幽霊の住まうアパート

ナインバード亜郎

102号室

偽物霊媒師 鍵原未々々

 一軒のアパートの前で立ち止まりスマートフォンで地図を確認した。


「ここが例のアパートね……」


 気持ちを落ち着かせるために、私は小さくつぶやく。

 そのアパートに人気ひとけはなく、昼間だというのに寂しい空気が漂っている。誰も住まなくなった建物はそれ特有の空気を発するというが、これがその空気なのだろう。


 大家さんの話では元々住んでいた住民全員が、幽霊騒ぎを理由に引き払ってしまったらしい。ということは全室で幽霊騒ぎが? そう思った私は大家さんに事情を掘り下げて聞こうと思ったのだけれど、大家がえらい剣幕で喋り立てるものだから思わず気圧されてしまい、とうとう聞き出せず依頼を受けてしまった。


 下手な幽霊よりも人間の方が怖いなんてのはよくある話で、ならば幽霊相手の仕事の方が楽なんじゃないかと霊媒師になったというのに、どうして人間相手に手こずっているんだろう。

 まあ霊媒師の仕事なんてそうあるものじゃないから、貰えるものがあるならどんな内容であれ受けるけど。

 

 二階建て六室のアパート。その102号室の鍵を開け、真っ暗な部屋へ入る。中には前の入居者が置いていった家財が一通り揃っていた。一体前の入居者は何を思って家財一式を置いて出て行ったんだろう。それともこここそが噂の爆心地なのか。


 こんな真っ暗では家探しのしようがないので灯りのスイッチを入れた。が、灯りは点かなかった。紐を試しに二度三度引っ張り、スイッチをオンオフしても灯りは点かない。


「……まさか」


 蛇口を捻るも水は当然出ない。

 ガスコンロは言わずもがな。

 思わず溜息交じりの笑いがこみ上げる。


「幽霊がいつ出るかなんて分からないんだから住み込みで頑張りなさい」なんて鍵を渡されたのはいいけれど、肝心のライフラインが死んでるのにどうやって住み込みで働けというのか。


「住み込みでなんて言うんなら先にライフライン確認しとけよ! 使えるんだって思っちゃうじゃん!」


 思わず床を踏み鳴らしてしまった。

 だって仕方ないじゃない。こんな理不尽な目に遭ったら私だって本人のいないところで文句言いたくなるよ。


 もう一度大きな溜息を吐いて、真っ暗な中、真っ白な仕事着に着替える。白色は穢れの無い清浄な色であり、悪霊の対になる色だ。ついでにこの暗い部屋が少しでも明るくなる効果もある。そうだ。


 着替えを終えた私は早速家探しを開始する。別に売れそうなものを物色してるとかそういうわけじゃない。まあ、売り払っても足は付かないだろうけど。そのお金で清めのお酒を買っても罰は当たらないだろうけども!


 カレンダーの裏や額の裏、物置の中まで一通り触れて回ってみる。こういう時は大体壁にお札か何かが貼ってありそうなものなんだけど、その手のものは何もなかった。


 しかし、手掛かりが無かったわけじゃない。

 音が聞こえるのだ。

 ただの軋み音とかではなく、なにか唸り叫ぶ様な音。


 私は静かに聞き耳を立て、音の出どころを探る。どうやらこの部屋ではなく、隣の部屋からだ。

 早まる鼓動を抑え、静かに玄関を出た。隣の部屋に探りを入れるなら壁に耳を当てるよりも玄関に耳を当てた方が、より中の様子を探れる。これで震源地が確定すれば後は大家から鍵を借りて除霊を済ませて終わりだ。


 壁の向こう側は101号室。

 私は玄関前に止まり小さく呼吸を繰り返す。

 心音を整え――いざ。

 と、耳を当てたその時、うっかり郵便受けに手を当ててしまい、パタンと、小さな金属音を鳴らしてしまった。


 幽霊に生者の存在を気取られてはならない。それは除霊の絶対の掟であり、破ることはその身を危険に晒すことになる禁忌だった。

 それを破ってしまった。


 唸り声は足音共に玄関へとゆっくり近づいてくる。

 まずいまずいまずいまずいまずい!

 やばいやばいやばいやばいやばい!

 私は慌ててそこから離れ、慌てて自室に飛び込んだ。

 いや、どうして102号室に飛び込んでしまったんだ。このまま一旦アパートから離れた方が正解だったんじゃないのか。


 ドアを閉めた途端、外から微かな足音が聞こえてきた。そんな外を出歩けるなんて聞いてないよ。

 暗闇の中で鼓動が耳の奥を打ち、息が詰まる。息をひそめ、音を立てないように慎重に部屋の奥へと下がった。

 その時、ふと目に入ったのはわずかに揺れているカーテンだった。


「風……のせいだよね?」


 いや、風なんてないはずだ。だから揺れている様に見えたのは私の見間違いだ。私の恐怖心が揺れている幻覚を見せて――


 ぴんぽーん。

 無音の部屋にインターホンの音だけが響く。


 怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。


 ああもう!

 人が嫌いだって理由だけでどうして霊媒師なんて名乗ったんだろう。私が私を嫌になる。そんなの耐えて我慢して平気な顔してヒトカラに行って叫び散らしてたら全然よかったんじゃないの!? 霊感なんて無いからなんて軽い気持ちで始めたのに仕事も無くて仕方なくアルバイト始めてそこで怒られて、初めて来た霊媒師の仕事でウキウキして幽霊譚調べて余計な知識仕入れて怯えてこんな醜態晒して、どうして生きていられるんだろう。

 それこそ私が死んだ方が――

 

「――そうじゃない。何をやってるんだ私は」


 下手な幽霊より人が怖いなんて言っときながら、人を逆恨みして幽霊に怯えて自己嫌悪に逃げて。その上絶対に超えないって決めていた一線を自ら越えようとして――踏みとどまれたじゃないか。

 私は踏みとどまれたんだ。誰に頼るでもなく、自力で踏みとどまったんだ。

 私は両手を見た。汗の滲んだ両手を。


 ――今日まで自分を支えてきたのはその自分の手です。


 あの卒業式を私は思い出して、笑顔を作る。

 大丈夫、行ける。

 もう一度。

 もう一度チャイムが鳴ったら開ける。

 私は自分の心にそう言い聞かせて、震える心を奮い立たせる。


 ぴんぽーん。


 覚悟していた二度目が響いた。

 私は静かに玄関まで歩いて、躊躇せずに玄関のドアを開けた。


 真っ黒で顔色の悪い男の人が立っていた。


 決めた覚悟が凍てついていく。

 ああ、偽物霊媒師の私はこれから憑り殺されるんだな。そう思わせる悍ましさが滲み出ている。

 やっぱり私は偽物霊媒師だ。

 それでも、この覚悟だけは本物なんだって最期にもう一度笑顔を作れたらきっと、自分を許せる気がするから。

 凍り固まった唇をゆがませて、笑顔を作る。

 さあ、どこからでもかかってこい――


「ア、アァ……ダ」


 悪霊がゆっくりと呪詛の言葉を吐いていく。

 


「ダ……ョウ……カ?」


 …………?

 だいじょうぶか?

 悪霊はそう言った、風に聞こえた。


「…………」


 悪霊はそれだけを言うとゆっくりと踵を返し、自分の居場所へ帰っていった。

 姿が見えなくなった瞬間、私の身体はその場に崩れ落ちた。

 腰が抜けて立てないとはこういうことを言うんだろうなきっと。

 手に汗が滲んで、指先が冷たい。それでも震える足を引きずりながらなんとか立ち上がり、恐る恐る玄関のドアを開けて外を確認する。

 外には誰もいなかった。暗いアパートの空気は静けさを取り戻している。


 悪霊の実在を確認してしまった以上、偽物霊媒師であっても私が悪霊を払わなければならないのだろう。むしろそうしないと私があの悪霊に憑かれてしまいそうだ。


 でも、悪霊の言う「だいじょうぶか?」ってなんだろう。

 そんなに悪い悪霊じゃないんだろうか。

 私が勝手に悪霊だと思い込んでいるだけで、そもそもただの幽霊なのかもしれないし。

 現実逃避を挟みながら私は私を勇気付ける。

 ひとまず明日から、明日の明るい時間だけ、101号室を確認しよう。

 多分、チャイムを鳴らしたら出てきそうな気がするから。

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