確信の一矢への応援コメント
先崎 咲 様
非常にロジカルです。
先ず、「緊張感」と「ひとさじの不安」を対比させるという、"感情状態"の対比が、微細な差を掬い上げる感受性を思わせます。
そして、「これは大丈夫だろう」と「そうであったら良いと思う」という日常的な"坦懐した述懐"とでもいう一人ごちを、詩そのものの情感として置いているようにも考えさせられる。
経験の積み重ねで正しさの型がうまれる事、を、この詩は不安として読み手に印象付けることに成功しているのではないか。
確信、革新、という言葉の選びそのものもだけれど、不安の石つぶてとも言えるような、だがしかしその不安がこそ革新をうむ、確信出来るものではないが、「そうであったらいい」という"希望的観測"を表現しているとも言える。非常に、捉えようとしているところが微細のところにあり、琴線に響くのですが、あまりに俺に出来ない表現で、今回も圧倒です。読ませて頂き、ありがとうございます。……革新を、"多分"としたり、詩の威力を弱める筈の表現で反って感想を強くしてしまう。つまり、暗喩表現の意志伝達というより、文語表現が確信的の中にありながら革新的に行われている。そんな力強い矢を感じます。「確信の一矢」見事。
作者からの返信
嬉しいコメントありがとうございます!
最近は忙しく、あまり返信できませんでした。
来年も頑張って更新していく予定なので、見に来て頂けると嬉しいです。
編集済
病への応援コメント
病の事を考えて、
病とは正しい状態なのか、
詩を通じて思索されているのを感じます。
最初の三段、
「白い病室に一人、色を抱えて」
から入る導入は、
短歌でいうところの序、
内容に入る前の説明という印象ですが、
この三段が大変印象深く、
病を表現する描写として豊かに感じます。
先崎 咲 さんが、
大変深く考えられているようで、
読んでいて考えすぎていないかと
少し心配になる一方、
病、というものと強く向き合われる姿勢、
そこから多数派と病、
ひとりだけ残された正気の人間は病とされるか、
と思索を広げる姿勢に心を打たれました、
欠けているのか、多すぎのか。
私は、
自分自身が長く病に遭ってきた人間なので、
少し病について考えますが、
病の中で人の痛みを知る、
病の中で人の不完全さを知る、
というのが病の大きな意味だと考えます。
何もかも順風満帆で、
足りないところがない。
という毎日もよいのですが、
人間の体というのは最初から、
脆いものだ、不完全なものだというのを気付かされる、そのような体験を通じて自分自身を見詰めてみるという機会が、病によって人に与えられます。
それは、今まで知らなかった人の痛みに気付けるようになるという事でもあるし、
そこで病のままに命が、そこでもし仮に終わっていくとしても、案外にその日々というのは誇りがあり、仮にその姿を嗤われる事があっても、自分なりに満足をして過ごす事が出来たら、実は同じ不完全な状態で生きているという意味では健康な人と何も変わらない。というのが私の意見です。
ただ、私は、一人正気な人が残されたら、
については、
その状態ではその人がマトモだと思います。
明らかに人を傷つけよう、
苦しめようとする人達しか居ない中で、
勇気を持ってそれを変えようとする人がもし居るのなら、その人物は異常と言われるというより、正常と認められながらに妬まれる人物になると思います。
誰も自分自身を欠けた者だとは思いたくないからですね。
私自身、以前程盛んではなくなったのかもしれませんが、終末期病棟のボランティアというのを一度してみたいなとよく思っています。
「ナルキッソス」というカトリックの病院を舞台にした「ステージ⭐︎なな」というところが出している終末期病棟を舞台にした同人ゲームがあるのですが、好きすぎてクリアを躊躇う程なんです。今でもダウンロード出来るみたいなので、ホスピスや終末期医療、尊厳死にご関心があったらオススメですよ。7Fに運ばれた患者さんは白い腕輪を付けられて何回目かの再入院で亡くなってしまう、その運命に抗うようにして病院を抜け出して・・・というストーリーです。
今回も長文になってしまい、申し訳ありません。
お返事が来なかったので今回は遠慮しようかと思っていたのですが、どうしても話しかけたくなってしまいました。
先崎 咲 さんも、私の感想から何か思った事があったら、どんな事でも返して下さると私はとっても嬉しいですよ。
今回も、素敵な詩を読ませて頂いて本当にありがとうございます。
エニグマ・スパイラルへの応援コメント
先崎 咲 さん
謎を謎のままで心に沈め、死なせたくないという憶いを感じます。
エニグマとは、ナチスの暗号機でしょう。
先崎さんがこの名称を用いた言い難い感情をどこか感じています。
世界は単純ではなかった。
と主人公は独白します。
この主人公は詩集のタイトルで全く別のことを告白している人物です。
私は、暗号というのはその人の心の中にあるその人の為だけの問いだと思います。
解くための入り口が分かると、見えて来るものは単純で、己を知る、己という宇宙、己という暗号を解いていくことが、全てこの世界の謎を紐解く事だと思います。
そして、この詩の主人公はエニグマという凶悪な暗号が背に張り付いている中で、暗号を解くことを諦めない意志がある。
一人だけの闘い。
成長をも憎み。
純粋をも溢し。
一つだけまた余計な事を言います。
私は、先崎さんより恐らくかなり歳上ですが、今の先崎さんよりずっと単純に生きています。
解いて、出た答えばかりではなく、
苦しみ、苦しみ、ただ忍耐した日々の先に、
思いもよらぬ形で答えが顔を出す。
するとまた謎が顕れるのですが、その謎もやがて解けるだろうと、楽しみにしながら、考えるという事も特にしていません。
先崎さん、私は人の100倍考える人間で、それは、悩んで悩んで苦しんできた。
先崎さんの悩みは先崎さんだけのもので、先崎さんにしか見つけられない美しさが満ち満ちている。
その全てが先崎さんご自身であることをどうか知って、喜んで暗号を解いていって下さい。今日はここまでにしますね。
薄氷と空への応援コメント
先崎 咲 様
一つ先の詩に続いて、こちらの詩にも感想を付けさせて頂きます。
優しく暖かい風景描写、まるで絵本のような語り部のような表現に涙が出そうになり、
少し、冷静になり考えています。
「水底から」という先崎 咲 さんの詩がありますよね。私はあの詩が、とても好きで、更に言うと「こころ」も好きで、そこに通底する主題を感じてしまい、感想を述べていいかどうしようか悩んでしまうのです。
しかし、「水底から」より晴れやかで、影の存在がもうハッキリとみる事が出来ているようにも感じられる。
先崎 咲 さんの知る何らかの、私には完全には捉えられない大切な何か、影。
繰り返し繰り返し描かれてきたようにも思われるのです。
私は、先崎 咲 さんに作品を贈ろうと考えています。随分前、「水底から」を読んだ時からタイトルは決まっていて、「Cigarttes for a flower, Milk Crown.」という短歌で出来た物語です。先崎 咲 さんのことは詩を通じてよくその御心を伺ってきたようで、まだ、肝心の主題を一つ、二つしか知らない。
そこで、先崎 咲 さんの詩以外の創作物もゆっくり読ませて頂こうかな、なんて考えています。詩に限定するつもりだったんです。とにかく先崎 咲 さんの詩が好きだから、感想を付けるやりとりに余計なものを混ぜたくなかった。
ですが、俺のcigarettesは言うなれば花束なわけですから、知れば知るほど的確な花を選べるというものです。近況ノートで説教みたいなこと言って、本当に失礼しました。俺は、その人に情があるとつい余計なお節介をしてしまう。迷惑だったとは思いますが、何も言わないでくれて、それで良かったです。
多分、先崎さんが思うほど俺年配でも大人でもないからね。偉そうなこと言い過ぎて来ました。
まだまだ、先崎 咲 さんの詩はいつまでもいつまでも楽しみにしていますけど、もしかしたら、他の短歌や小説作品にも少しずつお邪魔するかもしれません。
しかし、基本は先崎 咲 さんの詩にピッタリ付いて応援しているこの関わりを変えてしまうつもりはないですからね。安心して、元気にこれからもよい詩をたくさん書かれて下さい。
いつも素敵な詩を読ませて頂いて本当にありがとうございます。
作者からの返信
たくさん感想ありがとうございます。
詩の比喩表現はかなり力を入れているので、評価してもらうと嬉しいです。
冬の人魚らしきものへの応援コメント
先崎 咲 様へ
お久しぶりです。
こちらの詩から、感想を書きますね。
一個前の詩、「薄氷と空」ですか。
こちらが先崎さんにとって何か意味深いテーマに思えるだけに、こちらの「冬の人魚らしきもの」は、読んでかなり楽しくなってしまいました。
どうした!笑
とツッコミを入れたくなるあたりは、「コタツムリとは親戚です」とか「ひっぱらないで!」といった表現で、これまで非常に真剣なテーマの詩ばかり読ませて頂いて来たせいで、なんか赤面すらしそうになります。笑
しかし、お話し自体は実は真面目なままなんですよ。寓話的なモチーフから本当の意味の童話的なモチーフに移ったといいますか、非常に嫋やかで優し気な感じなのです。
今、暦は秋、と勝手に勘違いしながら、公園を散歩しながら読ませて頂いてたのですが、冬ですもんね。クリスマスも近いのです。楽しみですね。
冬は、足が悴んだり冷えたりして、あまり寒い中を歩きたくなくなるものです。そんな時、ストーブではなく暖かなエアコンがボワーと稼働している部屋で横になっていたら、動きたくない生き物にもなってしまいそうです。
こたつむりとは親戚ですか。何かそういうの私も考えたいですね。マフラーの妖精、なんてどうでしょう。冬はマフラーが好きです。毎年買いたくなりますが節約して我慢。しかし、巻き方を毎年忘れて、必ずピッティ巻きにたどり着いてマフラーは暖かいなと喜んでいます。
先崎 咲 さんの所にも素敵なサンタさんが来るとよいですね。いえ、先崎 咲 さんがサンタなのでしょう。トナカイにでもなりたいものです。
すれ違った犬への応援コメント
犬の優雅だけど、愛らしい姿の浮かぶ素敵な詩ですね。
リードを引っ張り誇らしげに、というところから、大型犬か、ある程度の体躯のある力強い犬が連想されます。
また、首輪や毛並、まんまるなお目々から想像するのは、若い犬でしょう、飼われて一年、成犬になったばかりのようなワンちゃんと、先崎 咲 さんが初めてすれ違った、そんな光景が浮かんで微笑ましくなります。
尻毛が白い、という描写から、先崎 咲 さんがこのワンちゃんに強く心を奪われ、足すらも停めて見ていた様子が伺えます。
尻毛が白い犬というと、ボーダー・コリーが浮かびますね。私は17年ボーダー・コリーを飼っていて、しんどい時なんかには今も彼女の鳴き声が聴こえてくる程、大切な犬でした。
ご機嫌な尻尾は、飼い主さんとの幸福な散歩を犬が楽しんでいる証です。その尻尾の揺れを確認して、嬉しいだけでなくどこかホッとされているような光景が浮かび、詩を読ませて頂くことによって追想することで私自身もホッと出来ています。
こんな軽やかで優しい詩も、いいものですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
犬のかっこよさが伝わってよかったです。
瞳への応援コメント
おはようございます。
「瞳」、読ませて頂きました。
こちらの詩を読んで、
脳裏に過った詩があります。
萩原朔太郎の「竹」またそこから続いてはずの「地面の底の病氣の顔」という詩です。
こちらの詩からならなぜ、
朔太郎を連想するか、
それは、先崎 咲 さんが、
詩そのものと睨み合って、
取っ組み合いの喧嘩をしている、
そのように見えたからです。
「地面の底の病氣の顔」という詩を、
よければ読んでみてほしいのですが、
この詩で朔太郎は死人のような
恐れるべき、まるで不吉のような
病の巣喰った人物の顔と対峙しているように思われるところがあります。
恐らくは、朔太郎自身と対峙し
まざまざとそれを見た
それを見たのに生きている
と、読んでもよいものがこの詩にはあると、私は言ってもよいと思います。
私は、かなり若い時から
詩を書くのが好きでしたが
本格的に詩を書いたのは
20年前くらいになります。
その頃、まさに己の心に巣喰う病との対峙を初めていて、私は、もう一人の自分の顔とも言える、幻というには恐ろしい、夢というには希望のない、更に言うと、神や悪魔というにはあまりにも身近すぎる、実体不明、正体不明、しかし「詩を書く」という営みの中でのみ辛うじて舞台へ引き摺り出そうと出来る、その存在の存在を書いている自分自身が確認した——ということを詩にできる——それが詩を書くということの本質の一つであると考えるようになりました。
私は、先崎 咲 さんの最近の詩が寓話的であり、また心理学の元型イメージを想起させるより普遍性の高いテーマへと入っていかれている、とこの間書かせて頂いたと思います。
あまり直接的な言い方をすると、先崎 咲 さんへ私が何を一番に親しみを持っているかが明白になり過ぎてしまうので、文学もへったくれもなくなってしまうのですが、人間の心を看る時に童話や寓話が参照され、その童話や寓話には人間の心の普遍、元型イメージであるアーキタイプがふんだんに含まれているとしたら、その普遍の根源となるのはどこでしょう。
創世記 32:28-30
という箇所が、「聖書」という書物にございます。つまり、詩と対峙するというのは、そのような意味合いだと私は考えており、これほどまで深い詩との対峙は私自身も経験が少ないというほどの真摯な対峙を先崎 咲 さんは行っている。ですから、先崎 咲 さんの詩が心から私はよいと思える、という事をこの「瞳」という詩で私は改めて感じ、あなたの書かれる詩に書かれる深い愛のようなものに感動を覚えて何度も涙を流している私が、いつもどこかにいるということなのです。
この事を、私自身もよく吟味しなくてはいけません。背筋も凍るほどの詩という怪物との対峙がある程度済むと、その人の詩には自由さが生まれ、普遍を捉える作業からより具象を、友のようにしてその表舞台に引き摺り出したもう一人の自分と共に描くようになります。ですがどうでしょう。どんな書物も初めて対峙した時の強い感動をそのままに、同じ深さ、新しさで対峙を続けられるか。そこには、日々新しく生まれ変わる真摯さが必要だというのは言うまでもないことです。
先崎 咲 さんが、詩と対峙され慄いている。それはもう一人の己の姿の強大さそのものを普遍の中に視認しているのかもしれません。ここからは少し、キザになりますが、恐ければ私を呼びなさい。私は詩で日本詩会の頂点を取るつもりしかない人間です。
イザヤ書 6:8
どうか、先崎 咲 さんが、ご自身の対峙されているもう一人のご自身との対峙を最後まで丁寧に行うことが出来ますように。そして、その過程を共にしている私にも、更に深く己自身の病と向き合い、その病に打ち勝ち、詩の本質とより親く交われることが出来るように、ただ先崎 咲 さんはいつまでもよい詩を書かれて下さいね。
ちなみに、ついつい私は一言余計な人間なので付け加えてしまうのですが
イザヤ書 43:4 新改訳
私が人付き合いで深く大切にしている事はこの箇所と非常に密接なものです。
そこに明確な理由や説明がなくてもいい。
ただ、自分にとって尊いものを愛せばいいし、愛すると決めたものは、どんなに弱く醜いものでも、それは決して弱く醜くなどはない。
そして、弱く、暗く、醜いとも言われ指を指され嗤われるような人物のために、命を捨てる覚悟を持つ、それ以上の愛はないのではないでしょうか。
詩にはそれが出来るんです。
詩とは己を愛する事です。
今回は以上です。本当によい詩を読ませて下さってありがとう。
深く感動しました。本当にありがとう。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
アーキタイプは印象的な心理学だったので私も昔調べたことがあります。遠くとも人間という生態に普遍的なものがあるということはおもしろいですよね。
普遍と自己の切り分けは創作(特に詩という形)の難題だと思います。
これからも、詩作の中に分け入っていきますので、見てくださると幸いです。
うつるへの応援コメント
先崎 咲 さんへ
大人っぽい詩ですね。先崎さんも、人と出逢ってその方の心に遺ったり、また、誰かがご自身の心に遺られたりという経験をされているのでしょう。
相手の持っている仕草や匂い、または風邪すらもがうつって、その人物は己の元からやがては居なくなり時が、住処や、記憶すらもが移ってしまう。
私はこういう時に、案外モノというものは最後まで遺ると考えることがありますよ。モノより心遣いや、想い出、記憶、場合によっては食べもののような栄養が大切だと考える私ですが、モノはモノで想いがちゃんと込められていて、人間の身体より実は長持ちすることがあります。
モノより身体が、身体より心が大切ではあっても、その心が、捨て置かれているような現実がある時、人の心に何かを残す時にモノが必要になることがあります。本当は、モノなど全て捨てて、誰か一人と笑い合っていれたら、それが一番いいに決まっているんですけどね。
先崎 咲 さんって、昔、俺の作品を読みに来てくれてたことあったと、記憶しています。いつからか、ずっと俺が感想付け続けるようになって、すっかり一方通行ですね。先崎 咲 さんの詩は本当にいいから、先崎 咲 さんの詩心の中に何かものが残ってくれるといいなと思います。
長文ごめんなさい。いつからか先崎 咲 さんの詩をこんなにも楽しみにしてしまっていました。残る、とこの詩は終わっていますが、仰りたいことはタイトルの言葉の方でしょうね。さすがだなと思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
確かに、のこるモノとの付き合い方は難しいですよね。
地獄への応援コメント
とても、思い切りのいい詩ですね。
先崎さんが感嘆符を使われたのは初めてかもしれません。なんて、優しい怒りのぶつけ方ですかね。微笑ましくなります。
もう、にこにこです。
地獄に落ちた方がよい人というのはなんと多いことでしょうか。
それも事実なのかもしれません。
しかし、それよりもっと重要なことは、今地獄に生きている方が、地獄から抜け出すことではないでしょうか。
仮に世の支配者がいるとしましょう。
その人物が救いようのないほどの極悪人だとして、その方がもし心から戒心した時にはどれ程の犠牲者を減らす事が出来るでしょう。
地獄にも種類があり、
病院という地獄はどうでしょう、
更に、奥へと進み、
精神病棟という地獄もございます。
刑務所ならどうですか。
私は、地獄にこそ向かいたいと考えて、日々その為の準備をしています。
出来る事なら、地獄に一人だけ残されて、それ以外の人はすべて地獄から逃れられるような未来を描いてみたい。
ダンテは嘘つきなのですよ。
その七つの意味合いこそが、
本来、手を差し伸べるべきものであると考えていますし、小さくはありますが、私はそれを一人で始めようと考えています。
先崎 咲 さんにお見せ出来る日が楽しみです。
そして、このようなことを
深く、深く、傷つき、裁きたいほどの想いがある中でご自身を責めようとされる先崎 咲 さんは決して悪人でありません。
大丈夫です。
よい詩をまた読ませて下さいね。
本当に、いつも読ませて下さって、ありがとうございます。非常に、嬉しい気持ちです。
作者からの返信
まとめて感想ありがとうございます。
この作品はダンテの「神曲」を読んで、思ったことを端的に詩にしたので、知っていてくれて嬉しいです。
地獄論とは自己の哲学や正義感、道徳心との戦いだと思います。れんさんが、納得できる表現や答えを見つけられるといいですね。
秤にかけたへの応援コメント
こんばんは。
お元気ですか。
北海道に来ています。
この詩を読んで私が不思議だったのは、
秤というものに、現実と希望をかけて、どちらかを取らなければならないという、実感のことです。
現実を重ねた先にしか希望はないのに、確かにこの詩のように仰る方を見聞きすることがあります。
例えば、お金ともう片方を対比させるなら、私はお金に一切の価値を感じません。
貧しさの中に身を置くからこそ、生まれるものがあります。こちらは分かりやすい。
しかし、
「夢」「感情」「羨望」があるとしたら、
これは本当に秤にかけなければならないのでしょうか。現実はそこまで頑ななのか、という最後の問いがそのまま、問いかけとして読感に残って楽しいですね。
現実、というのは、
現実を生きるには必要なことです。
しかし、現実を知らないまま死んでいく生き方というのもあるのでしょう。
それが幸せかどうかは、現実の中に生きなかった方をよく考えれば分かると思います。
私はその方が一番幸せだと思いますよ。
私はそのように生きて、
小さくも死んで行こうと思っています。
先崎 咲 さんの詩からは様々なことを想像出来るので、自分勝手な感想を述べてしまってごめんなさい。読むのが楽しみだったので、また北海道で先崎 咲 さんの詩を読めて、うれしいですよ。
大きな木の陰でへの応援コメント
寓話的なような、
騙し絵のような、
あるはずのものが取り去られる、
そこに一寸の寂しさと、
何か要るはずだったものが剥奪された感覚、強いて言えば、喪失したと呼べない対象を喪失した時の感覚とでも言えばいいのかもしれません。今回も、様々な事を浮かべながら読みました。
人影というものは、
普通は、夢に出てくるシャドウとか、
それこそ寓話的なイメージで、
様々な形で扱われていると思うのですが、
その人影を実際に目にした方が居ました。
その方はどこに居ても、
傘を指している人影が見えていて、
その人影が自分を守っているような
そういう幻覚のような、
幻覚や幻視というにはハッキリしない、
何か人の影の形のようなものを見ていて、
その方の前に私が現れて、
暫くすると居なくなっていったようでした。
補償という作用が心にはありますが、
暗い面が自分を影として支える、
一人で生ききれない自分を
もう一人の自分が支えに来る、
そういった影をその人は見ていたけど、
大丈夫になって見なくなったんでしょうね。
その後はその話しをしませんでした。
何となくですが、
個人的に先崎 咲 さんのこの詩と、
違うんでしょうが、もし心理学的に
考えるなら近いテーマが、
表象が流れてるかなとそんな気がしました。
大きな木と傘、人影ですね。
守られた人影が生きられない面だとして、
その面そのものが守られながら、
自分を守る。
影は守りに来ているけど、
傘で守っていたのは現実の自分。
ユング心理学でいうシャドゥ原型と、
ピッタリ重なり、
また、心理学は多くの童話寓話を
研究対象にしてるから、
寓話的な詩には心理童話的な意味が、
必ずと言っていいほど入る、
というところに帰結するかと思います。
長くなりましたが、
こうやって色々と考えながら、
発想の素になるというか、
詰められているもの、
そこに書かれているものが普遍的な詩を、
先崎 咲 さんは書かれます。
書かれた意図を大きく外れた読み方は、
私の場合、結構自分の詩についてはされると、
メッセージ拾ってほしいと感じがちなのですが、先崎 咲 さんの詩は、読む人の数だけ答えが変わるタイプの詩なのでしょうね。
本当、ポケット詩集を読むより、
ずっと新しい世界が見れるというくらい、
感動することが何度もありました。
いい詩は、本当にいい。その言葉に尽きます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
私の詩は抽象表現が多いと思っているので、読む人の数だけ答えが変わるというのは正解だと思います。今回使った影というものも、シルエット以外は何もない抽象表現の極みのようなものですから。
編集済
あまりものへの応援コメント
先崎 咲 さん
私は、あの後、酷い悪夢を見ました。
私が先崎 咲 さんの詩をよいと思っている事も、私が詩に人より気持ちを込めて書いている事も、本当です。
先崎 咲 さんの作品にどこか流れているテーマと近い性質のものを、私も、描こうと考えていて、先崎 咲 さんの作品に立ち止まって考えている事も本当です。
ですが私には、常識もなく、恐らく先崎 咲 さんの半分の誠実さも元来有していない人間でしょう。酷い夢を見るのも当然です。
私は、先崎 咲 さんの作品に対してどんな貢献が出来るか判っておりません。ですが、以前のPNで活動をして居た際出逢ったクリエイターさんで、重要な方との交流は続けており、その中で私が最も真面目に感想を付け続けたのが先崎 咲 さんであり、詩に付いていえば、これまでは他の方には応援のボタンすら押す事は殆どありませんでした。
先崎 咲 さんの詩に私個人が重要な意味合いを感じとっている事は確かで、それは詩に限らずとも先崎 咲 さんの作品に深い共感を覚える程になっている事も本当。しかし私には誠実さがなく、故にひどい悪夢さえ見るのです。常識がなく、先崎 咲 さんのような方に心配をかけてはいけないのに、そう言った言動を取るから、以前のPNを捨て、新しく始めることになりました。
本来のコメント機能の範疇を越えているのかも知れないとの事ですので、ここまでにしますが、先崎 咲 さんのご活躍には私は大変期待しております。私の作る物が先崎 咲 さんの心に叶うかは分かりません。それでも、私は先崎 咲 さんを応援する気持ち、その作品の感性に痛く感心している事は事実で、その想いが減じる事は多少あっても、消える事は生涯ない程に想いを込めて感想を書いております。
作品への感想というのは、そういった性質のものだと私は考えますが、いかがですか。
これからもよい作品を書かれていって下さい。先崎 咲 さんの作品を心から楽しみにしております。2025.10.14 2:37 修正済
作者からの返信
感想ありがとうございます。
国語的でお手本になるような詩というのは、私が目指している文体なので、そう言ってもらえて嬉しいです。
また、感想は許可制ではなく思ったことを書けばいいと思うのでお好きなようにしてくれればと思います。良いと思えば書くくらいでいいと思います。あまり感想に気負わないでください。よかった、という感想だけでも嬉しいものです。
おたまじゃくしといもむしへの応援コメント
先崎 咲 様
新年の挨拶は置いておくとして、詩の感想に入ります。メタモルフォーゼ、という言葉を聞いた事はあるのですが、横文字が苦手なので実は調べてしまいました。カフカの「変身」という小説を導入だけ読んだことがあります。この詩が文語として行っているのは、メタモルフォーゼとはどのような状態・現象であるかを、直喩を通じて問いかけるというもので、直喩でありながら、問いそのものが生命というものに普遍として起こる「変化」をいわば、死からすら円環するようにさえ響く表現で投げかけられている事です。
一段、一段の一撃が、決して強くないのですが普遍的な内容ばかりなので、また比喩が明確で、イメージしやすく、また事実生物の意外を捉えているので、最後メタモルフォーゼという言葉が出た時にその意味するところを考えだ事がないと、心の内で何かが急回転して理解しようと解読が始まります。非常に楽しい。
私は芋虫の事はよく考えますね。芋虫は、卵から芋虫に、芋虫から蛹、蛹から蝶と三度も変化をするし、芋虫の時は「幼虫」という状態で食物すら違う。私は、芋虫が好きで二匹の芋虫を、片方は蛹、片方は蝶になるまで育てた後で、蟻の飼育へと好みが退行して、蟻の餌として芋虫を連れてきて親に叱られ、泣きながら返しに行った子ども時代があります。人生で一番傷ついたのは、芋虫を蟻に食べさせようとしたその時かもしれません。
一方、おたまじゃくしの事には疎く、カエルという生き物に対しては不思議というか、恐れのような感想があります。彼らは痛みというものがあるのか、という疑問や、「井の中の蛙」「蛙
の子は蛙」という言葉を何度聴いても理解が出来ないのです。私は、カエルを何百匹、鶏小屋に離して餌料にしても心に痛みを覚えなかったし、彼等には恐怖とか痛みというのが果たしてあるのか、その事が疑問というか、カエルに聞いてみたくて、ずっと不思議で恐れています。
内容から逸れて申し訳ありません。
しかし、おたまじゃくしはカエルになる。水から陸に上がるという事ですよね。魚から爬虫類になる。という事でしょうか。
そうすると、劇的な変化、まさにメタモルフォーゼ、と考えてしまう。
通常魚は魚のまま一生を終えます。魚を飼育する趣味がありますが、彼等は感情豊かで、ほぼ哺乳類と大差のない仕組みで暮らしていても、やはり水棲生物で陸では生きられません。
芋虫の劇的変化は、草っ葉から、その花の蜜へと移る。植物との共生関係が非常に強い生き物であり、その生涯は幻想的です。しかし、カエルも同じように、得体の知れない幻想的な暗がりから陸へと這い上がる。おたまじゃくしの時に食べている物とカエルの食べ物は、少しだけ違うようでもあります。(カエルは、芋虫を食べるのですね。)
おたまじゃくしはよく文学のモチーフにされるので、水棲生物としてのメタモルフォーゼの意味合いが非常に強く、芋虫や蝶は植物との関わりの中のメタモルフォーゼの意味合いが強い。おたまじゃくしになる事だけでも想像が難しいのに、そこから、カエルになって、鶏に食べさせられたらそれを受け入れられるかというと、恐らく持っている感情・性質……個としての変化、"性格"や"人格"、"気質"という変化が最も受け入れ難い。
虫や水棲生物になっても、思考や理性等の"個としての己"つまり"Ich=自我"が保たれていれば、そこまで畏れる必要はないでしょう。それが仮に保証をされるなら死をも怖くはない。外見や食糧が変わるだけで、己が己であり続けるのであるならば。
しかし、実際に人が生きる中で、「この人は変わってしまった。」という変化に、10年もその人と接していると出遇う事がある。肯定的で前向きな変化でも、戻らぬものがある。芋虫やおたまじゃくしにはもう会えない——という意味で恐らしくもあり、何か寂しさを覚える出来事として、友人を見つめる事があります。
人は変化をする。哺乳類の中でも人間は、こども時代があまりに長い。18年も、両親の保護下に置かれることが懸命とされる生物は、他に類がない程に準備期間が長い。そして人間には、幼稚・保育園から、小学、中学、高校、大学、社会人とライフステージとしての劇的なメタモルフォーゼを文明というレベルで構築をしており、その段階での変化は生物学的な変化とも、心理学的な変化とも強い一致、相関関係にある。そうしてアイデンティティ=自我同一性を達成する事で、カエルや蝶になるという長い成長過程を経る。この事を憶います。
私自身、大人になってからでも一年で自分の向いている性格が丸っ切り向きを変えてしまう事がある。例えば、以前は異教徒だった人間が熱心にその時にはなかった真理に目を向け始めたら、その変化はまさに、死というものに対しての大きな変化を得る。新しい生を経て、死に打ち勝ったという"信念"を経て生きていくなら、これは、人間の経験し得る最も大きな行動上やパーソナリティの変化を生む。
以前、先崎 咲 さんが詩に書かれていた病もそうですし、失業や、離婚、死別、争い、ネガティブな変化にも常に出遭う。そんな中で一貫する、私は芋虫であるとか、私はおたまじゃくしであるという、自分自身、"Ich"が安定して保たれるというのは現実には困難が多いのだと、思い返して実感します。
しかし、そうであるから絶望もありますが、そうであるから希望があります。先崎 咲 さんな詩を読んで、私はある私の研究したいテーマのキーワードを浮かべています。
それか『可塑性』という言葉です。
こんな風に使います。
「若い時はなんだってやり直せる。心が柔らかくて、身体だってすぐ健康を取り戻すから丈夫だ。これは若い人の特権で、失敗が許される。だから何度だって挑戦し、失敗を畏れてはいけないよ。可塑性があるのだから。」と。
私は、この言葉に強い疑念を覚えます。
変わるというのは、芋虫から蝶のように、おたまじゃくしからカエルのように、強い痛み苦しみ葛藤を覚えます。これが毎年のように激しい形で起こっていたら、確かにやり直しは利いたとしても、その絶望感はたまったものではないのではないか。
若い人の事を妬んで大人がいう、嫌な達観的なセリフなのではないかと、疑ってしまう言葉だなと思います。
「幾つになっても、人生はやり直せる。」
俺はこっちの方がシンプルで好きですよ。
以前終末期の病院の話しをしましたが、「これから、亡くなってしまう人」というのが身体の苦しみで亡くなるならまだ心は取り戻せるかもしれない、これから、生活や絶望を苦に心的な葛藤から死のうとする人なら、単純に誰か一人その人の近くにいる人がいれば、その人の命は絶対に繋がる。
一人の存在が多くの人の光や希望になる。そんな生き方の一つが、詩人や、作家と呼ばれるものじゃないかと思う。多くの劇的なメタモルフォーゼを経験して、練り上げられた苦しみの"Ich"それがその人の言葉の含蓄ある言葉となって放たれる時、その作家の一言が、人の心の決して動くことのなかった部分。
「もうこの人は可塑性がない。」
「何を言っても変わらない。」
「助からない。」
と言われいる人の、深い所へと言葉を送り届ける事が、詩人や作家には出来ます。
確かに、本当はその人一人を心に抱いていれば、全ての人が傷つきや苦しみから癒されるというスーパーヒーローに、自分もなれれば、それは、憧れるなと俺は思う。
真似事でもスーパーヒーローのように生きて、死んでも同じ事が出来ないかと思う。
しかし、初めには何があったでしょうか。言葉です。言葉によって成らなかったものは一つもなかったという信念の元で生きる人間が、言葉をこそ追求し人を想っていけたら、それは大きな力になるのではないですか。
先崎 咲 さんにも私にもそれが小さい光だとしても出来る事なのです。火を灯すことが出来るのです。カクヨム作家だって、人を助ける力を十分に持っている大事な働きです。
今日は年明けという事もありいつも以上に熱が籠って申し訳ありません。しかしながら、私はこの時が一番楽しいのです。今年も、先崎 咲 さんの詩で立ち止まって考えさせてもらいまら幸いです。新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
作者からの返信
あけましておめでとうございます。
そして、コメントありがとうございます。
「可塑(変化)」と「不変」は自分にとっても強いテーマなので、研究のテーマと聞いてれんさんが私の詩をよく見てくれる理由を垣間見ることができた気がしました。