姿が変わろうと

十南 玲名

第1話

 ちりんと鈴が鳴る。


『 通りゃんせ 通りゃんせ

  ここはどこの細道ぢゃ  天神さまの細道ぢゃ 』


 からころと笑う下駄。半ば引きずられるように手を引かれる。


『 ちっと通して下しゃんせ  ご用のないもの通しゃせぬ

  この子の七つのお祝いに  お札をおさめにまいります 』


 がらんごろんと魔を払う音と、ぱんぱんと神を呼ぶ声。わたしは重たいまぶたを擦る。


『 行きはよいよい 帰りはこわい 』


 からんころんと下駄がわたしを嘲笑う。母を追いかけて手を伸ばすも、視界が落ちる。


『 こわいながらも

  通りゃんせ 通りゃんせ 』


 わたしの泣き声が夜空に響く。母の背中は遠くなるばかりだった。


  *


 さわさわと優しい風が頬をなでる。小鳥のさえずりに意識を持ち上げられる。まだ寝ていたいと駄々をこねる子供のように唸ってみせれば、温かく優しい手が僕の頭の上に落とされた。僕はその手に擦り寄る。僕の大好きな手。愛する人の手。ふふっとこぼされたやわい笑い声に、僕はゆっくりと目を開けた。

 目の前に広がる天井と、いよの顔。

「……おはよう」

「おはようございます。とても気持ちよさそうに寝てらしたわね」

 昔より綺麗になったそのしわくちゃの顔で笑う彼女の頭に手を伸ばし、そっと触れる。ふわふわと風に揺れる綺麗な白髪。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「そんなに見つめられたら恥ずかしいわ」

「どうして?」

 恥ずかしいと言いつつ目を逸らさない彼女に、僕は揶揄からかうような調子で聞いた。

「その……あなたはずっとお綺麗でしょう? 私ばかりが歳をとってしまって……」

「……君と出会ってもう何年が経つのだっけ?」

「もう少しで二百年よ」

 まるで忘れただなんて言わせないと責めるような口調で彼女は即答する。誓って忘れたわけではないのだけれど……。僕らと彼女の時間感覚では十倍も違うと言う者もいるくらいだ。彼女の方がどうしたって正確になるのだから、尋ねるのも許してほしい。

 とはいえ……二百年か……。

 まだそれほどしか経っていないのか、という気持ちと、もうそんなに経ったのか、という気持ちとがせめぎ合う。

「……短いな」

 結局口を突いて出たその言葉に彼女はクスリと笑う。

「言うと思ったわ」

「笑わないでくれよ…」

 彼女は僕の真っ黒な髪を指で梳く。髪の毛は彼女の手から滑り落ちて、白い布団の上に踊った。

「あなたにとっては短い時間かもしれないけれど、人間の私からすれば途方もなく長い時間なのよ。もう一生分以上生きたわ」

 困って目を逸らす僕を彼女は笑う。

 人は僕、白銀六花のことを妖怪と呼ぶ。肌や瞳は雪のように白く、腰まである髪は真っ黒。いわゆる、吹雪の夜に現れては人間を殺して回るとされる「雪女」だ。

 男なんだから雪男なのではないかと問われることは多々あるけれど、雪男は妖怪とはまた似て非なるものであって、雪女としては同じ括りにされるのはとても遺憾なことなのだ。こっちは真面目に妖怪を名乗っているので。

 何はともあれ、妖怪である僕には未だに人間の時間感覚が理解できない。人間と妖怪では生きる時間が違いすぎる故の難点だよな。

 そんな妖怪である僕だから、君は……

「いよは……僕と結婚してよかった?」

 二百年。何度考え、何度尋ねようとして、何度口をつぐんだだろう。

 彼女は人間だから、人間として生き、人間と結婚した方が良かったのではないか、と。

 妖怪と契りを結んだ今の彼女は普通の人間より長く生き、されど、妖怪ほど長く生きることはできない中途半端な存在で。それは彼女の望むものだったのか、と。

 臆病な僕はどうしても聞くことができなかった。彼女の言葉に少しでも拒絶の色を見たら、立ち直れないと思った。

 けれどなぜだか……穏やかな顔でほぼ無心で僕の髪を撫でる彼女に、今聞かなくてはとふと思い至った。

 彼女は目を丸くして、それから、存外優しい声で僕に訊ねる。

「どうしてそんなこと聞くんです?」

「僕よりも君を幸せにしてくれる人がいたんじゃないかと思ってしまって……」

 僕の答えに、彼女はひどく可笑そうに笑った。

「ひどい人ね。私の隠した初恋にずかずか入ってきて、結婚しようと言ったのも、勝手に私の心配していることを見つけてきて、一つ一つ解決していったのも全部あなたなのに」

 彼女はどこか遠い目をする。

「とても美しいあなたに釣り合うはずもないのにと思っていれば、歯が溶けそうな甘いセリフを何度も告げてきて。妖怪と人間での結婚なんていいのかと不安に思っていれば、私に妖怪と結婚した女性を紹介してくれて……」

「……そう列挙されるとなかなか……」

「あら、恥ずかしいの? 他にもありますけど聞きます?」

「やめてくれ……」

「ふふ、冗談よ」

 可愛らしく笑う彼女と、両手で顔を覆う僕。きっとこの頬は赤くなっているに違いない。肌が白いと赤味が顕著になるのが嫌なところだ。

 ……あの時はだいぶ浮かれていた自信はある。なにせ、初め僕は君のことを妹としか思っていなかったから。

 その恋に気づいたのは君が二十二の時。もう、十分に君は一人で立っていた。もっと早くこの気持ちに気づいていれば、と何度悔やんだことか。

 そんな時に君から僕への好意の一片を見つけて。結婚も承諾してもらえて。嬉しいの一言じゃ表せないほど幸せだったから、どうしようもなく浮かれてしまった。

「私ね、最近捨てられた時の夢を見るの」

 目を伏せつつ彼女は言葉を紡ぐ。突然の思いがけない話に僕は心臓が早鐘を打つのを感じる。

「なにがなんだかわからないまま、半ば引きずられて神社に参拝しにきたと思ったらその手を解かれて、置いて行かれてしまう夢。早足で遠ざかっていく母さまの背中に呼びかけても、母さまは振り返ってくれないの。追いつこうと駆けてみても、到底追いつける速さでなくて、私は転んだわ」

 彼女は六歳の時捨てられ、この家に来た。神社でうずくまっているのを見つけて連れてきたのだと僕の親は言った。大方口減しに遭ったのだろうと。

「夢を見ている時は、とてもつらくて悲しいのだけれどね。目を覚ました時、あなたが隣にいる。あなたを見ると捨てられたこともいいことだったと思えるのよ」

「……なんだそれ」

 気恥ずかしくて彼女から目を逸らす。彼女はふふっと笑って僕の前髪にそっと触れる。

「それにね、あなた。最近この夢を見るようになって気がついたことがあるの」

「……なんだい?」

「母さまは私のことを嫌いでなかったんじゃないかってことよ」

 捨てられたのに…? と頭に浮かんだ疑問を飲み込んで、苦し紛れにどうして、と問う。彼女がたぶん、僕が飲み込んだ言葉に気付いていると知りつつも。

「あの日、私は駆けても母さまに追いつけなかったけれど、それまで追いつけなかったことはなかったのよ。それって、どんなに急いでいる時でも、私に合わせて歩いてくれていたってことになると思ったの」

 あなたも私といる時と、一人でいる時じゃ歩く速さがまるで違うでしょう? と言って彼女は無邪気に笑う。

「母さまのことを恨んだりもしていたけれど、もしかしたら私を捨てるって決断も苦渋の決断だったのかもしれないって思える気がするの。そう思えるようになったのも、あなたのおかげね。あなたがたくさん愛してくれたから」

「……そっか」

「ここまで嫌なことも悲しいこともたくさんあったけれど、私、あなたの……六花のおかげで幸せなの。六花とだから私はこんなに幸せなのよ。本当よ?」

 彼女の穏やかな笑顔に胸が鳴る。あぁ、君は何年経ってもこうやって僕を虜にしてくるんだからたまらない。

 彼女の頬を包むように手を伸ばせば、控えめにその手に擦り寄られる。僕は思わず目を細める。いつまでもこんな時間が続けばいいのに。

 彼女はその丸みを帯びた優しい目をゆっくり開いて、その目に僕を捉えると、その目に弧を描かせた。

「好きよ。私、六花のこと大好きよ。愛してる」

 割れ物を扱うように発された言葉。まるで毒のように僕を痺れさせる。

「……ねえ、もし私が死んだとして…」

「は⁉︎」

 彼女への言葉を練っていた僕は勢いよく飛び起きる。い、今なんて……もし死んだらって言った…?

 彼女は飛び起きた僕を見て、目をぱちくりさせた後、ふふっと穏やかに笑う。全然笑い事じゃないと思うものの、その顔に毒気が抜かれてしまって、ため息をつきながら頭を掻きむしる。

「もしよ、もし」

「わかってるよ。……あまりにも突然に言い出すから驚いたの」

「それは悪かったわ」

「で? もし君が死んだとして?」

 僕は布団の上に彼女と向かい合うように腰を下ろす。いよはただ楽しそうに笑う。もう少しこっちの身も考えてほしいな……。

「もし、もしね、私が死んで、生まれ変わったとしたら、きっとその時、私はまたあなたのことを好きになると思うの」

「うん」

「そしたら……また私のことお嫁さんにしてくれる?」

 小首をかしげるいよ。今日、容赦がないなぁ。僕を殺す気かい?

 僕は返事の代わりに彼女を抱きしめる。

「ふふっ、もう、どうしたの?」

「……いよが悪い」

「あら、ごめんなさい」

 僕は人間の時間感覚はわからないけれど、その命の短さは知っている。両親が特別の人間嫌いではなかったから、時々人間の里に出向くことがあった。人間が大好きで、人間と暮らしているような妖怪には遠く及ばないけれど、それなりに人間と関わる機会があった。だから人間は儚くて脆いことを僕は知っている。仲良くなった人間が死んだのも一度や二度じゃない。

 だから、いよが僕より先に死ぬことも知ってた。覚悟も少しはしているつもりだった。けど……本人の口から「死」の言葉が出てくるだけでこんなにも辛い……。

 彼女は僕の考えていることがお見通しなのか、僕の胸の中でくふくふとおかしそうに笑っていた。

 どのくらいの間そうしていただろう。

「お母さまー、お父さまー!」

「朝ご飯がもう少しでできるよー!」

 息子と娘の呼ぶ声に僕は彼女から離れる。

「ふふっ。そろそろ起きますか?」

「そうだね」

 彼女が思った以上に笑顔だから、僕も笑ってみせた。

 布団を畳んで、服を着替えた僕らは、二人で一緒に部屋を出る。

 僕は考える。もし彼女が死んで、生まれ変わったのだとしたら……。

 彼女の一歩後ろ。いつのまにかに廊下で歩く時の定位置になっていたそこで、僕は彼女を眺める。曲がった腰、昔より断然短く切り揃えられた白髪、ゆったりとした足取り。何もかも、出会った頃とも、愛を誓った頃とも変わってしまったけれど。

「いよ」

「なんです?」

 僕の呼びかけに彼女はゆっくり振り返る。

「君が、許してくれるのなら……また僕のお嫁さんになってくれ。またきっと、どんな姿でも、いよを愛するから」

 死んでほしくはないけれど、これだけは誓えるから。

 いよは僕の言葉に目を瞬かせて、それから、顔をほころばせた。

「えぇ、もちろん…! 約束よ?」

「あぁ、約束だ」

「また……幸せにしてくれなくちゃ嫌よ?」

「きっと。必ず」

 あの日の、少女の面影を残した顔で笑う彼女と、僕は指を切った。


  *


 これはあるかもしれない未来の話。

 ある夏の日のこと。僕は袖を引かれて振り返る。そこには見ず知らずの少女が立っていた。けれど……あぁ、視界が歪む。

 ミンミンゼミがうるさいほど鳴いている。

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姿が変わろうと 十南 玲名 @Rena_T_N

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