やさしい雨
宙灯花
第1話 好奇心
それは、ほんの些細な好奇心だった。
リリは新しいメールアカウントを作ることにした。しかし入力した文字列は、すでに使用されていた。そのときリリは思ったのだ、使用されている、ということは、そのアドレス宛にメールを出せば、どこかの誰かに届くのではないか、と。
思いつくと止まらない。その性格は何歳になっても変わらなかった。一般に、二十六歳です、と言われれば、それなりの分別を期待されるだろうけれど、リリにそれを求めても無駄なのかもしれない。
いたずらメールだ、と認識しつつも、どこの誰とも知れない相手にメッセージを送った。全部で五通。送信可能なアドレスを見つけだすのは簡単だった。誰でもが思いつきそうな文字列を試せばいい。
本文は素っ気ないほどに短い。なぜ送ってみたのかを正直に記しただけのものだった。
送り終わったリリは、日に焼けて茶色く変色した畳の上に仰向けに寝転んだ。いかにも作りものじみた天井の木目を眺め、ひとつ息をついた。ふと、これまでの人生をふり返る。
恋をした相手は数えきれない。ときめきを感じ、胸を躍らせて、涙も経験した。
だが、どのような経過を辿ろうと、どれだけ愛しあうことができたとしても、越えられない壁があった。いつか終わりの時がくる。どちらが悪いわけでもなく、自然の摂理としかいいようがないのだけれど、みんなリリを残していってしまう。
いつの頃からか、退屈だけがリリを退屈させなくなっていた。退屈を飼いならし玩び、そして最後にはやはり退屈してため息をつく。慣れてしまった。だからといって平気なわけではない。つまらない遊びのひとつもせずにはいられなかった。
最初の返事はすぐにきた。興奮に息が乱れるのを抑えながら開いた。
文面が、しょっぱなから怒っていた。文章が強すぎて目が痛かった。結局のところ、くだらないいたずらをするな、と言いたいようだが、文脈が飛び回り論理が破綻している上に文法的にも褒められたものではなかったので、頑張って最後まで目で追ったけれどもよく分からなかった。削除。
二通目は数時間後だった。とても冷静な感じがした。
今度は大丈夫そうだな、と思ったのも束の間。静かな言い回しでチクチクと痛いところを責めてくる。理路整然と、淀みなく。大地のように粘り強く。心の深いところに、じわじわと黒い塊が溜まっていく。最後まで読み切ると、まずい行動を起こしそうな気がしてやめた。削除。
さらにもう一通きた。開くのをためらった。もうお腹いっぱいだ。
でも、メールを送った責任がある。リリは、目を半分閉じたまま開封した。
『おもしろい試みですね。それに、私の他にもこのアドレスを使おうとした人がいたということを、なんだか素敵に感じました。運命って、こういうなにげないところにあると思いませんか』
運命、という言葉を、リリは口の中で反芻した。メールには続きがあった。
『ただ、興味深くはありますが、むやみにやらない方がいいかもしれません。いろんな人がいますからね。あなたが傷つかないか心配です』
最後のところに、ハル、という署名があった。
ごめんなさい、私、退屈なんです、と返信した。
『だったら少しお話をしませんか』
ぜひ。
『オンラインゲームって分かりますか』ものすごく大雑把な言い方をするなら、ネットワーク上に作られた仮想世界の中で、自分の分身であるアバターを操作して遊ぶものだ。『直接会って話しているような臨場感があって、好きなんです』
ゲーム名が記されていた。幸いそのゲームはプレイしたことがあった。知らない人といきなり会うのは危険を伴うが、これなら安心だ。
だが、リリはまたひとつ、ため息をついた。彼女にとって、出会いはそのまま別れの予感へと繋がっているからだ。きっとまた、リリは置き去りにされる。分かっていたけれど、ひとときの温もりが欲しかった。
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