真珠の魔女 虐げられてきた私が幸せになる方法
川上桃園
第1章
第1話
川岸に立つ館で、戦勝記念の宴が行われていた。
館の大広間ではすでに大勢の客が談笑している。私は、婚約者のアンリ様とともに大広間の入り口に立った。
アンリ様は、すでに不機嫌だった。馬車での道中、私の遅刻を責めていたからだ。
私は歯車、と心の中で呟く。意思はいらない。何も感じない、何も考えない。……何も『知らない』、と。実母を亡くしてから自分にかけてきた魔法の呪文だった。
「マルグリット! もう宴がはじまっているじゃないか。おまえのせいだぞ。さ、早くアルマニャック伯にご挨拶しなければ! 行くぞ!」
アンリ様は、ご自分が決めた約束の時刻さえ忘れていたことを認めたくない。すべてを私のせいにすることで、ご自身の平穏を保っていらっしゃる。
私は返事を求められないままに、腕を引っ張られ、アルマニャック伯の元に連れていかれた。アルマニャック伯は、この宴の主催者であり、裕福な貴族だった。大きな身体を揺らして、他の客たちと大声で話している。
アンリ様は、客たちの会話に割って入った。
「……ということは、アルマニャック伯。今回の遠征でかなりの『浄化』ができたのではありませんか」
「まさに。多くの異教徒を殺し、あやつらが作るものもことごとく破壊し、燃やし尽くしてやったわ!」
幸いにもアンリ様はアルマニャック伯のご不興をかうことはなかった。アルマニャック伯は鷹揚に返した。
彼らが語るのは、戦争のこと。宴の趣旨が戦勝記念だから話題に上がるのは当然かもしれないが、血なまぐさいことを喜々として語る彼らと同調するのは難しい。彼らの中で、どれだけの方が実際の戦場を目にしているのだろうか。
「実は、異教徒どものつくった悪魔の書物もたくさん見つかったのだ。あの蛮族にも図書館のようなものを持っておったのだ」
「ではそれも……」
アンリ様の目が酷薄に輝き、唇はいじわるに弧を描く。
「無論! 一片残らず灰にしてやったわ!」
彼らの笑い声で、胃のあたりがずんと重くなった。
本を燃やしたなんて。そう抗議できたらいいだろうに、私の口は貝のように閉じられたまま。そうしないと生きていけないことを知っている。
《考えてはいけないわ》
心の中で何度も《魔法の呪文》を繰り返す。呪文で頭をいっぱいにしなければならなかった。
ふいに、客のざわめきが出入口から広がってきた。その波間から従者らしき男が進み出て、アルマニャック伯に耳打ちをする。聞いていた彼の目が見開いた。
「おお、ブロワ伯がいらっしゃっただと!」
その声は素直な驚きに満ちていた。予期せぬ客人らしい。それも、望んでいた客の方だ。
「すまない、アンリ殿。わしは別の方のお相手をせねばならぬようだ。宴を楽しんでくれたまえ」
「はい!」
アンリ様は大げさなほどに大きな返事をした。笑顔でアルマニャック伯を見送った彼が、私に向き直った時、表情から笑みが消えていた。
「おい、マルグリット。さっきの態度はなんだ、もう少し愛想よくできないのか」
精一杯の淑女らしい笑みを浮かべていたつもりだったが、気に入らなかったらしい。申し訳ありません、と小さく謝罪した。
はあ。アンリ様のため息が頭上から響く。
「謝れば済むと思っているのが見え見えだ。これが私の婚約者とは嘆かわしい」
「申し訳……」
「もういい。うるさい」
私は黙った。アンリ様はにやにやしながら私の顔を覗き込む。
「君の腹違いの弟くんのほうがまだ話がわかりそうだったんだがなあ? おまえのことをかわいい姉だとのたまったところには納得できかねるが、うるわしい家族愛だよ、なあ?」
くらりと眩暈を感じる。
彼が言う「うるわしい家族愛」とは、異母姉をねっとりした視線で撫でまわし、すれちがいざまに卑猥な言葉を投げかけることも含んでいるのだろうか。
『あーあ、姉さんがアンリと婚約していなければ『味見』できるのになあ』
先日も、胸を凝視しながら言われたばかり。それでも言い返せなかった。
家を継ぐのは男。父は婿養子だったが、この国の法律では父の血を引く異母弟に継承権がある。だからこそ継母と異母弟も、家のすべてを我が物として振る舞えるのだ。
その「家のすべて」にはきっと前妻の子である私も含まれている。
前妻……私の母は優しい人だった。わずかな記憶しかなくとも、抱きしめられた温かさは今も覚えている。彼女は私を心から愛してくれていた。
――お母様が大事にしていたものを守るためなら、私が道具でもいいの、役に立つのなら。
「聞いているのか、マルグリット!」
アンリ様がぱちぱちと私の頬を叩くので、「はい、アンリ様」と言えば、アンリ様は満足そうになさる。
「うむ。その返事でよいぞ。役立たずのマルグリット」
曖昧な微笑みでもアンリ様には十分なようだった。
私は、アンリ様のご機嫌ばかりうかがっている。
彼との婚約は、母の護りたかったリケ家を守るために必要なことだった。
リケ家は古くは王家の血を引く名門で、アンリ様のゴンサーガ家は新参者だが財産家だ。高貴な血筋を欲するゴンサーガ家が、リケ家から花嫁をもらう代わりに大きな資金援助を得られる。リケ家は当面の財政危機から脱せられるはずだった。
たかが結婚だ。家の歯車として徹し、お人形のような妻となるだけ。
――アンリ様は『お人形』をお望みなのだから……『役立たず』と言われるのは褒め言葉だと思おう……。
心の奥底から湧き上がってくる、「でも」「本当は」「つらくて」の言葉には耳を貸さなかった。
……ある青年が、会場の片隅からアンリとマルグリットを眺めていた。
涼しげな眼差しをした爽やかな青年である。目下、彼の関心事は少女の方にあった。
――彼女が『マルグリット』なのか……?
傲慢な男に付き従っているだけの従順な少女だった。やわやわとした芙蓉のようだった。彼が思い描いていた「マルグリット像」と違い、あまりにもか弱そうだ。
――『あの人』の後継者として、その片鱗も見えないじゃないか。信じられないな……。
そもそも宴は、ほとんど彼女のために来たようなものだったのだが、やや期待外れだったかなと彼は肩を竦めたのだった。
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