天野アイリは寝取られたい

お小遣い月3万

第1話 自転車で遠くへ

 天野アイリが2年の先輩と付き合ったらしい。

 彼女の恋人はサッカー部のエースで爽やかでカッコ良くて、ぼくなんかがいくら背伸びしても敵わない相手だった。

 だからぼくはアイリを目で追うのを止めた。

 彼女のブラウスから透けて見えるブラジャーの紐も、夏休みに髪を染めて2学期には黒く染め直して登校してきたせいで少しだけ茶色い髪も、細くて掴んだら折れそうな腕も、目に入らないように努めた。


 アイリとは小学生の頃から同じ学校で、まだ毛も生えていないあの頃は視線が重なり合って、胸がドキッとして身体中が一気に熱くなって顔を逸らした。

 小学3年生の頃にぼく達は誰にも言えないけど、すごくすごく仲良かった。女の子と仲良くしているというのを友達にも親にも言えなかったので、ぼく達の関係は秘密の関係だった。

 仲良くなったきっかけは彼女の両親が離婚しそうになっていたからである。

 

 ぼくは公文の帰りに彼女を見つけた。太陽は沈み始めていて、固有名詞はわからないけどおばぁちゃんの家にある永遠に揺れるオモチャのように、公園のブランコで天野アイリが小さく揺れていた。

 カゴに筆記用具が入った自転車を降りて、ダイソンよろしく吸い込まれるように天野アイリにぼくは近づいて行った。


 ぼくは何も考えずに天野アイリに近づいて、なんて声をかけよう? と考えたら、どうしてぼくは彼女に近づいたんだろう? と思って、そしたら声をかけるのはおかしいんじゃないかと思って、でも近づいてしまったんだから引き返すのもなぁ、と思っていたら地面を見つめていたアイリが顔を上げた。


「やぁ」

 とぼくは言った。

「田中じゃん」

 と彼女は言った。

「もう暗いよ」

 とぼくは言って、アイリの隣の空いているブランコに座った。

「知ってる」

 と彼女は言った。

「田中はなんでココにいるの?」

「公文の帰り」

 とぼくは言って、ブランコを漕いだ。

 足を折って、伸ばすとグイッとブランコが前に進む。進んだと思ったら後ろに引っ張られる。

「天野さんは?」

 とぼくは尋ねた。


 しばらく彼女は答えなくて、ぼくがブランコを揺らすギコギコという音だけが響いて、今の質問聞こえていなかったのかなぁ? と思った時に、彼女が喋り出した。


「うち親が離婚するの」

 と彼女が言った。

「ふ〜ん」とぼくは言ったけど、これはブランコを漕いで聞いたらダメな奴じゃん、と思ったから足に地面をつけて、ブランコを止めた。


 親が離婚する。

 クラスで何人かの親は離婚している。ウチの親が離婚したらどうしよう? と考えたこともあるけど、お父さんとお母さんが嫌い同士になって離れ離れになるのは想像できなかった。

 日曜日になるとお父さんは色んな場所にぼくを連れて行ってくれた。父親がいない日曜日なんて考えられない。……父親がいない日曜日なんて考えられない、って考えている時点で、親が離婚すると、なんとなくお母さんに付いて行くものだとイメージしているんだろう。


「だから」

 と彼女が言った。

「親が離婚を止めないかぎり、家に帰らないの」


 そっか、とぼくは言った。

 そっか以外の言葉が見つからなかった。

 それじゃあぼくは暗いから帰るね、というのもなかなか言い出せない状況になってしまったな、と思った。

 彼女を見ると、また地面を見つめて小さくゆらゆらと揺れていた。



「ぼくも一緒にいてあげる」

 とぼくは言った。

 自分で言っていて、自分自身に驚いた。

 帰りたいな、って気持ちもあったけど、彼女が可哀想で自然に言っていた。言葉のボキャブラリーが少なくて、彼女を慰める唯一の言葉として言ったんだと思う。


 天野アイリは地面から顔を上げてぼくを見た。

 その瞳は大きくて、少しだけ湿っていて、ダイソンのような吸引力が彼女の瞳にはあった。それに気づいて胸に針が刺さったようにチクっという痛みがあって、それが恋だと気づかなかったけど、何となく彼女を特別だと感じた。友達でも、親友でもなく、もっと別の存在になってほしいと思った。だから帰らなくてよかった、とぼくは思った。彼女と一緒にいることを選択してよかった。数分前の自分を褒めてあげたい。


 彼女は自転車を指差した。

「あれで、遠くまで連れて行ってよ」

「いいよ」とぼくが言う。

 自転車なら、どこまでも遠くへ彼女を連れて行けると思った。

「田中のことツトムって呼んでいい?」

 と彼女が尋ねた。

 なんで? と聞こうと思ったけど、下の名前で呼ばれるのは特別な感じがして、なんで? って聞いたら、やっぱりいいやって言われそうだから、なんで? の言葉を飲み込んだ。

「いいよ」とぼくは言った。

「それじゃあのことはアイリでいいよ」

「わかった」とぼくが言う。

 そしてぼくは自転車に乗った。

 彼女がぼくの後ろに乗り、自転車を漕ぎ始めた。

 太陽は沈み始めて、薄暗い闇の中でぼく達は遠くに行こうとした。彼女の両親が離婚をやめるまでは帰らないつもりで遠くへ遠くへ行こうとした。

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