第16話 香り大事に

 四感実験——開始四日目。

 昨日はいい体験ができたからか、よく眠れたと思う。

 また夢を見られたらいいなとは思ったけど、記憶はないからおそらく何も見ていない。見たいと思って見られるものではないと思うから、あまり気にしないでおこう。


 体はかなり軽く感じる。疲労回復の効果が出ているのかもしれない。もしくは、わたしの体が特別で常人よりも早く回復するのかも。

 そういえば、お腹が空かないのはどうしてだろう。人より胃が広がるってだけで、大食漢ではないってことなのかな……。


「朝から変な顔して、何を考えてんだ?」

「変な顔ってなによ。ちょっと自分の体について考えてただけ」

「体?」

「疲れても次の日になれば体が軽くなるのは、わたしが特別で普通の人より早く回復するのかなって」

「ああ、そんなことか」

「何か知ってるの?」

「知ってるもなにも、次の日に疲れが残るほど動いてないだろ。まだ若いし」

「まあそうだけど……」

「他に何か気になることでもあんのか?」

「胃が広がるわりにはお腹が空かないこと」

「悪いが、それについては俺もわからない。考えられるのはまだ緊張してるとか、知らないうちにストレスが溜まってるとかだな」

「緊張はないかなぁ。ストレスは四感状態だからあるにはあると思うけど」

「たしかにそれも考えられるな。五感があるのにわざわざ四感状態になってるわけだし」

「うーん……」

「あとは、食に対する欲求がないからってのもあるだろうな」

「あー、それはあるかも。目覚めてから今までこれが食べたいっていう気持ちにならなかったし……」

「まだ何か言いたげだな」

「いや、いま思い出したんだけど。視覚の実験が終わったときに一度だけお腹が空いたの。それで、どうしてそのときだけだったんだろうって」

「ほう、もしかしたら……」

「何か思い浮かんだの?」

「ああ。お前の体はエネルギーの消費量が異常に少ないのかもしれない」

「エネルギーの消費量?」

「体を動かしても他の人よりエネルギーを使わない。だから腹も空かない。そう考えるとつじつまが合う」

「なるほど……」


 たしかにティーユの言うとおりかもしれない。

 消費が少ないから吸収も少ない。わたしは燃費がいいのか。


「まあこれもひとつの可能性ってだけだけどな」

「うん、そうだね」


 このまま実験を続けていけば、いつかお腹が空く。それで少しは自分の体の謎がわかるだろう。

 この思考がストレスになっている可能性もあるわけだし、今はもう気にしないでおこう。


「そろそろ外に出よっか」

「ああ」

「次の要素は?」

「苦味だ」

「苦味……苦味……あっ、コーヒー!」

「飲んだことあんのか?」

「そんなの知らないよ」

「じゃあなんでその反応なんだよ」

「実験初日の夜に博士と一緒にカレーを食べたんだけど、そのときに博士が飲んでたと思って」

「ああ、そういうこと。たしかに博士は飲んでるな」

「やっぱり!」

「でもお前は飲んでないんだろ?」

「うん」

「なら意味ねぇじゃん」

「うるさい」

「けっ」


 自分の反応が大げさだったのは認める。それでも、なんか負けた気がして嫌だから声には出さない。


「とりあえず買いに行こう」

「いや、コーヒーならそこにあるぞ」

「えっ?」

「この部屋にはもともとインスタント用のが数袋だけ置いてある」

「へー、手間が省けたね」

「砂糖もあるが、それは使わずに飲めよ」

「わかった。で、どうやって作るの?」


 わたしはティーユに教えてもらいながらインスタントコーヒーを作った。簡単に作ることはできたけど、知らなかったからには人生初なのかもしれない。なんだか心が躍る。


 この香りは博士が飲んでいたものに似ている気がする。

 そういえば、シュークリームも梅干しもレモンもまったく匂いを嗅いでいなかった。味覚だからと舌に集中しすぎたのかも。

 ここからはちゃんと鼻も使おう。


「じゃあ飲んでみろ」

「うん」

「ヤケドには気をつけろよ」

「ありがと」


 わたしは両手で紙コップを持ち、香りを味わってからゆっくりとすすった。一瞬だけ味を感じたような気がした。

 今度は口に多く含んでから飲んでみた。これは味がしなかった。

 残りは想像しながら飲んた。自分という白にコーヒーの黒を注ぎ込み、ほんのりと色が変わっていく感じ。体に染みる感覚はあったけど、味覚に対しての効果はなかった。


「最初ちょっとだけ味がした気がする」

「脳の錯覚だな」

「だよね……」

「だがそれが起こったってことは、脳にいい刺激を与えられたってことだ」

「だよね!」

「記憶はどうだ?」

「自分に関してはまったく」

「だよな……」

「でもコーヒーを思い出せたのはよかったと思う」

「だよな!」

「真似しないでよ」

「ふっ、バレたか」


 ティーユの雰囲気と言動が最初に会ったときからかなり変わっている気がする。最新の人工知能だから、実験を通して成長しているのかもしれない。わたしと一緒だな。


「次は?」

「うま味だ」

「うま味……? これは何も思いつかないなぁ」

「飲み物がまだだったから出汁にするか」

「出汁? なんの?」

「昆布とかつお節だ」

「それがうま味に関係するんだ」

「ああ。グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果だ」

「へー、全然わかんない。これは作るの?」

「どっちでも」

「買えるならそっちがいいな」

「作るの面倒なだけだろ」

「もちろん」

「けっ。仕方ない、検索するか」

「さすがです」


 ティーユが検索している間、わたしはゴミ箱から梅干しのパックとレモンの袋を取り出した。

 どちらも鼻に近づけてみると、しっかりと匂いがした。

 自分がこれに気づかなかったことに驚きつつ、唾液が出る不思議を楽しんだ。


「おっ、運がいいな」

「どうしたの?」

「周辺情報では引っかからなかったが、このホテルのルームサービスにたまたま出汁があった。しかもお目当ての混合出汁だ」

「すごっ!」


 さっそくその出汁を注文した。しばらくして部屋に届いた。

 持ってきてくれたスタッフが部屋のテーブルに置いてくれた。その所作はスマートで、ちょっとだけ見惚れてしまった。


「お前かなり見てたぞ」

「えっ、そんなに?」

「ああ」

「恥ずかしい……気づかれてた?」

「いや」

「よかったぁ」

「気をつけろよ。世の中にはそれで勘違いするヤツもいるんだから」

「わかった」

「じゃあさっさと飲め」

「うん」


 まずは香り。

 昆布もかつお節も存在としての記憶はあるけど、匂いについてはまったく覚えていない。ただ、この鼻に抜ける温かさはすごく懐かしい感じがする。

 頭の奥の奥に、引っかかりそうで引っかからない。もどかしい。


 口に含んでもそれは変わらなかった。

 うま味というくらいだから別腹みたいな感じなのかと少し期待していたけど、結局は味覚消失の餌食えじきとなった。


 そもそもわたしは食欲がない。この実験が終わっても、心からおいしいと言えるものは現れないんじゃないか。

 そう思うと、自分の味覚に意味を感じなくなりそうだ。

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