第4話 災難引き受けます

 雪景色の高原から緑の平地へ下りてしばらく森をつらぬく街道を歩くと、視界が開けて、空と森をそのまま反転させたような静かな湖畔に出た。


 湿地帯なのか、水を吸ったスポンジのような地面にふわふわとした綿毛の花が咲いている。


 風が吹くと一斉に綿毛が舞い上がり、行く手を見送るクローレがおなかを押さえた。


「ああ、なんか、お菓子みたいだよね。おいしそう」


「何も食べてないから腹が減ってるんだろう」


「たしか、この先に村があるはずなんだけどね」


 キージェも昨日からリンゴ一個しか食べていない。


 さっき見た道しるべには《クラベル》という村の名前が書いてあった。


 うまいものを期待しながら進んでいくと、建物が見えてきた。


「お、もうすぐだな」


 だが、どこか様子がおかしい。


 村には人の気配がなく、牧場にも家畜があまりいないようだ。


 そもそも、村の入り口から見える家の窓もみなきっちりと閉じられている。


「ねえ、キージェ、あれ」と、クローレが農家の裏手を指す。


 牧場を囲っていた柵が壊され、その付近の地面が大きくえぐられている。


 雪狼のミュリアも村に入ったときからずっと耳をあちこちに向け、警戒しているようだ。


 と、その時だった。


「おい、あんたたち」


 路地から顔を出した村人が手招きしている。


 三十くらいの男はひどく慌てた顔をしている。


「どうかしましたか?」


「あんたたち、冒険者だろ」


「ええ、そうですよ」と、クローレが前に出る。「冒険者は私。こちらは私の従者」


「へえ、そうなのかい」と、村人は尊敬の目でクローレを見つめる。「じゃ、さっそく頼むよ」


「何を?」と、キージェが横からたずねた。


「あんたはただの荷物持ちだろ」と、キージェを鼻で笑って村人がクローレと向かい合う。「こちらの勇者に頼んでるんだ」


「うふふ、勇者って。なんでも言って」


 クローレが胸を張ると、男はだらしない目ですり寄る。


「ギルドに依頼したとおり、トロールが村を荒らして困ってるんだ。ほら、今も」


 村人が指す方で、木がゆさゆさと揺れている。


 樹冠からのっそりと巨人が顔を出していた。


「ちょ、えっ、あれを?」と、キージェは思わず後ずさった。


「ああ、だって、あんたたちAランク勇者なんだろ」


「いや、F……」


 言いかけたキージェの口をクローレがふさぐ。


「ハイハイ、私たちに任せてよ」


「おう、頼んだよ。成功を祈る!」


 どうやら村人は通りすがりのキージェたちを、ギルドから派遣された正式なパーティーと勘違いしているらしい。


 それにしても、なんで簡単に引き受けるのか。


 キージェはクローレに詰め寄った。


「おい、安請け合いにもほどがあるぞ。ゴブリンにすら手こずったのに、トロールなんか無理に決まってるだろ」


 一般的にオーガはゴブリンの二倍、トロールは三倍の強さとされている。


 最低でもDランクからの相手で、しかもそれは罠や仕掛けを準備し、うまくかみ合って初めて勝機を見いだせるというものだ。


 しくじれば大怪我ではすまないし、ましてやFランクなど、足元にも及ばないし、踏み潰されて終わりだ。


 トロールの特徴は巨体だけでなく、防御術をつかう魔物であり、通常の弓矢はそれるし、安物の剣では弾かれて傷をつけることすらできない。


「逃げるぞ。歯が立つわけないだろ」


「いつも冒険者の誇りとか言ってるくせに、情けないわね」


「じゃあ、どうやって?」


「あたしたちには強い味方がいるでしょ」と、クローレがツンと鼻先を上げて笑みを浮かべる。「トロールはたしかに強力だけど、動きはもっさりしてるでしょ」


 まあ、たしかに、巨体だから細々した動きには対応しにくいと言われている。


 だが、巨体ゆえに、振り回した腕がかすっただけでもかなりのダメージを食らうのだ。


「俊敏な雪狼なら、ピョンピョンピョンのガブッで、あっという間にトロールの急所に食らいつけるじゃない」


 トロールの急所は胸だ。


 硬い肋骨に守られた心臓ではなく、巨大な体に対応した肺を傷つけることが勝負の分かれ目になる。


 キュレル村のエクバルとの騒動で、たしかにミュリアの俊敏さは目を見張るものがあった。


 しかもクローレは気づいていないが、ミュリアは魔宝石を扱えるハーフエルフだ。


 とはいえ、いくら雪狼だとしても、そう簡単に懐に潜り込めるとも思えないし、分厚い筋肉を食い破って肺を噛み切るのは至難の業だろう。


 ――あれ、そういえば。


 ミュリアはどこだ?


 警戒していたと思ったのに、さっきから気配を感じない。


「おい、ミュリア?」


 と、頭の中に言葉が浮かぶ。


(こわい)


 見回すと、農家の庭先で生け垣に顔を突っ込んでうずくまっていた。


 尻尾を丸めてすっかりおびえている。


 風格も何もあったものではない。


 ただ、少女の姿を知っているキージェにしてみれば、あんな巨体を前にして闘えと言うのは酷だとしか思えない。


 それなのに、クローレはミュリアの体を引っ張り出そうとする。


「ちょっと、しっかりしなさいよ。キージェは失格者だし、あんただけが頼りなんだからね」


 結局他人に頼るだけじゃねえか。


 なんでいつも自分からやっかい事を起こしておいて、丸投げなんだよ。


 そうこうしているうちに、トロ-ルは森を出て、のらりゆらりと巨体を揺らしながら牧場に侵入してきていた。


 逃げ惑う牛や羊を捕らえて食らおうとしているが、村人たちがなんとか誘導して逃がしている。


「おい、勇者さんたち、期待してるぞ!」


 村人たちの視線を浴びて膝が震え出す。


 ――まずい、逃げられない。


「どうしたらいいんだよ」


 クローレの剣はゴブリンさえ傷つけられない安物だし、キージェのは防御用の借り物だ。


 攻撃手段は何もない。


「ねえ、キージェ」と、クローレが背後からたずねる。「なんか変じゃない?」


「何が?」


「だって、ふつう、こんな人が住んでいる村にトロールが出没するなんておかしいでしょ。街道筋だって騎士団が警護してるんだし、村の防護壁を攻撃された段階で駆けつけてるはずだよね」


「まあ、そうだな」と、キージェはクローレの後ろに下がった。「だが、今はそんなことを考えてもどうにもならないぞ。それより、なんとか作戦を考えろ」


「困ったね」と、なんとも暢気な答えが返ってくる。「ミュリアがなんとかしてくれると思ってたからさ」


 しかも、クローレは戦う前から地面にへたり込んでしまった。


「おなかがすいて、力が出ない」


 はあ?


 俺だってリンゴしか食ってないぞ。


「なんだよ、もう。おまえ、下がってろよ」


「うん、後はよろしく」


 まったく、とんでもない勇者様だよ。


 こんな調子なら、前回のクエストで失敗して、俺みたいにFランク失格になってれば良かったんじゃねえのか。


 あのままゴブリンにやられてたらかわいそうだと思って助けたけど、甘やかしてしまったのだろうか。


 ってことは、結局、俺のせいかよ。


 キージェは心の中で悪態をつきながら迫ってくるトロールを見上げ、なんとかできないものかと思考を巡らせていた。


 盾と短剣と拾った石、それに、壊された牧場の柵から出た木材、使えそうな物はそれくらいしかない。


 村人が住む建物の壁はレンガや石で意外と頑丈にできているからトロールもぶつかったくらいでは壊せないだろうが、納屋や家畜小屋は木造だからぶつかった勢いで崩れてしまうだろう。


 武器もないのに、被害を少なく、敵を仕留める方法なんてあるんだろうか。


 トロールの動きの鈍さだけで今のところ助かっている。


 向かってくるトロールに対し、村人や家畜の方へ行かないように大きく手を振って自分に注意を引きつけながら、キージェは巨体の周囲を走り回っていた。


 いくら粘ってみても敵のスタミナ切れは期待できない。


 トロールは体内にかなりの栄養を蓄えられる。


 倒したときにはその肝臓が結晶化し、高値で評価されるわけだが、Fランク以下のキージェにとっては縁のないお宝なのだ。


 こっちは栄養失調だっていうのによ。


 逃げ回るのにも疲れてきたキージェは、村人の住居の陰にいったん隠れて息を整えることにした。


 と、路地に引っ込んだ家の軒先でクローレが干し肉をかじっていた。


「あ、キージェ、どう、勝てそう?」


 ――なんだよ、ピクニックじゃねえんだぞ。


 まったく、魔物を前にしても無防備で暢気で呆れるぜ。


 何にもしないでずるいじゃねえかよ。


 このままじゃ命だって危ないっていうのに。


 こんなことだったら、俺も雪山でリンゴをいただくだけじゃなくて、こいつにあんなことやら、なにやらなんでも遠慮なくやっちまえば良かったな。


 心の中で何度目かの悪態をついたところで思わず、ふっと笑みがこぼれる。


 そんな下劣な行為ができるくらいなら、今頃もっとうまく世渡りができてるはずなんだよな。


 思うだけで、実行できないからこんな目に遭ってるんだ。


 弱気なのか、人がいいのか、結果として今の俺がいる。


 まったく、しょうがねえな。


 結局、作戦は何も思いつかないままだった。


 と、いきなり地面が揺れる。


 日が陰って見上げると、トロールが戸棚の裏に転がったボタンを拾うみたいに、二階屋根に届くくらいの巨体を狭い路地に突っ込むようにしてこちらをじっとのぞきこんでいた。


 ――やばい、見つかった。


 と、その瞬間、キージェの頭に策が浮かんだ。


「それだ!」と、キージェがクローレに飛びつき、干し肉を奪い取った。「よこせ!」


「ちょ、え、何すんのよ。私の非常食!」


「後でたっぷり村でごちそうしてもらえ!」


 キージェは干し肉を両手につかんでトロールへ向かっていく。


「おい、こっちだ」


 食べ物の匂いに引き寄せられて、トロールが路地に手を差し入れる。


 だが、体がつっかえて入ってこられない。


「ほら、こっちだ、こっち」


 キージェはトロールの股の間を駆け抜けると、干し肉を見せびらかして振り回した。


 肉の匂いが拡散し、釣られたトロールが向きを変えようとするが、路地に突っ込んだ腕が引っかかって動きが止まる。


 ひょろりと長い腕を引き抜いている間にキージェはもう一度路地に飛び込んだ。


「どこを見てる。こっちだ」


「グガァルルゥ」


 トロールがうなり声を上げながら路地に体を差し入れていく。


 挟まれながらも肉の匂いに釣られて体をねじ込むように押し込み、干し肉めがけて腕を伸ばしてきた。


「こっちだ、こっち」


 キージェは何度も狭い路地を往復し、そのたびに石を投げたり、短剣で脚にかすり傷をつけたりしてちょっかいを出した。


 決定的なダメージを与えることはできないが、何カ所も虫に刺されたようなむずがゆさを感じさせることはできたはずだ。


 隠れていたミュリアも加勢してトロールの足首に噛みつき、巨大な敵をいらだたせながら、しだいに路地の奥へ奥へと誘導することに成功していた。


 建物に体を挟まれたトロールは気がついたときには身動きが取れなくなっていた。


「よし、これで動きは封じた」


 倒せたわけではないが、とりあえず、被害が増える心配はなくなった。


 時間はかかるだろうが、あとは衰弱するのを待てばいい。


 騎士団かAランク冒険者が来たらとどめを刺してもらってもいい。


 手柄は横取りされるかもしれないが、無謀なまねをして命をなくすよりはよっぽどましだ。


 村人も集まってきて、トロールを見上げている。


「こうして見ると、でかいだけで間抜けな野郎だな」


 さっきまではこの世の終わりみたいな顔をしていたくせに、いい気なものだ。


「やったね、キージェ」と、人混みの間からクローレも両手を挙げて駆けつける。


 パチンといい音をさせて手を合わせ、健闘をたたえ合う。


 ――まあ、働いたのは俺だけなんだけどな。


 ミュリアがキージェの脚に顔をこすりつける。


「ああ、おまえも頑張ったよな」


 頭を撫でてやると白い毛先がキラキラと揺らめく。


 どうやら喜んでいるようだ。


「やあ、どうもありがとう」


 さっきの村人が満面の笑みを浮かべながら現れた。


「村を代表してお礼を申し上げますよ」


「じゃあ、あなた、村長さん?」


 クローレが手を差し出すと、男がだらしない顔で手を握り返す。


「ええ、自己紹介が遅れました。クラベル村の村長をやってるムイシュケルです。ぜひ、お礼をさせてください」


 クローレが目を見開いて村長の手を両手で包む。


「何かごちそうしてくれるの?」


「ええ、腹一杯おもてなししますよ。どうぞ、村の食堂へ」


「やったね、キージェ。ご飯だよ、ご飯。行こう!」


 ――まったく、自分の手柄みたいにはしゃいじゃってよ。


 それでもキージェはご機嫌なクローレを見ていると疲れもどこかへ吹き飛ぶような気がして、軽い足取りで村長の後についていくのだった。


   ◇


 村に一軒だけの小さな食堂には村人が大勢集まってきてお祭りのような賑わいだった。


「あんたたちかい、Aランクの勇者は」


「トロールを倒してくれてありがとうよ」


「うちなんか牛をやられてたからな。敵を取ってくれてせいせいしたぜ」


 村人からの賞賛に気分を良くしたのか、クローレは注がれる酒をぐいぐいとあおっている。


「ちょっと、キージェ、あんたもどんどん飲みなさいよ」


 肩に腕を回し、柔らかな胸を押しつけながら酒臭い息を耳に吹きかけてくる。


「おいおい、ちゃんと加減を考えろよ」


 村の男たちの視線がクローレの痴態に集中しているのが気になって楽しむ余裕などない。


 本人はまったく気づいていないようだ。


「何言ってんのよ。こんなことめったにないんだから、楽しまなくっちゃ」


 テーブルに並ぶ料理は肉を焼いたものと芋や野菜の揚げ物に果物など、村の名産なのだろうが素朴な物ばかりで、量で見栄えを補っている感じだった。


 ただ、味は悪くないし、空腹以上のスパイスはないというわけで、キージェも料理には手をつけていた。


 ミュリアも村人が切り分ける肉の塊にかじりついている。


 宴会の後で案内された宿は、トロールが挟まったままの路地に面した石造りの建物だった。


 身動きの取れなくなったトロ-ルの巨体が窓をふさいでいるせいで、風向きによって獣臭が漂ってくるし、部屋の中は暗く狭い。


「まあ、でも」と、クローレが満足そうに中を見回す。「あたたかなベッドがあれば天国だよね」


 寝室が二つに分かれた続き部屋で、雪狼のミュリアは尻尾を振りながらキージェの部屋に入ってきた。


「すごくなついてるね」と、クローレがうらやましがる。「やっぱりキージェはテイマーなんだよ」


 ――いや、俺の理性がもつか自信がないんだが。


 ミュリアがエルフの少女だと知らないからそんなふうに言えるのだ。


 夜中に少女の姿に戻ったミュリアと一緒にベッドにいる現場を見られたら終わりだ。


「あたしも一緒にこっちで寝ようかな」


 酔っ払ったせいか、クローレまでおかしなことを言い始める。


「なんだよ、じゃあ、俺がそっちに行くよ」


「なんでよ」と、クローレがキージェの背中に抱きつく。「みんなで仲良くしちゃいけないの?」


 男としては天国だが、人としてはダメだろう。


 美少女と巨乳に挟まれて、健全にただ眠るだけというのもそれはそれで地獄だ。


 だが、想像するだけで全身の血流が激しさを増すばかりだ。


 俺の理性は山の向こうに置いてきたか、どこかにお散歩に行ってるのか。


 と、葛藤していたキージェがふと見ると、クローレとミュリアは仲良く気持ちよさそうに一つのベッドで毛布にくるまって眠っていた。


「なんだよ、酔っ払いめ」


 キージェは二人を起こさないように、そっともう一つの部屋へ移動して、ホッとため息をつきながら横になった。


「まったく、毎晩こんな調子じゃ、俺の気持ちが持たないよ」


 緊張と疲れから解放されてキージェもあっという間に眠りに落ちていた。


   ◇


 目が覚めたのは夜中だった。


 どこからかうなり声が聞こえたような気がした。


 身動きの取れないトロールだろうか。


 キージェはベッドから抜け出してクローレが眠っている部屋へ行ってみた。


 眠っているかと思ったら、酔いを覚ましているのか、彼女は窓辺で外を眺めていた。


 ロマンティックに星空でも観察してるのかと思ったが、窓は路地に挟まったトロールの体で塞がれていたはずだ。


 近づこうとして、足が止まる。


 いきなりそばに寄ったら襲いかかろうとしたと勘違いされるんじゃないだろうか。


 キージェは誤解されないようにあえて足音を立てながら近づいてみた。


 クローレが振り向く。


「何してんだ?」


「観察だよ」と、すやすや眠るミュリアに視線を向けながら口に人差し指を立てた。「トロールをこんなに間近に、しかも、じっくり見られるなんて、なかなかないでしょ」


 そう言われてみればそうだ。


「なにしろ、Fランクじゃあ、クエストすら回してもらえないんだもん」


「俺も倒したのは初めてだな」


 二階の窓のすぐ目の前にはトロールの胸がある。


 クローレは皮膚の弾力を調べたり、表面のざらつきを確かめたりしている。


「ねえ、ほら、肋骨がめちゃくちゃ硬いよ」


「ああ、これじゃあ、俺たちの武器じゃあ、歯が立たないな」


 刺突用の薄刃の剣だと当たっただけで折れてしまうだろうし、槍でも、肋骨の間を狙って突くのは、相当な腕前でないと無理だろう。


 エクバルのようなAランク勇者なら火炎攻撃で弱らせ、魔力に屈しない弓矢で仕留められるんだろう。


 トロールのような巨体の魔物は息が吸えないとすぐに倒れる。


 火炎放射で空気を遮断するのは効果的だ。


 自分もそんな技が使えていたら……。


 考えるほど、現実の自分との差が開きすぎていて情けなくなる。


 ただそれはまだ自分が冒険者でありたいと未練を残している証拠でもあった。


 ため息をつくキージェの背中にクローレが手を回す。


「何よ、元気ないじゃん」


「もっと冒険者としての才能が欲しくないか?」


「そりゃね、あたしだって頑張ってるよ。でもまあ、しょうがないんじゃないの。自分を受け入れて生きていくしかないもん」


 案外、大人なんだな。


 暢気で無防備で冒険者としての実力は低いけど、この世界で生きていく覚悟ができている。


 偉いもんだな。


 ふと気がつくと、いつの間にか二人は見つめ合っていた。


 ――おいおい、なんだよ。


 ちょっといい感じじゃねえかよ。


「ねえ、キージェ」


 潤んだ瞳でクローレが迫ってくる。


「な、なんだよ」


「あのさ……あたしね」


 と、クローレがもたれかかってきた。


 ――なんだよ、おい。


 話の続きを待っていたら、キージェの腕の中でかわいらしい寝息を立てていた。


 大人なんだか子供なんだかよく分からない女だ。


 クローレの頭を優しく抱いてやりながらキージェも窓辺にもたれて目を閉じた。


 と、その時だった。


 グラッと壁が揺れた。


 ――ん、なんだ?


「え、何?」


 クローレが飛び跳ねてキージェの顎を突き上げる。


「痛ってえ」


 ミュリアもベッドの上で顔を上げていた。


 壁だけでなく床も天井も、部屋の家具も、宿全体が揺れていた。


「な、なんだよ、これ」


 天井を支える梁と木組みの柱がミシミシと音を立てるが、暗くて何が起きているのかまったく分からない。


「とにかく、逃げろ」


 二人は背嚢を背負って駆けだした。


 だが、ドアを開けて廊下に出ようとした時、そこに床はなかった。


「危ないっ!」


 キージェは腕を広げてクローレとミュリアを制した。


「後ろっ!」と、クローレが叫ぶ。


 さっきまでいた寝室の壁がガラガラと音を立てて崩れ、天井が落ちてベッドに瓦礫が降りつもる。


 かろうじて足の幅だけ残った石材の上でつま先立ちになって、キージェはクローレを壁際に押しつけて支えた。


 ミュリアは崩れ落ちた瓦礫の上に飛び降りて周囲を警戒している。


 ――なんだよ、何が起きたんだ?


 あまりの衝撃に村人が駆けつける。


 たいまつの明かりが灯され、崩壊した宿屋の様子が目に入ってきた。


 狭い路地に挟まれていたトロールが瓦礫の下敷きになって横たわっていた。


 どうやら挟まっていた巨体が宿を巻き込んで倒れたらしい。


「ねえ、キージェ、あれ!」


 クローレが指したのはトロールの体内から出てきた結晶だった。


 豚の体ぐらいある肝臓からできた結晶は村人のたいまつに照らされて鈍く光っている。


 だが、今はそんなものを喜んで見ている場合ではない。


「ああ、なんてことだ」


 村人をかき分けて村長のムイシュケルが前に出ると、壁の石材から這い下りたキージェたちをにらみつけた。


「とんでもないことをしてくれたな。弁償してもらうぞ」


「なんで俺たちが?」


 キージェにクローレも加勢する。


「そうよ、トロールのせいでしょ」


「路地に誘い込んだのはあんたらだろ」


「じゃあ、トロールを放置すれば良かったのか」


「それは……」と、村長が口ごもる。


「まあまあ、村長さん」と、村人が間に入る。「ギルドのクエストで生じた損害はギルドが保証してくれる規則じゃないか」


「まあ、それならいいか」


 だが、キージェは頭を抱えていた。


 正式なギルドの仕事であればクエストで生じた損害賠償を肩代わりしてもらえるが、今回はそれには該当しないため保険金は出ないだろう。


「いや、それがですね。俺たちはギルドから依頼された冒険者じゃないんですよ」


 一転して丁寧な口調になったキージェを村人が取り囲む。


「なんだって、どういうことだ!」


「俺たちはFランク冒険者だからトロール討伐を引き受ける資格はないんです」


「おかしいじゃないか!」と村人たちが詰め寄る。「我々はギルドに依頼したんだぞ。その仕事を勝手に引き受けたのはあんたらだろ。ちゃんと責任取れよ」


「そんなのずるいよ」と、クローレがムイシュケルを指さす。「あんたがあたしたちに頼んだんじゃないのよ」


 村長は視線をそらして肩をすくめた。


「まさかニセモノだとは思わなかったからな。Aランクどころか、Fランクとはねえ。ずいぶんといいかげんなことをしてくれたもんだよ」


 たしかに、Fランクであることを隠したのはクローレ自身だ。


 ギルドに訴えられたら最悪の場合、資格剥奪もあり得る。


 キージェはムイシュケルにたずねた。


「弁償って、いくらくらいだ?」


「家一軒につき金貨十枚。二軒で二十枚だ」


 一般人の年収が金貨数枚、最上級冒険者の難関クエスト報酬ですら金貨十数枚程度なのに、そんな金額払えるわけがない。


 今回倒したトロールの結晶ですら金貨一枚になるかどうかだ。


「そんな大金、無茶だろ」


「無茶をしたのはあんたたちだ」と、村人たちから一斉に指をさされる。


 まったく反論のしようもない。


 ムイシュケルが明らかに卑猥な目つきでクローレの体を眺めている。


「まあ、金貨が無理だって言うなら、あんたに違う方法で責任を取ってもらってもいいんだけどな。その場合は俺が男としての責任を取るってか。なんてな。グフフ」


 ――ゴブリンの屁でも食らわせてやりたい野郎だ。


「分かったよ」と、キージェは肩をすくめた。「俺が払うよ。ただし、今すぐというわけにはいかないから借用書を作ってくれ。とりあえず、担保としてあのトロールの結晶を置いていくから」


 村人たちは納得していないようだったが、朝日が昇る頃になんとか借用書を書いて契約を済ませると、キージェはクローレの手を引き、ミュリアを連れて村を出た。


「ちょっと、なんで言いなりになるのよ」


 クローレはふくれっ面でキージェの手を振りほどいた。


 ――あのなあ。


 元はと言えば、おまえが……。


 言いたい言葉をキージェは飲み込んだ。


 今は旅を続けなければならない。


 目的を果たせば、クエストで報酬を稼いで返すことはできる。


 そうしたら、こんなわがままな女ともおさらばだ。


 それまでは我慢我慢。


 と、クローレがわざとらしく肩をぶつけてくる。


「でもさ、あたしのために借金してくれるなんて、キージェって優しいよね」


 なんか勘違いしているようだ。


 弁償できる金がないから借金するしかなかっただけで、優しいかどうかは関係ない。


「あのさ……」と、クローレが頬を赤らめる。「あたし、借金を払い終えるまで一緒にいてあげるからね」


「おう、そうかい」


「何よ、うれしくないの?」


「だって、借金の原因はクローレだろ。責任があるのはそっちじゃねえかよ」


「あ、そういうこと言うんだ。やっぱり取り消し」


 頬を膨らませて口をとがらせたクローレが急に立ち止まった。


「あっ!」


「なんだ、どうした?」


「朝ご飯食べさせてもらってないし、干し肉もなくなっちゃった。この先どうするのよ」


 いまさらクラベル村に戻るわけにはいかないし、次の村はまだ遠い。


 魚でも釣るしかないか。


 雪狼のミュリアが悲しそうに鳴く。


「おまえも腹減ってるのか?」


 前のキュレル村でクローレが稼いだお金はまだあるから、途中の農家で何か分けてもらえるかもしれない。


 だが、その期待はすぐにしぼんでしまった。


 街道は昼ですらなお暗い深い森へと続いているのだった。


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Fランク&資格剥奪コンビの下剋上 ド底辺追放冒険者の俺たちが最強パートナーのはずがないんだが「あんたなんか大嫌いだし」 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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