第3話 踊り子
その後、俺とエリスはしばらく歓談する。
俺が気にしていたことは、鞄を水没させてしまったこと。
鞄の中身も濡れてしまったはずだ。
彼女の鞄は取り返せたとして、彼女が本当に大切にしていたものが水でオシャカになっていたら、俺にとっても悔しいこと。
その点を訪ねてみると、彼女はニッコリと笑う。
【於菟さんは私の夢を、立派に取り返してくれましたよ】
【夢?】
【これです】
彼女が取り出してきたのは、皺のよったチケット。
水に濡れてから一度乾かしたのだろう。紙の質が上等だったことと、俺が頑張ったために、破けて失われることは避けられたようだ。
そして、肝心のチケットの内容だが――
【申し訳ないけれど、よく見えなくて。内容を教えてほしい】
熱で視界にモヤがかかっている。
彼女の美しさを見る分には申し分なくても、皺だらけのチケットの文字を読むほど目のコンディションが追い付いていない。
【このチケットは、『ヴィクトリア』の予選会のチケットなんです】
【ヴィクトリア?】
【ドイツの年末から新年にかけて、毎年行われているリアリティショーです】
エリスは柔らかな声で、あの日の俺たちの行動が、エリスをどう救えたかについて説明してくれた。
エリスの夢は、
幼いころよりずっと、十六歳の今に至るまで、動画を見ながら独学でダンスの練習を重ねてきた。
父親を早くして失ったため、家は貧しい。
ダンスのレッスンに通えず、近所の公園や裏路地が彼女の稽古場となる。
稽古場としての条件は、良いものとはいえなかった。
酔っ払いに声をかけられたりもした。
道行く人から心無いヤジも飛ばされた。
それでもダンスのレッスンを積んで、技術を磨いて。
そこでエリスは予想もしない現実に向き合うことになる。
『推薦状はあるね?』
ダンスのプロへの登竜門となるオーディション。
そこにエントリーしようと電話した時、担当者から尋ねられた。
目を丸くした。声が震えた。
推薦状――そんなもの、お金がなくてレッスンにも通えない身が持っているはずがなかった。
『あー、
担当者の声には嘲りの気配があった。
この言葉はドイツではもう古語だ。日常会話ではまず使わない。
使う機会があるとすれば、「世間知らずのお嬢様」という意味を込めて相手を馬鹿にする時くらいだ。
推薦状を手に入れたらまた挑戦してくれ、と。
軽んじる気配を隠すこともなく、そんな言葉を最後に電話は切られた。
実のところ、プロのダンスの現場は何かと不安定だ。
パフォーマンスでバックダンサーがケガをしたりして、その責任の一端をダンサー自身が負う場合もある。
そんな万が一の事態に備えて保険に入ることが一般的なのだが、保険会社としてはどこの馬の骨とも知れぬ奴と契約したくない。
そのためプロを目指すダンサーは推薦状を手に「自分にはいざという時面倒を見てくれる存在がいる」とアピールをする必要があるのだ。
逆にいえば、推薦状を手にすることがプロダンサーとしての一歩といえる。
これは業界の不文律。表にはなっていないが、レッスンに通う者なら肌感覚で理解しているべきこと。
だけど貧乏なエリスは、その前提にすら触れることができなかった。
その後もエリスは何回かチャレンジした。
だが、ダメだった。推薦状はレッスンの指導者が書くものであり、レッスンに参加できないエリスはどうあがいても入手できない。
推薦状がなく、それでもプロを目指す道は、もう一つしか残されていない。
それが年末と新年にかけて収録・放映されるテレビ番組『ヴィクトリア』だ。
テレビ局によるリアリティショー形式の新人発掘であるこの番組は、ダンスや歌に覚えのある一般人が参加できる。
参加は動画投稿による選考を経て、予選会。
そして予選会を勝ち抜けばテレビで生パフォーマンスを行うことができ、運が良ければスポンサーが付く。
もちろん、応募人数は圧倒的。ここで夢を掴むことは、砂漠に隠れた一粒の砂金を探すよりも難しい。
それでも、そもそも夢をかなえるためのルートすら切り開けなかったエリスにとっては、ここが夢に挑戦する最初で最後の機会だったのだ。
――もしも『ヴィクトリア』に挑戦してダメなら、諦めよう。
そう決意しての挑戦。
動画投稿による選考の合格通知と予選会へのチケットが送られてきたときは、本当に嬉しかった。
そしてあの寒い日。
エリスは予選会が用意したホテルに向けて歩いていた。
その日はホテルに泊まり、翌日がいよいよ選考会。
そのはずだったのに。
大事なチケットが入った鞄を、路上強盗犯に奪われたのだ。
――返して!
暴力を振るわれつつ、腕を伸ばした。
――それには私の夢が入っているの!
――叶うはずのない、もう死んでいる夢かもしれないけれど、せめて私の手で弔いたいと願った夢が!
――私の夢の亡骸すらも奪わないで……お願いだから……っ!
哀願のような情を込めて伸ばした腕を、犯人は軽くあしらった。
――ああ、そうなのね。
――私のような人間は、夢を持つことすら許されないんだ。
心がタールのような絶望に沈む。
もうここで死にたい。そう思った、その折。
【おい】
発音に異国情緒の混じるドイツ語が、彼女の耳に響いた。
【あんたが手に持っているそれを、大人しく渡してくれ】
冷たい石畳の上で打ちひしがれていた時に、現れたのは。
黒い髪に黒い瞳を持つ、同い年くらいのヒーローだった。
【と、いうことなのです】
長い語りを、エリスが締めくくる。
俺はむず痒くなった。
ヒーローだなんて、俺のガラじゃない。
けれどこんな美少女からそう称してもらえることが、俺の心の男の子な部分を羽毛のようなタッチで擽ってくるのだ。
【私は予選会で落選してしまいました。けれど、私の夢は綺麗な形で天国に旅立ってくれた――そう思います】
そう言って、彼女は俺をまっすぐ見る。
【あなたがチケットを取り戻してくれたから、私は夢に挑戦できました。あなたが私の夢を、地獄から天国に導いてくれました。もう一度、心から言わせてください――ありがとう】
礼を言う彼女の綺麗な瞳には、俺の姿が映り込んでいた。
俺はその美しい瞳に思わず嘆息してしまい、そんな俺を見て、エリスの後ろにいた謙吉がニヤニヤと笑っていた。
その日以来、エリスは俺の看病に訪れてくれるようになった。
平日になれば、謙吉は留学校に行く。
それが留学生としての本分だ。
けれど俺はまだ本調子でなく、ホテルで療養するしかない。
だから謙吉の代わりにエリスが看病をしてくれた。
エリスの看病は献身的だった。俺はそれに甘えてしまったが、俺が甘えることをエリスはむしろ望んでくれていたようでもあった。
俺とエリスは色々な話をした。
会話するうちに、お互いの距離が縮まった。
どちらかが提案するということもなく、自然と「エリス」「オト」と呼び合うようになった。
やがて俺が立ち上がれるようになると、エリスは俺を支えてリハビリがてらの散歩に付き合ってくれた。
ダンスをしていたというエリスの体幹は確かなもので、俺がよろめいてもしっかり抱きかかえて転ばないようにしてくれた。
本当にキラキラした甘酸っぱい思い出だ。
だが、その甘い日々こそが、エリスを狂わせてしまったのだ。
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