ディ・ディラヴ

馬村堂 白雄

逃亡

俺は裏通りを人を避け縫う様に駆けていた。全力で走り続ける俺を見て通り過ぎていく人の中には近くに警察がいるのかと慌てる奴や俺を変なものでも見るように眺めている奴、何かのトラブルに巻き込まれて逃走する哀れな男と見て薄ら笑いで肩をすくめる奴……色んな反応をする奴らが通り過ぎて行った。


その度に世界が激しく上下に振動し左右に揺れる。足音と揺れる世界とで身体で感じる振動の三つがそれぞれバラバラにずれている気がするが、気にしている場合ではない。全力で走ると必ず子供の頃の鬼ごっこや運動会の競争、夢中になって走った記憶が蘇る。走ることの楽しさ或いはその先にある勝利や賞賛への執着に自身の力以上のものを出そうとしていた。そんな綺麗な思い出は遠い昔の話だ。


そして今の俺も間違いなく自分が出せる以上の力を求めている。そうでなければ生きてはいられない。確実に殺される。その確信があった。しかし今の俺は身体の力をフルパワーで使えている。そんな気がしてならないから捕まる気もしないし殺られる気もしない。


だが、多勢に無勢、逃げるが勝ち。そして俺は逃げ切れる。そんな自信も同時にあった。何故なら子供の頃から自分の走る音と見える景色の揺れ、そして身体で感じる振動がずれるのは自分の脳の処理速度を超えて身体が高速で動いているからに他ならないからだと信じているからだ。


走りながら徐々に表通りに近づいていった。狙って走ったのだから間違いない。裏通りから表通りに抜けて行けば更に人の多い通りに出られる。そしてもう一区画出れば表通りと言う所で書店に飛び込んだ。23時まで開いている書店で俺も暇つぶしによく立ち寄る店だ。裏通りと表通りに面した二つの出入り口があるので近道としても活用している。この店が閉まる23時以降になると、この書店のあるビルと隣接する隣のビルの角まで行かないと表通りにたどり着かないのだ。


ドアを掌で叩きつけるように押し開け、スピードを落とさず店内を突き抜け表通りに風のように躍り出る。そのつもりだった。が、裏通りから表通りに抜ける通路に面してレジが並んでいて、そこに会計待ちの客がいたから予想が外れた。右にレジ、そこに並んだ二人の客を避けて左にと意識をやるのが身体の動きに対して遅すぎた。


慣性力を見誤り障害物に激突して爆死するゲームのロケットの最後を見送るような気分だった。しかしその激突する機体が自分自身という現実と非現実が混在したような想像を一瞬したが、次の瞬間にはその後の状況判断と自らの動作について集中していた。


左側の新書コーナーに積まれた本の端に置かれた山に左の脛を引っかけて背後で本が舞う瞬間がスローモーションに思えた。ゲームなら減点だなとコンマ何秒かの思考でスローモーションで蹴飛ばした本が宙を舞い始めたのを眺めながら思った。そして宙を舞う本が背後で頂点に達しただろう頃に「悲しいけどこれゲームじゃないのよね」とその思考を否定した。


しかし俺には売り物の本を足蹴にした事を謝罪して本の山に積みなおす余裕もなければ、猛スピードで裏通りから表通りへショートカットで駆け抜ける輩である事を躊躇する暇もない。


奴らがいつ俺を捕まえに来るか見当もつかない。先ずは安心できると思える自分のアパートまで逃げ切る事。そしてそこも安全とは言えないから手早く逃亡の準備を済ませ立ち去る事。まずはアパートに辿り着くまでが今の俺の目標であり第一ステージのゴールだ。そしてすぐさま第二ステージに向かわなくてはならない。現実とは残機0の険しい綱渡りゲームだ。


入口そばで驚いて硬直する婦人の横をバスケの選手の様にすり抜け書店の表通り側の扉が近づく。ガラス越しに通りの向こうに障害物(人)がいない事を確認した。人通りの多い表通りでこれだけ空いているだけでも俺は強運に見舞われている。揺れる景色の中で俺は心で笑った。表情に伝達する余力が無いからだ。


俺は書店で一つのミスを犯したが自身の身体能力の限界を超える力でこの危機的状況から脱した事を喜んでいた。今のスピードでドアを掌で突けば最悪はガラスを叩き割る事になる。ドアの数メートル手前から右足を前に軽くスライディング状態で足を屈め腰を低くした。そして表通り側の書店のドアをスライディングで蹴り開ける。蹴り飛ばす最下部はガラスではなく金属なので店側にこれ以上の損害は出さなくて済む。


表通りの歩道の石畳で足裏にグリップの回復を感じる。結構な勢いで減速してくれるので、その勢いで屈んだ体制から全力疾走するべく直立体制に移行した。その最中に視界に映ったものを理解するのは直立状態になるよりも後になった。前屈から直立に姿勢を移行する間の実質1秒そこらの俺の視界の右側は赤く輝く回転灯で埋め尽くされていた。


警察官が群れを成して俺を見た。こいつらも敵だ。そう直感した俺は奴らに向かって再び全力で叫びながら駆けだした。それにしてもよくここまで体力が持つ。そう思えるほどの運動量だったが俺は身体を完全にコントロール出来る自信があった。再び上下左右に景色を激しく揺らしながら警察官の群れに駆けていく。そのぶれる視界の中でターゲットにしている警察官を確実にとらえていた。


かなり優秀な手振れ補正が俺の視覚野には備わっているらしい。そんな事を考えていた直後には狙った間合いに到達し俺は左足を蹴りだし右足を伸ばして高く上げライダーキックもかくやというスピードに達した。そして狙った警察官に右足が当たる直前に跳躍時に縮めた左足で地面を激しく蹴り上げた。同時に反動で右足は高く空に向かい直撃した警察官は高く空を舞い、歩道を塞ぐ形で止めたパトカーの上を通り越す放物線を描いた。


この後落下するのを見届ける暇はない。すぐさま蹴飛ばした警官の両横にいた警察官。宙に舞った警察官を口を開けて見送っているその二人のうち右の警察官に向かって跳躍し右足でその胴体を蹴り三角飛びで宙を舞った。反対に飛んだ先にいる左側の警察官の胸、もしくは肩を蹴ってパトカーを飛び越えるつもりだったが、想像以上に飛んだため片足で左側の警察官の顔面を蹴り飛ばしてしまった。僅かな反動しか得られなかったため空中で藻掻くようにしてパトカーの天井に片足をつき両手の力でカエルの様に前に飛んだ。街のネオンや車のライトがカラフルな線を引く。警察官の叫び声や街の騒音が回転に伴い大きくなったり小さくなったりするのを心の奥で面白いと思った。


そしてパトカーの反対側へ跳び箱の前転の様に転がり下りて着地すると警察官が左右から二人慌てて駆け寄ってくるのを目にした。前線で逮捕されると油断していたのだろう。残念ながら後手過ぎる。俺は何か叫びながら駆け出し、二人が左右に辿り着くころには十分な速度に達し、ようやく手が届いた二人を相変わらず何か喚きながら振りほどいてそのまま走り去った。


おそらくはこれで第一ステージクリアだ。警察官の群れは1面のボスといったところだろう。俺は全能感に酔いしれながらも敵のことを忘れることはなかった。やつらは想像を超えている。どこに逃げれば助かるのかも今はまだ想像もつかない。一度安心できる場所に辿り着いてその後で考えるしかない。


俺は夜の街をひたすら走り続けた。街にサイレンの音がけたたましくこだまし始めた。俺を追う警察の群れだ。それでもあいつらよりはずっとマシだ。それだけは確信していた。


もう大丈夫だと心のどこかで思う気持ちをひたすら制止しようと努めたが、それに反して身体は今までのブースト状態からクールダウン期に移行しようとする。今まで一度も意識していなかった呼吸を自ら制御しないとうまく操れなくなった。走るタイミングと身体の熱と呼吸を統率する全権が俺の脳に移譲され、足がもつれ呼吸が乱れた。今はそれどころでは無いと言うのに。


警察にも追われている状況で表通りを走るのは不利だと判断してよろよろと裏通りに戻り、街頭一つの明かりが木々を照らしているだけの小さな公園を横切り、更に個人商店などの立ち並ぶ商店街を抜け、小さな丘を埋め尽くす様に民家の立ち並ぶ住宅街に入った。最早人通りは無い。俺の目撃者もいないはずだ。そしてその住宅街の端にある公園に辿り着き、あちこち錆びて波打ったフェンスにしがみつき崖とも言える斜面を見下ろした。


 眼下には住宅街の丘を迂回するように街の明かりがひしめいていた。パトカーの回転灯の光は見当たらない。この崖の斜面を滑り降りれば俺のアパートへの近道だ。万能感に酔いしれていたあの時はここを滑り降りる事など造作もないと思って逃走ルートの段取りを立てていた。しかし、眼下に広がる景色と数十メートルあろうかという崖を目にして滑り降りる度胸は完全に消え失せていた。


無敵時間は思っているよりもずっと短い。そんな気がした。崖を通り抜ける風が一気に身体を冷やしていき汗が冷たく感じた。


もしかして今までの事は悪い夢でも見ていたんじゃないか。助かりたい一心でそう考えようとしたが、遠くビルの谷間からこだまする無数のサイレンがその希望をかき消し絶望を呼び寄せる。


この崖の下にあるのは希望ではなく悪夢の入り口ではないだろうか。


一度空を見上げ深呼吸した。そしてにわかに希望の糸口がまだ残っている事に気が付きポケットに手を突っ込んだ。「あった」逃走中に紛失したりすれば正しくどん底だったが、まだ俺にツキは残っているらしい。取り出した紙袋から小さなビニール袋を開き、掌に少量の粉を出して鼻から吸い込んだ。


自分の脳が肉体の不要なストレスを排除し身体をブーストモードに切り替えて行く。脳みそが頭蓋骨を突き破り長く角上に伸びていく様に感じる。つま先まで全てが鋭敏になった感覚器官は離れたものを触れずに判別し、遠くのモノさえ掴めそうな気がする。イケる。俺はまだ戦える。胸の奥から力強い感情が込み上げ、息苦しさは消え去り筋力の極度の疲労と痛みも消え失せるのを感じた。今の俺は肉体のすべてをコントロール出来る状況下にある、これならこの崖を降りるのもワケは無い。サイレンの群れが徐々に近づきつつあるのを聞きながら再び眼下の崖を見渡して空を仰ぎ胸いっぱいに空気を吸い込んで俺はフェンスを飛び越え闇に煌めく街明かりの中にダイブした。


風が笛のように響くのを聞きながら眼下の明かりの近づく速度と背後の崖との距離に意識を集中し崖が近付いたタイミングで垂直に飛ぶように足を蹴りだしては落下速度を殺すのを繰り返す。そして地面が近付いた頃合いで跳躍をやめ坂道で駆け足してブレーキをかけるように反発する力を加えながら地面に辿り着いた。


知らない家の庭だが、だいたいどの辺に降りたのかは見当がついている。降りて右側の塀を超え、更に隣接するもう一軒目の家の塀を飛び超えたところでよく知った道に出た。ここから俺のアパートまではせいぜい50メートル。住宅街に降りた事もあってかサイレンの音はかすかにしか聞こえない。


俺は早足で家に向かった。暗闇を歩きながら逃走に必要なものを想像していた。財布は持っている。家に置いている銀行通帳に運転免許証、保険証、他に何が必要だろう。着替えを旅行カバンに詰める暇など無い。最低限必要なものさえあればいい。なにせ敵の勢力がどの程度のものかも知りようがないのだから。


家に着くと用心して電気をつけず土足で部屋に入り必要なものをしまってある引き出しをあけて手探りで全て探し当てた。そして家の鍵をかけて極力遠くへ行こうとアパートの敷地から通りに出た瞬間、俺を包んでいた闇が全て光に変わった。通りの向こうの数メートル前の家の塀が見えない。通りの先の景色も見えない。目を開けていられない真っ白に輝く世界。


待ち伏せされていた。全てを包む光の世界は絶望の入り口だった。

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