ニッポンの夏
六蟬
第1話
畳の上に座り、益田は目を閉じ耳を澄ませた。
家の周りの蝉たちの鳴き声が聞こえた。様々な種類の蝉の合唱に耳を傾けつつ、時々涼しげな風鈴の音の響きを楽しみ、扇風機の風に当たった。益田の顔に自然と笑顔が浮かぶ。これこそ益田の求めていた「日本の夏」だった。
去年都会から田舎に引っ越してきて、友人と会う機会はかなり減ったし、田舎特有の付き合いや関わりが面倒になったことはあったが、もともと益田が田舎に引っ越してきた理由は自然に触れるためだった。益田は元々東京で刑事をやっていたが、精神的に病んでしまい、友人に相談したときに田舎に引っ越すことを提案されたのだ。
田舎に来てから、都会のいたときのように余計な情報――物騒な事件の話や狂人的な犯人の情報など――が入ってこなくなり、自分のことだけに集中できるようになった。集中を掻き乱してくるのは、それこそ家に侵入した鳥や虫、お節介な近所のおばさんたちだけだ。
特に益田はその季節特有の色や味わいが好きだった。引っ越してきたときは秋の紅葉の時期真っ只中で、益田は赤く色づいた山々を前にして感動した。それまでずっと東京で暮らしてきた益田は、本物の秋の色を知らなかった。その本物を目の当たりにした瞬間、心が洗われ、病も吹き飛んでしまうようだった。
それ以降、益田は日本の四季を全力で楽しむことにした。冬にはこたつでみかんを食べながらほぼ一日を過ごし、春には近所の人達とみんなで花見に出かけた。
益田はここで初めて迎える夏は特に特別なものにしたいと思い、前から準備をしていた。わざわざ昔ながらの鉄の風鈴や、蚊取り線香とそれを乗せる豚の置物も買った。蚊取り線香は試しに何度か使ったが、最初は火傷したり灰をこぼしたりして使いこなせなかった。今はとっくに使い方に慣れ、部屋の片隅を彩っている。
準備の段階で、他に日本の夏といえば、で思いついたのが、暑中見舞いだった。益田は暑中見舞いが欲しくなって仕方なかった。もらうためだけにあちこちに電話し、僕に暑中見舞いを書いてくれ、住所でもなんでも教えるから、と言った。結局書く気になってくれたのは友人の小宮と成田ぐらいだった。
益田は暑中見舞いのことを思い出して目を開けた。ゆっくりと立ち上がり、縁側からサンダルを履いて庭に降り、そのまま郵便受けの方に歩いた。ドキドキしながら開けてみると、中には二通の葉書が入っていた。小宮と成田だ。嬉しさのあまりその場で「よっしゃっ」とガッツポーズしてしまった。
「何かあったんですか?」
隣の家から声が聞こえた。向くと、隣の家の旦那さんが庭木の手入れをしているところだった。
「いえ」と首をふると、旦那さんは不思議そうにした後、興味をなくして鋏を握り直していた。
縁側に座って葉書を見つめる。日差しが強すぎて文字が読みにくかったため、縁側は諦めた。さっきまで座っていた扇風機の風がよく当たるポジションに座り、まずは小宮の方を見る。彼らしい、丸みを帯びた丁寧な字だ。
『暑中お見舞い申しあげます。そちらも非常に暑いと思いますが、お変わりなく過ごしてますか。暑中見舞いを書いてくれと電話で聞いたとき、変わってないなあと思って、安心しました。なんだかんだ君が引っ越してから会えてなくて寂しかったし、心配だったから。電話してきてくれてありがとう。どんなことを書けばいいのか分からなくてこんな感じになったけど、許してね笑 まだまだ暑いので、くれぐれも健康には気を付けてね。復帰してくるのを待ってます。』
文章の下には、手描きと思しきスイカの絵が描かれていた。その隣に、益田の好物の餃子も描かれていた。わざわざ夏に関係ない自分の好物を描いてくれたのか、と無意識に口角が上がっていた。
その絵を何気なく手でなぞったとき、突然絵の中のスイカと餃子が飛び出して、本物と同じサイズまで膨らんだ。益田はびっくりしたが、目の前の餃子がとても美味しそうで、食欲を抑えきれず箸を取りに行った。
餃子は素朴な味がした。手作りのような優しい味で、益田の好みだった。そういえば小宮は実家のラーメン屋を継いだんだったな、と思い出しているうちに、あっという間に餃子はなくなった。食べ終えると、皿は消えてなくなってしまった。
次はスイカが食べたくなり、益田は箸を片付け、包丁と大きい皿を持ってきた。
畳を汚したくないため、縁側の上でスイカを半月型に切った。見たことないくらいみずみずしくて、美味しそうな色をしていた。縁側に座って、益田は思い切りかぶりついた。スイカの甘い果汁が大量に溢れ出した。それを飲み込むと、水分が暑さで乾いた体中に沁み渡っていった。益田はあまりの美味しさに止まらず、一気に一切れ食べてしまった。
残りはラップをして冷蔵庫にしまおうとしたが、一人暮らし用の冷蔵庫はスイカを入れるほどの大きさはなかった。仕方なく、益田は風呂場にスイカを置いて洗面器を台所に持っていった。氷を大量に入れてまた風呂場に戻り、洗面器に水を入れ、その中にスイカを入れた。こんなのを雑誌か何かで見て、うろ覚えでやってみたが、なかなかいいな、と益田は思った。
またいつものポジションに戻ってきた。今度は成田の葉書だ。彼らしい、達筆で角ばった字をしている。
『暑中見舞い申し上げます。極暑の候、お変わりなくお元気にお過ごしのことと存じます。私も仕事の環境が変わり、会いに行く機会がなくこのような形で申し訳ありません。しかし最初はあなたが書けと言ってきたので今仕方なく筆を執っている所存です。それは分かっていますね。お返事待っています。そちらも暑さが厳しく療養中で大変であるのは共感できますが、あなたが言い出したことはあなたできっちり締めてくれなければ困るので。くれぐれもご自愛ください。』
彼らしい皮肉の効いた文章だ。本当に書くのが面倒だったと見える。映画の脚本家はそんなに忙しいんだろうか。文章の下には、小宮と同じように手描きのイラストが添えられていた。いちごのかき氷と、なぜかまた餃子の絵があった。もしや、二人で示し合わせたのか。
指でなぞると、また絵が飛び出してきた。かき氷は昔ながらのものだった。溶ける前に食べなきゃ、と急ぎ足でスプーンと箸を取りに行った。
さっきのスイカには負けるが、かき氷も甘くて美味しかった。ただスイカを一切れ食べた後だからか、食べ始めてすぐ頭がキーンとした。これ以上冷たいもの食べたらお腹壊すな、と思いつつかき氷を完食した。かき氷の器も、完食すると同時に消えた。
次に餃子を食べた。小宮のと違って味が濃く、にんにくが効いていた。これも益田の好みだった。ご飯が欲しくなる味だ。ビールと食べたら最高だろうな、とか考えていたらすでに無くなっていた。
満腹になった益田はそのまま寝転んだ。蝉の声は依然として鳴き止まず、むしろやかましさはさっきよりも増している気がした。風鈴の心地よい音色に、益田はうつらうつらとし始め、しばらくして眠ってしまった。
「お邪魔しまーす。益田くーん、いるー?」
小宮は玄関が開かないことを確認し、縁側の方を覗き込んだ。
「あ、寝てる」小宮が呟くように言った。
「マジかよ。せっかく時間作って来てやったのに」成田が言う。
縁側の中を覗くと、扇風機の前で寝転がって胸を上下させている益田がいた。
「どうする? 起こすか?」成田は縁側に座り、益田を親指で示した。
「いや、お土産だけ置いて帰ろうよ。一応置き手紙書いて」そう言って、小宮はビニール袋を重そうに持ち上げた。
「どうせこいつの冷蔵庫にそれ入んないだろ。料理しないやつの一人暮らしで、スイカが入る冷蔵庫なんて買わない。だから三人で食べて少し小さくしたら入るかもって計算だったのに」
「でも、起こしちゃうのはまずいでしょ。また来ようよ、ね?」
成田は溜息をついた。俺は本当に忙しいんだぞ、という目で小宮を見つめ、益田を一瞥した。
「……しょうがないな。また来たときには起きてると信じて、帰るか」
成田はズボンのポケットから手帳を出し、一ページ破ってペンを走らせた。その脇で小宮はスイカの袋を縁側に置いた。その時、益田のそばの机の上に葉書が二枚あるのを見つけた。二人で相談して、益田を元気づけるために描くことにした餃子の絵が並んでいるのを見て、小宮は顔を綻ばせた。
書き終えた紙を成田が袋の下に挟み、二人はその場を去った。
益田が目を覚ましたときにはもう日が傾いていた。窓を締めようとして起き上がると、見慣れない袋が置かれていた。中を覗くと、大きいスイカが入っていた。またスイカか、と思ったその時、盛大に腹が鳴った。美味しいスイカもかき氷も餃子も全部夢だったのだと思い、益田は心底がっかりした。
袋を持ち上げると、紙が落ちていた。成田の字で、どうやら成田と小宮が来ていたらしい。起こしてくれたらよかったのにと思った。
スイカを台所に置いた後、改めて二人の葉書を見た。いくら絵をなぞっても、飛び出てくることはなかった。食べたのは夢の中だったが、あの味は忘れられない。どうしてあんなに美味しかったんだろう。もしかして、料理は愛情ってやつか。益田は自分で思って笑ってしまった。
益田は棚から適当な紙を引っ張り出し、暑中見舞いの返信の下書きを始めた。あの二人は何が好きだっけ、と思い出していると、自然と笑顔になり、筆が進んだ。
結局は空腹に耐えきれず、下書きは中断して夕食にした。もちろんデザートにスイカを食べた。夢の中よりも一層沁み渡るような甘さだった。
そういえば、と益田はあることに気がついた。葉書を持ってきてすぐ読んだはずなのに、いつ眠ってしまったのだろう。いくら考えても結論は出ず、諦めて風呂に向かった。
風呂場の扉を開けた瞬間、益田は飛び上がりそうになるくらい驚いた。そこにはラップにくるまれ氷水に浸されたスイカがあった。
ニッポンの夏 六蟬 @Roku_Zemi
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