第18話:中学校、そして再会
一九八三年九月一日、武夫は順調に中学生になっていた。
大勢の観客の前での演奏は、今年の夏休みに二回ほど経験している。会場はまたもや東京で、高平先生という永山先生のお師匠さまが主催したクラシックコンサートに、ゲストピアニストとして呼ばれてオケの前で二曲ほどの演奏を披露した。永山先生のリサイタルにも共演し、五千人を超える聴衆の前でさらに上達したピアノを披露している。
「まぁ、儲かったからいいけど」
出演料を得てちょっとした小金持ちになった武夫は、わりと高級なオーディオセットと、ジャンルを問わずにレコードを買いあさった。ギターとアンプも上位グレードに新調し、新たに88鍵のキーボードも購入している。
このキーボードは妹とピアノの練習時間がかぶったり、手軽に自室で編曲やアレンジしたりするときに便利だと思って入手したものだ。
木下先生のピアノレッスンは小学校卒業を機に卒業していて、今では彼女は武夫にとっての顧客となっている。月に一度くらいは教室に顔を出して、今でもセッションを楽しむ仲でもあるが。
永山先生も武夫の顧客であり、近くでリサイタルやコンサートがあるときは連絡してくれて、木下先生のピアノ教室で友好を深めている。
武夫はこの二人以外の編曲依頼を、学業を理由に受けていない。なん件かの依頼は木下先生経緯油で有ったが、自分の計画を圧迫することは間違いなかったし、すでに今の収入でかなりの余裕があったからだ。
武夫は一度人生を経験しているせいか、いわゆる金欲とか物欲が強くない。充分に余裕がある生活が送れていればそれで満足してしまうのだ。
「カネが有りすぎても身を亡ぼすだけだしな」
そんなことは置いておいて、今日は夏休み明けの初日。いよいよ雅美が転校してくる日だ。まだ新し目の学ランに身を包んだ武夫は、逸る気持ちを抑えてかなり早めの時間に登校し、朝のHRを今か今かと待ちわびている。
もしバタフライ効果で雅美が転校してこなかったらどうしよう。始業式では転校生の発表がなかった。いの一番にクラスに戻り、席について担任を待つ。
けれども担任は一人で教室に入ってきた。誰かを連れている様子もなく、淡々と朝のHRが進行していく。武夫は絶望にも似た心情に襲われているが、しかしそのとき、前方の隣のクラスから歓声が聞こえてきた。
「ああ、言い忘れてたが、一組に女子生徒が転校してきたからな。おまえら変なちょっかい掛けるなよ」
クラスは一旦ざわついたが、すぐに平常に戻った。けれども武夫のテンションだけはダダ上がりだ。まだ転校生が雅美でない可能性が無くはないが、もう決まったも同然だろうと彼は思っている。
授業がはじまっても上の空で、武夫はずっと雅美のことを考えていた。
「吉崎、おい、吉崎!」
心ここにあらずだというのがバレたのだろう。英語の先生に呼ばれた武夫は、ハッと気がついて教科書をパラパラとめくっている。
「三十八ページだ。読んでみろ」
武夫は指定された教科書の英文を、ネイティブに近い発音で読み上げていく。彼の発音はネイティブ並みだとは言い難いが、先生やほかの生徒の強烈な日本語訛りの発音と比べればかなりマシなものであった。
当時の中学生はネイティブに近い発音で話すの恥ずかしがって、わざと日本語訛りが強い発音をする傾向にあった。けれども武夫はそんな恥ずかしいと思う気持ちをすでに卒業している。いや、カッコいいとさえ思っている。
「今日も良い発音だな。皆も吉崎を見習うように」
「先生の発音も俺たちと一緒じゃん」
「それはあれだ、こう見えて先生、外人とはほとんど話したことないからな。上手く発音できんのだよ」
お調子者のツッコミと先生のぶっちゃけた返しにクラスは笑いに包まれるが、当時の英語の授業なんてこんなものだった。それでいいのか? 先生。と、武夫は少し心配になるが、今日はそれどころではないのだ。早く終われ。時間よ過ぎろ。と、授業中ずっと念じ続けていた。
一時間目の英語の時間が終わり、武夫はクラスメイトの野郎どもとともに隣の一組を覗きに行った。
「わりと可愛いじゃん?」
「そうか? 俺はちょっと遠慮しとこうかな」
野郎どものそんな感想が聞こえてくるが、武夫だけは、濃紺の真新しいセーラー服姿で、生徒たちに囲まれてぎこちない笑みを浮かべている雅美の姿に、打ち震えるような喜びを噛みしめている。
――良かった。本当に良かった。やっと会えた。雅美が転校してきてくれた。ああ、なんて可愛いんだろう……。
今の武夫の雅美を見る目にはものすごいバイアスがかかっている。一般的には普通かちょっと可愛いくらいと思う人がほとんどだろう彼女の姿が、誰よりも可愛く見えているし、愛おしく思えている。
それは一時横にどけておくとして、これまでの武夫は学校で目立たず平凡な男を装ってきた。英語の発音だけは、たとえまともであっても成績に直結するわけでも、頭が良いと思われるわけでもないから今の実力をさらけ出しているが。
小学校から中学校一学期までの通知表にも、全教科三段階評価の普通か、五段階評価の3か4を並べていて、一度も「良い」や「5」を取ったことがない。
これは教師陣にも実力を隠そうとした武夫の策略であって、雅美に会うまでは目立たず生徒たちの中に埋もれて、誰からもモテないように気を配ってきたためである。雅美以外に女子と付き合う気が無いのだから、もし好意を持たれてトラブルになりたくなかったというのがその理由である。
けれども雅美に会えたからには、もう遠慮する必要がない。ここからは彼女にモテるためにも実力を隠すことを止めるし、音楽の腕前も披露していこうと武夫は考えている。
――ここからが本番だ。中学デビューだ。
武夫はそう心に決めて二組の教室に戻るのであった。
四時間目が終わって昼休みになっても、雅美はクラスメイトに囲まれて身動きがとれなさそうであった。武夫は午後の授業をなんとか耐え忍び、終業のHRを終えて一組に急いだ。けれども一組の方が先にHRを終えていたようで、雅美の姿が見えない。
――ピアノでも弾いて気を紛らわすか。
今日はもう諦めて、話すのは明日にしようと、ガックリと項垂れながら所属している音楽クラブに武夫が向かうと、隣のピアノ室から聞き覚えがある旋律が聞こえてきた。
――カノンだ!
逸る気持ちを抑えて武夫がそっとドアの窓ガラスから覗くと、そこにはピアノを弾いている雅美の後ろ姿があったのだった。
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