられ続けている。
彼女は復学せず、ずっと俺の傍にいる。
ちなみに。
二人暮らしの生活においては、俺が掃除と洗濯で、鞠が食事を担当。
鞠の家事のスキルチャートは極めて歪な形をしており、料理に一点特化で、他が壊滅的。
死神の鎌のように鋭く尖ったチャートは(本人の)命を刈り取る形をしている。
そう、掃除と洗濯もダメダメなのだ。
だから――
「やっぱりか!」
家の中に入り、俺は天を仰ぐ。
「えへへ、ちょっと散らかしちゃいました」
「ちょっと? これがちょっと?」
目の前に広がるのは、物が散乱する我が家。
俺がいない間に洗濯物とかが色々とため込まれている様子。
これ、業者呼んだ方がいいのでは?
外食系のプラゴミが見当たらない点に、食事は誰かに頼らず自分で作って食べるのだという鞠のプライドのようなものを感じるが、そのプライドを少しでも、どうして掃除と洗濯に分けてやらなかったんだ? と問いたくなる。
「お前から2か月目を離したら、どうなるかがよく分かったよ」
「そうですお兄様。私を放置したら、とんでもないことになるのですよ。だからもう二度と、私を置いてどこかに行かないでくださいね」
その言葉に、ふと留学の出発前を思い出す。
鞠は「行かないでください」と散々言っていた。
それをなんとか説得して、向かったドイツ。
そこでも「行かないで」と願ってくる乙女に出会って、そして俺は――
「っ!」
エリスの顔を思い出して、俺は顔を歪める。
鞠が俺の顔を不安げに見つめる。
「お兄様、具合が悪そうです」
「いや、なんでもない。さっさと家の中を片付けるぞ」
目の前の厄介そうな散らかり方も、今の俺にとっては救いといえる。
片付けに躍起になっている間だけは、エリスのことが頭から離れそうだ。
「さあ、やるぞ!」
帰国の疲れを腹の奥に押し込んで、俺は片付けに没頭し始めた。
それでも。
俺の頭の中で、エリスは離れなくて。
片付けが終わった頃には夜になっていた。
鞠が用意してくれた夕食を食べて、俺はソファに座ってぼうっとしている。
「お兄様、やはり変です。体のお具合が悪いのでしょうか?」
鞠が不安げに聞いてくる。
俺は正直に、ドイツでとある少女を泣かせてしまったことを白状した。
すると、鞠は。
「まぁ」
ものすごく平坦な声と、平坦な表情をした。
「まぁ、まぁ、まぁ……そうでしたか。ドイツに鞠以外の女が。へぇ……」
予想と違った反応に俺が数度まばたきすると、そこには普通に戻った鞠の顔。
「お兄様……お辛かったのですね」
鞠はそう言って、ソファに座る俺に近寄り、俺の顔のあたりを胸で抱きしめる。
「鞠……?」
「お兄様、よくお聞きくださいね?」
鞠は俺の耳元で、囁く。
「お兄様は、ドイツの地で、大切な人には出会えなかったんです」
「いや、エリスは俺のことをずっと看病してくれて――」
「そうですね。そうなのでしょうね。ですがお兄様は今、ここにいる。責任感がお強くて、お優しいお兄様が、まさか大切な人を見捨てて帰国するはずがないでしょう?」
「う……」
「お兄様が帰国されたことが、お兄様がドイツの地で誰にも心を動かされなかった、何よりの証拠なのですよ」
「俺は……誰にも心を……動かされなかった……?」
鞠の言葉を呟くと、なんだか頭が霞んでくる。
何の匂いだろうか。
気付けば部屋の中に、嗅ぎなれないフレグランスが満ちている。
「特注のアロマです。お兄様と、ずうっと一緒にいるための……ね」
ああ、そうか。鞠はアロマセラピーを学んでいるのか。
学校に通っていなくても学びの姿勢を保ち続ける。その姿、兄として嬉しいぞ。
そんな、さっきまでの話題と関係ない思考が頭に居座る。
俺はさっきまで、一体誰の話をしていたんだっけ?
「そうか、そうなのかな、そうなのかもな……」
「それでいいのです、それで。ふふっ、よく効きますね」
思考がうまく回らない俺に対して。
鞠が柔らかく微笑んだ。
「お兄様は鞠とずうっと一緒なのですよ」
その二日後
「お兄様! 鞠のアロマの道具一式、どこにあるかご存じありませんか?」
「知らないっての。お前はいい加減、部屋の片付けってもんを学びなさい。いっつも散らかしているから物だってすぐに見失うし、意識せずゴミに出しちゃうんだろ?」
「もしかして鞠、アレを知らない間に捨ててしまったんですか⁉」
「お前の部屋を探してもないっていうのなら、そうなんじゃないか?」
「ウボァアアアアアアアアアアアアアアアアア⁉」
何やら鞠が慌てている。
あのフレグランスは相当にレアだったのだろう。
鞠の慌て方を見るに、二度と手に入らないような代物だったのかもしれない。
そんないつものような日常を積み重ねていくうちに。
俺のドイツの経験は、心の中の古傷になった。
治癒はしないが、出血もしていない。涵養はないが共生はできる。
俺は自分の過去に折り合いをつけて、4月の新学期に向けて進んでいる。
そして。
俺は彼女と再会するのだ。
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