砂場
Colet
東京・霞ヶ関
第1話 祈り
都心の騒音はほぼ消え、霞が関の官庁街にしんとした静寂が漂う時間帯。
外務省本庁舎の地下深く、機密会議用に設えられた部屋は、さらに冷えた空気に満たされていた。コンクリート壁には音を吸収する特殊なパネルが敷き詰められ、蛍光灯は抑えられた色温度で淡く光る。いつもは静寂に包まれているここに、今夜は数名の人影がある。
テーブルを囲むのは4人。
一人は外務省アジア大洋州局次長・田中慎一郎。50代に差し掛かる中堅官僚でありながら、近年強まる地域安全保障の緊張の中で神経をすり減らし続けている。彼は普段、穏やかな外交文書を草案し、各国大使との丁寧な交渉に慣れた男だが、今夜は違う。スーツの襟元を何度も指先で緩め、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
田中の向かいには、アジア安全保障問題を担当する若手女性官僚・森川知花。30代前半、留学経験も豊富で英語・韓国語・中国語を自在に操る。
しかし、今はその語学センスではなく、素早い思考と情報処理能力が求められていた。彼女はタブレットを握り締め、衛星画像と報告書の断片を何度も見比べる。つややかな黒髪を後ろで束ね、眉間にかすかな皺が刻まれている。
その隣、外務省政務官級のポジションにある年配の男性・小嶋浩二が黙り込んでいる。キャリアは長いが現場叩き上げの苦労人で、東南アジアでの交渉経験や人質事案の裏交渉など汚れ仕事も知る男だ。その表情は陰気で、低い唸り声をあげることなく、視線だけが鋭く彷徨っている。
そして、テーブルの端には一人、スーツ姿ながら左胸ポケットに防衛省バッジを隠す男、川島雅之がいる。
彼は防衛省情報本部の佐官級ポストにあるが、この場ではあくまで「技術顧問」として呼ばれた形だ。外務省側の政治的・外交的判断に対して、必要な軍事的裏づけを示すために暗黙の了解で同席している。肩書や肩章ではなく、彼の冷静な眼光が、ここで行われる会話の性質を物語っていた。
「ブラックブックの所在は確認できましたか?」
田中は息を殺して問いかける。その声には外交特有の柔和さが消え、荒い緊張が滲む。
森川がタブレット越しに答える。「今しがた入った報告によれば、要人は東欧某国の廃工場地帯に潜伏。韓国側がすでに動いています。707を…恐らく派遣した模様。海外情報筋と衛星偵察、それから同盟国の非公式情報提供を総合すると、今夜中にあちらが接触を図るはず。」
「なるほど、韓国は我々の同盟関係を盾に、裏で情報を取り込もうと…。こちらも手をこまぬいてはいられない。しかし公式な軍事行動は無理だ。外交問題に発展すれば、現政権にとって痛手になる。」と、苦い表情で田中は返した。
顎に手をやりながら、小嶋の方を向く。「SFGp(自衛隊・特殊作戦群)は出る用意ができているとのことだったが、本当に動かすのか?」
小嶋は目を伏せ、低い声で答える。「閣僚レベルでは合意済みです。現地での行動は完全非公表。成功すれば、情報流出は防げるし、韓国側の出鼻をくじける。失敗すれば……官邸は関知せずで押し通すでしょう。」
田中はうっすら乾いた笑いを漏らした。「毎度のことながら、我々は影の中で綱渡りをしているな。」
この時、川島が初めて口を開く。その声音は低く、よく通る。
「防衛省としては、外務省の要請であれば技術的支援を惜しみません。SFGpにはすでにブリーフィングが施されました。特殊作戦はしばしば外交努力の最終手段となる。我々は、成功すれば何も語らず、失敗すれば全責任を負う構えでいます。」
彼はあくまで控えめな物言いだが、その瞳には冷めた光が宿る。「私がここにいること自体、公的には存在しないこととして扱われる。ご安心ください。」
森川はタブレット上の小さな地図を指し示す。「東欧の当該地域は事実上の無法地帯。公式に現地政府筋に協力要請できません。よって、SFGpは完全なステルスオペレーション。韓国側も同じでしょう。」
田中は唇を噛み、「韓国は必ず手を打ってくる。国益をかけてブラックブックを回収すれば、今後の外交カードを自由に切れるようになる。何が何でも先を越されたくない。」
薄い蛍光灯の光が、頬の汗を浮かび上がらせる。
小嶋は腕時計を見てから溜息をついた。「我々ができるのは、彼らが成功裏に要人を確保し、情報を回収することを祈るのみだ。最悪の場合、データを破壊するオプションもある。生け捕りが無理なら、敵に渡らぬよう確保するか消去するか…あくまでも極限のシナリオだが。」
川島は淡々と、「運を引き寄せるのも彼らの技量です。少数精鋭の特殊部隊が影で世界を動かすことなど珍しくありません。私たちはただ、静かに待つだけだ。」
部屋の空気は粘りつくような重さを帯びる。外務省を中心に、防衛省から“顧問”を借りる形で成り立つこの秘密会合は、国家が運命を賭ける闇の博打。外交と軍事が表と裏で編み込まれ、光の当たらない舞台で小さな駒たちが動き始めている。
微かに天井が震えた気がする。多分、通風口の音か、あるいは誰かの抑えた息遣い。テーブル上の資料には東欧の地図、気象データ、敵勢力推定位置図、曖昧な諜報報告書が散らばる。どれも不確定要素ばかり。外交とは曖昧なものと知り尽くした田中でさえ、今夜ばかりは現場にいるSFGp隊員たちの運命を思わずにはいられない。
「あと数時間で結果が出ます。」森川は、まるで自分に言い聞かせるように小声で囁いた。「祈りましょう。影に消える勇気に。」
防音室を満たす沈黙は、重い合意を交わした者同士の暗い連帯感だった。
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