短編:日曜8時

三月ライネ

日曜8時

私は猫である。名前はあったはずだが、最近はほとんど呼ばれてないので忘れてしまった。とりあえず、主人が私を呼ぶときはマーちゃんとかミーちゃんとかムーちゃんとかいろいろな呼び方をする。


日曜の夜8時頃、玄関から「ただいま~」と主人の声がしたので、私は出迎えに向かった。まるで瀕死のコアラのような声。今日もたっぷりと深酒してきたようだ。

目線はぐるぐる、足もフラフラ、墓場に埋まる一歩手前といった有り様の、こちらが我が家の主人。三十路で独身。ここ数年はどうにか結婚しようとアプリやら合コンやらを活用しているのだが、残念なことにひと粒も実を結んだことがない。準備万端、意気揚々と勝負に繰り出しては、たいてい多量のアルコールと鬱憤だけを溜め込んで帰ってくる。オトコの掴み方と肝臓の限界をいつまで経っても学習しない、そんな人。

主人は前足を立て座っている私に気づくと、私を捕まえてわしゃわしゃと全身くまなく揉みしだき、奇声を発して顔を埋めてきた。これもいつものダル絡み。鬱陶しいわ酒臭いわでロクな事がない。私は主人の顔を踏ん付け抜け出して、おやつのある戸棚の前に座りにゃあにゃあと鳴く。主人は私の言いたいことを察して、煮干し入りのおやつをたっぷりと皿に出した。

主人は上着を脱いでソファに投げ捨て、早々に冷蔵庫から安価な缶チューハイを一本取り、ついでに袋入りのお菓子も三つ食卓に並べた。今日は記憶なくなるまで飲むぞ、と壁に向かって宣言し、500mlの缶を一口で半分近く飲んでから、雑につまみの袋を開けた。この人は嫌なときも嬉しいときも、ナントカの一つ覚え、いつも酒を飲んでばかりいる。そして二日酔いになる。

休日最後の時間、時計がカチカチと単調に鳴る部屋で、主人がポリポリとつまみをかじる、そんな空虚な状態がしばらく続いた。悲惨だな、と思った。狭いアパートの部屋の中、三十路独身が、床にあぐらをかいて背中を丸め、膝ほどの高さの卓に向かってたったひとりで深酒に酔っている。聞けば合コンに大敗し、深くご傷心のよう。彼女の人生を照らすのは、希望というにはあまりにも薄暗いちっぽけな蛍光灯だけ。ごちゃごちゃして片付けられていない部屋、賞味期限の数年切れたインスタント食品がインテリア。こんな見るに忍びない有様、だけど彼女の飼い猫である私も決して他人事ではない。

ただ呑むだけに飽きたのか、主人はカバンから手探りでスマホを取り出した。そして机に肘をついて、スマホを片手で触りながら、もう片方の手でお菓子を貪る。

宛もなくブラウザを立ち上げると、「狙った相手を絶対落とす!最強の恋愛テクニック」と銘打ったサイトが最初に表示された。主人はこれを合コンの前に見ていた。曰く、「姿勢はきちっと、でも隙は見せて。上手に脈ありかな?と思わせつつ、頼みごとをして親密感を荒稼ぎ、ダメ押しにさり気ない触れ合いを。」これでどんな相手も必中と言うことだった。

主人はこれを熟読していた。何度も繰り返し読んで頭に叩き込んだ。笑顔の練習だってした。にこっ、にこっ。ひたすら笑顔を作っては鏡の自分とにらめっこ。そして時々、自分の顔とはこんなものか、と現実に引き戻される。ダメダメ、こんな気弱じゃダメ。そう思い直して、にこっ、にこっ。―――あれ、私は今何してるんだろう……。そんな様子で、今後10年鏡を見るのが嫌になるのではと思うぐらいにしんどそうだった。

そしてそのすべてが徒労となった。隙を見せても誰も気づいてくれない。まず誰も主人を見ていない。それならばと絡みに行っても、頼み事は上手に躱されて、ボディタッチをしようとすれば不思議と相手の体が離れていく。あっ、待って、なんて追いかけようものなら、その姿はサバンナの虎。婚期を逃した三十路の必死感が洩れ出して、相手の男子は引いていた。これはいけない。さっき練習した媚び媚びスマイルの出番だ。練習の通りに完璧な笑顔を作ろうとして―――。そこに生まれたのはキングボンビー。相手にも自分にもトドメを刺した。

嫌な記憶を思い出したくなくて、主人はタブをすっと閉じる。そして今度は、「男 クズばっか」と検索窓に入力する。安易なものだ。主人は出てきたサイトを片っ端から開いては、妙に納得したように頷いて、薄気味悪くニヤニヤ、酒をチビチビ、性根はネチャネチャと暗黒面へ堕ちていく。やがてそれにも飽きて、主人はもくもくと酒とつまみを往復する作業に戻った。そして大きなため息。甘いお酒でも流せず、塩辛いつまみでも掻き消せない苦い合コンの記憶。嫌な気持ちと不健康な食事のせいで肝臓がムズムズする。

それでも一心不乱に飲んで食べて、気付けば500mlのお酒と350円のミックスナッツをあっという間に消費していた。次はお前だ、とポテチの袋に手をかけたとき、メッセージの通知が届いた。主人の表情が一瞬で明るくなる。ポテチの袋を床に捨ててスマホに飛びつく。そういえば今日の合コンでは全員と連絡先を交換できた。ひょっとしたらその誰かから連絡が来たのかもしれない。そんな期待に胸を膨らませて、トーク画面を開く。画面いっぱいに表示されたのは、メッセージの「カラオケで二次会なう」と、友達が楽しそうにしている写真。当然男からの連絡ではない。主人は項垂れた。完全に真顔、というか仏頂面。

嫌がらせか。こっちは一人酒だ。寂しいんだ。気を遣え、バカめ。内心はこんなところだが、そこは上手に隠して――「えぇ~、いいなぁ~!!!私も行きたかった(泣)」――無難に返す。これでもこの友人、普段はいい子なのだ。酔ってさえいなければ。すぐに友人からの返信が来た。「来ればよかったのに〜」なんとこの主人、せっかく誘われた二次会を自分から断っていた。一次会でボロ負けし、これ以上の連敗には耐えられないと心が折れて、「ごめん明日は朝から予定あって!」見栄を張ってから逃げてきた。もちろん何も予定は無い。

画面の向こうでは、友人が、カラオケボックスで、飲んで、踊って、バカ騒ぎしている。それが眩しくて、逆に一人宅飲みしている自分が惨めで、気分がくよくよと落ち込む。ついでにメールボックスを確認して、0件で、さらに萎える。当たり前か。「連絡先交換しましょう!」主人がそう切り出したときは、男性陣も乗り気だった。そう見えた。けれど、そこで渡されたのはフリーメールのアドレス。今日日メールって何よ。というか、見るからに捨てアカウントなのだけど。追求したい気持ちを抑えて、にこにこ、にこにこ、「ありがとうございます!」と言って穏便に済ませた。ちなみに、彼らはこの後友人たちとLINEアカウントを交換した。

携帯を布団に投げ捨ててから、残りの酒を一息にあおって、机にうつぶせて声を殺してすすり泣く。私も行きたかったな。でも、あれ以上嫌な思いもしたくないし。ネガティブな思考が主人の中で渦を巻く。どうして結婚できないんだろう。私には魅力がないのかな。仕事ばかりで楽しくないよ。何のために私は生きているんだろう。などなど。

女ひとりの六畳間。どれだけ辛くても頼れる人はいない。せめて誰かに構ってほしい。心配されたい。それすらも叶わない。長く一人で暮らしていても、孤独に慣れたことは一度も無い。

そんなとき、私は前足で主人の背中をぽんぽんと叩く。主人は私に気づくと、私を膝の上に抱え、愚痴を延々と語り始めた。男が~、友達が~、仕事が~。主人は同じ話を何十回も何百回も繰り返す。私は漠然とそれを聞き流す。それだけで主人の表情は幾分柔らかくなった。

やがて疲れたのか、主人は机に突っ伏して寝てしまった。すぐに大いびきをかいて寝言を発し始めた。主人が大人しくなったことで、私もやっと安眠できそうだ。腹も満たされた。ここらで私も寝ることにしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編:日曜8時 三月ライネ @mitsuki_reine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ