第4章
第17話
本を読み耽っている間は現実を忘れてしまいがちだ。最後の頁を読み終わるまで、周囲の人の声も物音もはるか遠くで過ぎ去っていく。
充実感と読了のさびしさの両方を味わいながら、私は本を閉じた。
ふう、と息を吐いて、さ、次の本を読もうとテーブルの上に手を伸ばした時、ふと視線を上げる。
「どうしたの、マルグリットさん」
急に動きを止めて一秒。真剣な顔でジルベールさんと見合った私は、そろそろともう一度、今度はゆっくりと本へ手を伸ばした。が、ジルベールさんはこの間もずっとテーブルの向かい側から見ていた気がする。……食べかけのマドレーヌをもぐもぐと咀嚼しながら。
今は昼間。ランツ女子修道院の別棟にある面会室にいた。
「……あの、そんなに見つめられても」
「うん?」
ジルベールさんは少し驚いたような顔になる。
「あ、そんなことしていたかな。あはは、ごめんね、つい見てしまっていたみたいだ」
私の顔には何の面白味もないのに、ジルベールさんは不思議なことを言うし、この時にも新しいマドレーヌに手を伸ばしている。
ジルベールさんが通うようになって三回目になるが、彼は客人用のお菓子を毎回おいしそうに完食している。
「ジルベールさんは、お菓子がお好きなんですか」
「うん。甘いものに目がなくてね。運動しないと太ってしまうんだけれどね。……あ、マルグリットさんは気にしないで本を読んでいて。君の邪魔をしたいわけじゃないんだ」
「いえ。それはまったく構いませんが……」
新しい本はまだ開いていないため、私自身、ジルベールさんに邪魔されたとは思っていない。むしろ、客人の前で好きなだけ本を読む行為は、相手に失礼かもしれないといまだに思う。ジルベールさんは初めから好きなように過ごして、と告げられてはいるけれど。
ジルベールさんはいつもと同じように私を安心させる笑みを浮かべた。
「よかった。そうだ、マルグリットさんはあまり食べていないじゃないか。ほらどうぞ」
ジルベールさんは自然な仕草でマドレーヌをつまんで、そのまま私の方へ差し出す。
マドレーヌの端が、私の唇にくっつく。
「――ん」
吐息を漏らしたのは、ジルベールさんか、それとも私だったか。
――これって。
私が何かを思う前に、ジルベールさんが気付いたようで、そのまま石のように固まった。
すると私の方が冷静になって、差し出されたお菓子を自分の指でつまんだ。
「ありがとうございます。受け取ります」
「う、うん」
ジルベールさんの目はいまだに泳いでいた。
私もマドレーヌを一口齧るうちに、なにかとんでもないことが起きた気がする、と思い始めていた。
「そ、そうだ」
ジルベールさんが思い立ったように、自分の持ち物を探った。
「いつももらってばかりでは申し訳ないから、僕からもお菓子の差し入れを持ってきたんだ。あとで他のみなさんと食べて」
「わかりました。みなさま、喜ばれると思います」
早口のジルベールさんが出したのは、蓋付の小さな陶器だった。
ジルベールさんが蓋を開くと、中には焼き菓子が入っている。楕円ではなく円形だが、これもまたマドレーヌに見えた。
「食べてみてごらん。ここの修道院とは違う味がするから」
「ん……これもおいしい……」
促されるがままに口にして、思わず唸った。ランツ女子修道院のマドレーヌはバターの風味が強いが、私が今口にしているのは、芳醇な蜂蜜の香りが際立っていた。あくまでも好みかもしれないが、後者のマドレーヌもとても好きだ。
「ジルベールさん、どちらでこれを……」
「うん? これ自体は僕の手作りだよ」
「手作りですか……!」
「レシピは、僕が育った修道院のものだけれどね。あそこでは養蜂が盛んだったから蜂蜜を多く使えたんだ」
そう言われてみると、ランツ女子修道院の近くでは牛の放牧が行われている。バターが手に入りやすく、お菓子のレシピにも反映されているのだろう。
お菓子の話題はともかく、今、私は重要な情報を耳にした気がする。
「ジルベールさんは修道院にいらっしゃったのですか……?」
「修道士としてね。ほら、貴族の家に何人も子どもがいたら跡取り問題でもめるだろう? だからひとりやふたりは修道院に放り込まれる。そんなよくある話だよ」
彼は軽い世間話をするように続けた。
「ただ、何年も経つうちに、家の事情も変わって、『ああ、あそこに放り込んだ子がちょっと必要だから呼び戻そう』みたいな話も出てくるわけだ。巻き込まれる方はたまったものではないが、それはそれ、仕方ないと思うことにしたよ。マルグリットさんのような人にも出会えたしね」
――ジルベールさんも家に振り回されていたのね……。
それでもジルベールさんは受け入れて前を向こうとしているのだ。
「ジルベールさんのいらっしゃった修道院はどのようなところでしたか?」
「そうだね。最初は馴染めなかったが、同じような境遇の仲間たちもいて、それなりに楽しめた気がするな。このマドレーヌもだが、たまにもらえたお菓子がおいしくて……あ」
ジルベールさんは急に私を見て、「そうだ!」と目を輝かせながら前のめりになった。
「マルグリットさん、良かったら僕がいた修道院に遊びにいってみない?」
「へ? ですが、ジルベールさんは男子修道院にいらっしゃったのでしょう?」
私は女性なので、男子修道院には入れない。そう思ったのに、ジルベールさんは「そこは任せて」と請け負った。正直、一抹の不安もないと言ったら嘘になる。ただ。
「――僕のいたのは、バルバロッス修道院だよ。マルグリットさんも聞いたことがないかな? そこには現役の写本室とすばらしい蔵書がそろう図書室が」
「い、いきますっ! バルバロッス! バルバロッス修道院に、ぜひとも入りたいですっ!」
「うん、喜んでくれてうれしいよ」
世界有数の蔵書数が揃っているというバルバロッス修道院は世間でも有名だ。性別ゆえに行けないと諦めていたので、ジルベールさんの申し出は渡りに船どころか、黙って座っていたら金塊が降ってきたようなもの。大興奮したのだが、ジルベールさんの前だったことに気付き、改めて浮いていた腰を下ろした。
どうにもジルベールさんの前では幼い言動が全面に出てきてしまっていけない。
彼は私が抱いた恥ずかしさを気にする様子もなく、バルバロッス修道院訪問の手配を約束して帰った。
三日後にジルベールさんは日にちが決まったと伝えに来て。
その七日後の早朝に、私は迎えにきたジルベールさんとともにバルバロッス修道院へ出立した。
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