第二話
王城の一角、文官たちが執務を行う棟。他の部署からの来客を迎えるに充分な一室で己は質問に答えていた。
「その案件は既に議会に献言いたしました。再来週には各部署で本格的な精査が始まりますので、貴公はそれに備えた資料の用意を」
こちらからの指示が終わると即座に退出される。
着座の状態でも見て取れる巨躯、臙脂の瞳の奥の洞のような丸い瞳孔、鷲の嘴のような鼻はこの国の貴族には無い特徴はどうにも人を委縮させる。
「ふう……」
王城勤めを始めて七年。年上の部下に指示を出すことにも慣れてきた。
とはいえ、円滑な仕事に必要な柔和な笑みを浮かべることは未だにできずにいる。
集中すると右目を眇める癖があるので、頬の肉が引き攣っている気がする。いっそ片眼鏡でも嵌めてしまおうか。
「ランヴァルド様、少しよろしいでしょうか」
仕事に区切りが付いた頃合いに補佐を頼んでいる少年が声をかけてくる。
十四にして認定試験を合格し、すぐに王城勤めを開始した俊英、エルク・フェルナータだ。
経験こそ浅いがそう遠くない未来にさっさと己を追い越してくれるであろう才能に嫉妬は抱かない。優秀な人間が集まるほどそれぞれの負担は分散される。
「構わない。少し早いが、午後の茶でも飲もう」
エルクからもたらされた話は自分を混乱のるつぼに叩き落すに充分な威力を持っていた。
「今、なんと言ったかな」
「私の姉と、疑似恋愛を、していただきたい」
エルクが一言ずつ言葉を句切り、改めて伝えてくる。内容は先程聞いたものと変わらない。
「……お互い疲れているようだ。君もハーブティーを飲もう。お菓子もある」
「お茶はいただきますが、菓子は結構です。ちなみに私はいたって正常ですよ」
万が一来客に来られると事だ。どうにも己は他人と親しいものに対してでは態度が違うようなので。
執務机から、奥の私的な休憩スペースにティーポットとティースタンドを移動させる。
城勤めは時期によっては激務になる。部屋を与えられるような役職のものには仮眠と休憩のための部屋が与えられるのだ。
まあ、もっぱら側付のエルクやたまに訪ねてくる友人と茶を飲むための場所になっている。
優秀なエルクは、何故このようなことを言い出したのだろう。
「そもそも君の姉は婚約者がいるのでは?」
「はい。私と同年のロベル・パレルモです」
「不貞にならないかい?」
「聞いていただきたいのですが、そもそもあの馬鹿が軽率なことをしなければ私もこんな話は持ち込みませんでした」
聞かされたのは、ロベル・パレルモ氏の姉君に対する堂々たる不貞宣言だった。
「馬鹿は現在、件の女性を見かけたという国立劇場付近で家の者を使いながら妖精探しをしています」
「誰も幸せになれなさそうだね!」
いくら婚前の火遊びに寛容になっている昨今とはいえ、こんな堂々と行うようなことではない。
それこそ密やかに手紙のやりとりをしたり人目を忍んで別邸に招くとか慎ましく行うべきではないだろうか。いや、問題はそこではない。
「そしてパレルモの方々はどうして御子息を止めないんだい」
「……あれはこの通り馬鹿なのですが、馬鹿は馬鹿なりに人を楽しませることが上手い性質でして。今回のことをパレルモの人々も”若様のいつもの余興”として捉えております」
エルクの顔がひどく歪んでいる。眉間のしわは深く刻まれ、濃茶の瞳が眇められている。
エルクから彼の姉の話は時折聞いていたが、何故こんな貧乏くじを引かされているのだろう。
「我が家は爵位こそ中々のものを賜っていますが、その実自転車操業といいますか。真面目故に一旦資金繰りができなくなると回復が難しいんですよ。お陰で五代前の借金が未だに尾を引いています」
「存続に関する才能が凄まじいね。君の家」
通常であれば財政の苦しい家に爵位は持たせ続けられない。
それだけ王から培った信頼が篤いのだろう。
「領民の救済のためということもあり今日まで爵位は取り上げられませんでしたが、長年の借金を父は大層気にしているようでして。今代で清算を試みた結果、パレルモとの婚姻が持ち上がりこれこのように」
「個々人の性格を省みなければ、パレルモ氏はこの上ない結婚相手というわけだ」
個人的に利用したことは無いが、パレルモ商会は若年層の貴族層でも評判だ。そこの長男ともなれば将来有望なことこの上ない。
「弟分としてはともかく、結婚相手としては相性がよろしくない。争いは起こらないので大人はそれなりの仲だと思い込んでいるようですが」
ストレスの現れ方は人によって違う。怒りとして溜まり噴火するようなこともあれば、澱として積もり心を淀ますこともある。
「……以前は姉分、弟分としてそれなりに良い関係を築けていたのですが、結婚の話が持ち上がり、結果こじれてしまいました」
世話焼きの姉とお調子者の弟たち。そのバランスがパレルモ家優位の婚約によって崩れてしまっている。
「ロベルは放蕩ぶってストレスを解消していますが、その分姉上に全ての負荷がかかっています」
ここ数年は、あれと顔を合わすとお茶を飲むことしかできなくなってますね。
それは最早怒る気力が沸かないほどに憔悴しきっているのではないだろうか。
とにかく落ち着いてほしい。ここは事実を並べ、実行が難しいことを理解してもらおう。
「僕は友人のように話も上手くないし、若いお嬢さんには面白みもない相手だと思うよ」
「姉は穏やかな女性です」
「そもそも僕には婚約者が」
「ネルフィナ様には直接お会いして許可を得ました」
ネルフィナ、君ってやつはとんでもないね。
彼女の想い人は別にいるし、お互い情はあっても恋のない関係ではあるが。
「このような大男では怖がらせてしまう」
「身長のことでしたら姉の背丈は私と大して変わりません」
「辛気くさい顔だ。誰かのせいで眉間のしわは中々消えないしね」
「落ち着いておられてとってもよろしいかと。しわの原因の御仁に関してはキーファ様のことでしょうか」
どうやら一歩も引く気は無いらしい。
「……姉はこれまで長子として、令嬢として、フェルナータの長子として、未来のパレルモの妻として規範になるべく振る舞ってきました。ですが、さすがに限界です。学舎でも家でも優等生の姉は、エリエスは一体どこで”ただのエリエス”になれるというのです」
エルクの常の鋭さがとれ、迷子の少年のような年齢相応の表情になる。この顔に己はひどく弱かった。
「……まずお姉さんに話を持って行きなさい」
蒸らし時間はいつも通りのはずなのに、口に含んだハーブティーはひどく渋かった。かすかに感じる夏らしい青い花の香りだけが慰めである。
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