14 白いBMWの持ち主は


 必死で抵抗したけれど視界に鈍い光が走って凍り付いた。

 首筋にひやりとした感触。ナイフを突きつけられている。


(い、いやだ)


 恐ろしくて声が出せない。抵抗する力も弱まる。痴漢に襲われたら股間を蹴ればいいなんて言うけれどそんなに簡単にできない。


 乱暴に服を乱される感触にゾッとして、刺されてもいいから大声を上げようと腹を括ったときだった。


 がっ、と嫌な音がして、わたしは抑圧から解放された。


 わたしの上に乗っていた男は慌てふためいてナイフを拾うと、再びフードを被って転がるように走り去った。


「おいっ、大丈夫か?!」

 わたしの肩を揺さぶっているのは。


「――速水?」

「今、通報もしたから。警察も来る」


 そう言いながら、速水はわたしの麻のジャケットの前を合わせて視線を逸らした。

 見れば薄いドレープのカットソーがもみくちゃに乱れていた。わたしは急いで乱れを直す。

 そのとき、わたしは速水の手が有り得ないくらい腫れていることに気付いた。


「速水、手が」

 そう、速水はたぶん暴漢を殴った。たぶんすごい力で。だってすごい音がしたから。

 ということは、殴った速水も同等のダメージを受けているはずで。


「別に、平気だから」

 いやぜんぜん平気じゃないよね、と言おうとしたとき、パトカーのサイレンの音が近付いてきた。





 警察の話では、このところ痴漢が出たという情報が多く寄せられていたらしい。

 被害に遭ったときの状況、犯人の特徴などを話し、痴漢情報も含めた近隣のニュースが入ってくる情報アプリをその場で入れさせられた。


「まあ、彼氏が来てくれたんなら彼氏に送ってもらいなさい。気を付けてね」

 お父さんくらいの人の良さそうな警察官は、冷却材を速水の手に巻きつけると立ち去った。


「行こう」

 わたしが頷くと、速水は一緒に歩き出した。

 もうずっと、速水は震えるわたしの手を握っていて、ごく自然にそのまま歩いていく。わたしも今はその手を振り払う気にならなかった。


「なんで駅に向かってたんだ?」

「実家に、帰ろうと思って」

「一度アパートまで来たのに?」

「なんで知ってるの?」

「ストーキングしてたから」


 速水はちっとも悪びれず二ッと笑った。


「ていうか、アパートの前に車を停めて村上が帰ってくるのを待ってた。来たかな、と思ったらちょっと電話がかかって、出ているうちにいつの間にか村上が駅の方へ戻っていったから、あわてて追いかけた」


 そう言って、アパートの前に停まっていた白いBMWのキーを速水が開ける。


 「これ、速水の車だったんだ……」


 わたしはてっきり、あのフードの男の車かと思っていた。


「乗って」

 速水の視線が真剣で、わたしは目を逸らす。

「助けてもらったことは感謝してる。でも」

「わかってる。でも今は乗って」


 優しく、でも毅然と助手席に押しこまれてしまい、わたしは深い溜息をついた。

 流されてしまう、わたしは弱い。でも今は強く逆らうのがひどく億劫で――怖い。乱暴に服を乱された感触がぬめりのように身体に残っている気がして、何も考えたくなかった。 


「どんな経緯があったとしても、こんなに震えている村上を一人にできないだろ」


 速水が運転席からわたしの手を取った。

 ぜんぜん震えの止まらないわたしの手は速水に握られたまま、静かに車は走り出す。







 高速のパーキングエリアのスターバックスで、速水は熱いコーヒーを買ってきてくれた。

 わたしは黙ってコーヒーを受け取る。

 速水の車は、わたしたちの地元に向かっていた。

 それがわかったから、コーヒーを受け取ったのだ。


「ちょっと落ち着いた?」

 わたしは頷く。もう震えてはいなかった。

 ずっとわたしの手を握ってくれていた温もりと、熱いコーヒーのおかげで。


「じゃあ、少し話してもいいかな」

 その改まった口調に、わたしは御守りのように紙カップを両手で包んだ。



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