コインランドリー

珠洲泉帆

第1話

 強く規則的な音が空間を満たしていた。すべての汚れを取り払い、よい香りで満たそうという意志にあふれた音だ。水が立てる音と機械が立てる音が混じり合った独特なそれは、彼女を落ち着かない気分にさせた。その音が日々を思い出させる——平凡で愛すべき、今の彼女を形作る過去の日々を。あまりにありふれていて、だからこそ戻りたくはないと思う日々。

 この音を定期的に聞くようになってから、もう数週間は経つ。でもまだ慣れない。どうやら、彼女はまだ、過去から逃げたいという衝動に縛られたままでいるらしい。ありきたりな日常に繋がるこの音が、あの頃の彼女の姿を描き出す。動きにくいスーツに身を押し込め、歩きにくいパンプスに足をねじ込み、笑顔を張り付けてきびきび働いていた彼女を。帰宅して、義務と責任、息苦しい格好から解き放たれるときの爽快感といったら! 彼女は身震いした。理不尽に押しつけられるもののせいで無理に得る爽快感なんて、にせものだ。体にぴったり沿うスーツも歩き回るのには向かない靴も、最初から拒んでしまえばよかったのだ。結局、寝るときには爽快感もすっかり消えて、疲れを感じたままだった。でも今は違う。毎晩、彼女は満ち足りた気持ちで眠る。彼女だけが彼女の居場所を知っているという事実に心から安心して。

 音から気分をそらそうと、彼女は地図を開いた。海の上にどんとまたがる大陸を横断してきて、もう半ばまでやってきた。このままさらに西へ進もう。東で生まれ育った彼女にとって、西は未知の土地だ。すでに空気が変わっているのを感じているのだから、この先はどんな変化に出会えるだろう? 考えると胸が高鳴る。力強い音が思考の邪魔をする。西は東より気温が高いらしいが、これからの季節は辛いだろうか。いや、一度しかない人生だから、とことん暑い場所を味わってみるのもいいだろう。その次にはとことん寒い場所へ行ってみてもいい。西の次は北へ、北の次は南へ……。東へはとうぶん帰る必要はない。水音とモーター音のうなりが重なる。彼女は丁寧に地図を折りたたみ、ポケットを探ってアカバニラの煙草を探し当てた。ジーンズの尻ポケットに雑に入れていたせいで、少しひしゃげていた。

 依存性のある嗜好品が数ある中で、アカバニラの煙草は最も害が少ないといっていい。長く吸い続けていると癖のある匂いが口と指先から消えなくなるけれど、対策用のグッズがどこにでも売られている。彼女は煙草を吸う自分の姿が好きだった。洗面所で喫煙していて、ふと鏡に映っている自身を見た。様になっているな、と思った。それ以来、いっぱしの役者になったつもりで煙草を吸っている。そう、だから煙草は欠かせないアイテムとして、きちんと持ってきた。別の誰かにさせてくれるものだから。

 ほろ苦いアカバニラの煙草をふかしつつ、彼女は自動ドアから外を眺めた。太い道路の両脇をオレンジ色の灯りが照らす以外、真っ暗だ。建物も特にない。彼女は深くうなずいた。静かでひとりぼっち。これこそ彼女が求めていたものだ。人も車も通りかかるものはない。

 携帯電話が着信音を鳴らした。今回の計画のためにレンタルした代替機だ。人間関係からも距離を置いて、連絡したい人とだけ繋がれる。片手の指先で煙草をもてあそびつつ、彼女は電話を取り上げた。

「生きてる?」

 これが通話相手の第一声だった。

「こんばんは。生きてるよ」

「今、何してるか当ててあげようか」

「うん」

「タバコ吸ってるね? コインランドリーで」

「そう」

「似合うよね、そういう雰囲気が」

 彼女はまんざらでもなかった。

「気分はどう?」

「最高」彼女は髪をかき上げる。

「ならけっこう。死なないでね」

「死なないよ。順調にいけばね」

 電話の向こうからあくびが聞こえた。

「ごめんね。暇なら相手してあげたいけど、眠くって」

「無理しなくていいよ」

「うん。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

 通話はあっけなく切れたが、彼女はこぼれる笑みを抑えられなかった。一連の会話が嬉しかったのだ。いい気分だということを口に出して誰かに伝えられると、もっといい気分になれる。

 がたがたと大きな音が響いた。彼女がびくりとしてから、ピーッと硬い電子音が鳴り渡った。その余韻が完全に消えるまで、彼女は硬直していた。

 洗濯機が動きを止め、沈黙している。どうやら終わったようだ。

 彼女は息をつき、そろそろと立ち上がって洗濯機の扉を開けた。ほかほかの洗濯物をかばんにしまい、まっすぐに自動ドアから外に出た。煌々と光るランドリーの建物を横目に見ながら、駐車場の車に乗り込む。灯りを頼りに地図を調べた。今夜はもっと車を走らせて、先まで行きたい。もっとこの非日常を味わっていたい。

 キーを差し込んでエンジンをかける。この車のエンジン、彼女のエンジン、胸躍るような明日へ駆けていくためのエンジンを。

 ヘッドライトを明るく灯して、一台の車が道を走り抜けていった。

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コインランドリー 珠洲泉帆 @suzumizuho

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