糸の絡んだ歪んだ人形

茶ヤマ

1

「あのねれい。お母さん、次の木曜日、通院の日なの」


電話の向こう側にいる母は、そのように切り出した。

「そう……」

ため息をつきそうになるのを我慢しつつ、けれども、お世辞にも愛想は良くない返事を返す。

「病院、遠いでしょ。私、車の運転できないし。循環バスもここは通らないし」

「そうだね……」

自分の声が低くなっているのがわかるが、平時の調子には戻せない。

「だから、明日、帰ってきて通院の時に一緒に行ってよ。お母さん一人じゃ受付の仕方もわからないし」

ああ、やはりか。


電話の向こうの母に気が付かれないように息を吐きだす。


何でもないように、すぐに帰ってこいと言うが、新幹線と在来線とバスを使って片道5時間以上かかる実家に、簡単に明日帰ってこいと言う。

正社員ではないものの、臨時職員ではあるが、フルで勤務している身として、何度も何日も休みを取るのは気が引ける。

月に何度も帰るのは、金銭面でもとても負担だった。


今回に限ったことではない。


しんにも帰って来て欲しいって電話したんだけどね。そんなに幾度も仕事休み取れないって怒られたの。

 帰ってきたら帰ってきたで何もしゃべらないしね。

 たかしならそんなことはなかっただろうに」


いい加減にしなよ!

その言葉が喉を出かかった。


--------


しんは私より九歳上の次兄、たかしは私より十三歳上の長兄だった。

残念なことに、十七歳の時に肺気胸で命を落としてしまっている。

生まれつき、あまり体が丈夫でなかったことも原因だったようだ。


「……しんってば、勝手に一人でいなくなって……たかしならそんなことをせず、わきまえていたでしょうに」


長兄の通夜席で、いつの間にか席を離れ、姿が見えなくなった次兄に対し母が言った言葉だった。

まだ三歳だった私は、しん兄さんだってちゃんと座っていたのにな、と思っていた。

少しの間…数分、席を外すくらい、誰だってあるのではないかと思えたのだ。


それから、母は次兄に対しことあるごとに、たかしなら、たかしならと言い始め、次兄は一年とたたずに、すっかりと母に対して冷たい態度をとるようになった。

父がいくら母をたしなめても無理だった。

次兄と長兄を比べ、次兄の態度がかたくなになり、疎遠になるにつれ、母は末娘の私をひとり言の相手と定めたのだった。


◇◇◇◇


「少し、そこに座りなさい」

と私の右手首をやんわりとつかみ、座らせる。


「私がこの家に来た時、おばあさんはそれはそれは、私の事が気に入らなかったらしくてね」

「私が卒業した高校のレベルが低いからと、あの叔母さんは何をしても見下して来てね」

「私の学歴が低いからと、父さんの一番下の弟の、あの叔父さんは、お前のような馬鹿とは話をしたくない、と言い捨ててね」

「私の顔の器量が悪いからと、斜め向かいのお家の奥さんは」

「私は親戚の人たちに馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けて悔しかったから、私は人様には馬鹿という言葉は使わないの」


◇◇◇◇


五歳の私にことあるごとに繰り返される、祖母への愚痴、親戚の愚痴、近所の方々への愚痴。

同じ内容を、何度も何度も、私が十七歳を過ぎるまで繰り返し繰り返し語っていた。


--------


いつもはおっとりとしていた父が少し強めの後押しをしたため、大学も就職も他県を選んだ時、母は渋った。

母が、大学はともかく、就職は地元でして欲しい、家にいて欲しい、と心の底から願っていたのは知っている。

しかし、父が、こっそりと「家には戻らなくてもいい、気にするな」と言ってくれていた。


私は父のその言葉に甘えた。

これが私の最大の罪だろうとは思う。

祖父は私が生まれて間もなく、そして祖母は十歳の時に亡くなっている。

そして、私が十八歳で他県の大学に行ってからは、父はたった一人で広い家の中で母と向き合い、一昨年、静かに息を引き取った。


父の葬儀で実家に戻った時に、七年ぶりに次兄のしんが家にいるのを見た。

その時にしんは私に憐れむような、軽蔑するような、何とも言えぬ視線をよこした。


れい、母さんを甘やかすな」


心外だった。

甘やかせているつもりはなかった。

次兄ほどではないが、距離を取り、普段は関わらないようにしている。

次兄は、父の遺影を見つめていた。


「父さんに逃げろと言われただろう。俺みたいに、ほぼ絶縁状態を保った方がいい」


家に戻らなくても良いとは言われた。

逃げろと言う意味だったのかもしれない、今、その事に気が付いた。


「母さんの言葉には耳を貸さない方がいい。

 …母さんの頭の中には、母さんの理想が詰まったたかし兄さんしかいないんだし」


ああ、確かにそうだろう…。

私とたかしを比べる事はほぼないが、それでも、母の頭の中にはたかしが常に存在し、そのたかしは母の願う通りの行動をし、言葉を紡ぐのだろう…。


母の考える理想の子どもになりたいとも、なろとも思わない。思えない。

が、母から電話がくると適当に聞き流せないでいる自分がいる。


それがずっと続いているのだ。


--------


今の私はすでに三十路半ばを過ぎている。

結婚はしているが子はいない。

地元にはほとんど帰っていないので、地元で過ごした時間よりも、別の土地で過ごした方が長くなっている。

……家にいたあの頃の自分の思考とは、まったく違う考えを持つようになっていることに、母は気づこうとしていない。


とりあえず、母が病院に行く一日前に実家に行き、次の日の夜の最終の新幹線に間に合う時間には家を出るけれど通院には付き添う、という約束をして電話を切った。

うなだれた顔の両眼を左手で覆い、息を吐きだす。

肩が、背中が、頭が、いろいろなところがとてもだるく感じられた。


右手が少しむず痒く、かつ、違和感を覚える。

小さな傷でもあるのか、ゴミか何かついているのか、と見てみたが別段何もない。


夫へ実家へ行くと告げ、職場に来週の水曜日と木曜日に休みを取りたい旨を申請した。

夫からのうなるような返事。職場での数人から「またか…」といいたげな視線。

全て甘んじて受けねばなるまい。

わずかに浮かんできた黒い考えを追い出すように頭をふるった。

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