誘い絵

雪村リオ

誘い絵

 ガラス窓に頬が痩せこけ、眼窩がんかの下部には隈をベッタリと張り付かせ、焦点の合わぬ目で瞬きを一切せず、ひたすら窓に顔を向けている生気のない男が映り込んでいる。

 男は死んでいるのではないかと錯覚してしまうほど微動だにしなかったが、呼吸のために僅かに動くカラダのお陰で生きているのだと認識できた。

 見るものに恐怖を植え付けるような様相の男を見てしまった乗客たちは恐怖で顔を引きらせ、関わるまいと外の景色やスマホを見て必死に目を逸らしている。

 自分も男から離れてしまいたい、逃げてしまいたいと思うがそうはいかない。

この不気味な男、高槻たかつきは同僚で入社当時からの付き合いであり、自分の同行者だからだ。

 本当は、関わりたくないというのが本音だ。

 そんな彼と今も一緒にいるのは高槻が哀れでも、このような人間になってしまったのは自分のせいではないかという罪悪感を抱えたからでもない。

 自分が直接関与したわけではないのだが、高槻が豹変ひょうへんした要因に関わってしまっているため、周囲の人間から押しつけられてしまったからなのだ。

 要因となる出来事は数年前に徳島へ阿波踊りを二人で観に行った際に高槻が女と出会ったことだった。

 出会ったと言っても自分は実際にそんな女を見た覚えはない。だが、高槻は女に魅了されてしまったのだ。

 恍惚とした笑みを浮かべて普段は聞かない饒舌さで熱弁をしていた。


 女は大勢の女性の集団から浮いて見えた。女の踊りが下手で目立っているのではない、むしろそういうことならば周囲に溶け込んでいると思う。

 おけさ笠の陰から顔がチラリと見えた表情は妖艶で、なまめかしい桜色の唇には今すぐに吸い付きたい衝動に駆られてしまうほどだった。白雪のようにまっしろな首、着物に隠されたカラダもきっと同じような色できめ細かく艶のある皮膚であろう。女性特有の柔らかな肉質、着物の隙間からは掴んだら折れてしまいそうなほどか細いだろうと思わせる足と腕が見え、両方の胸はふっくらと慎ましやかに存在している。

 この女を自分のものにできたとしたらどんなに幸福だろうかと妄想してしまうほどに美しい女だった。

 阿波踊りではなく女だけを凝視して、人の群れをかき分けて女を追って見続けた。

 きっと女の声は鈴を転がすような声なのだろう。毎日、あの日に見えた女の聞いたことのない声を想像して、今ではもうその声が本当の声なのだと思ってしまうくらいに彼女に自分への愛をささやかせる妄想を繰り返しているのだ。

 恥ずかしげもなく赤裸々に語っていたことを今でもはっきりと思い出せてしまう。

 そうして高槻は我を失うほどに女に惚れ込んで他のことが手につかなくなってしまったのだろう。

 元々の顔つきはふっくらとして優しそうな男だったと覚えているのだが、徐々にやせ細ってしまい、自分の言葉さえも一言二言曖昧に答えるだけで、女について語るときだけ目を爛々と輝かせて多弁に話す様子は別人のようで恐ろしかった。

 だから、阿波踊りの際に現れた女のせいだと自分も周囲の人間も決めつけている。 


 ぼんやりと昔の出来事を思い出していると突然、目的の駅の名称を言うアナウンスに反応した高槻が勢いよく立ち上がる。等身大の人形であった男が、急に意志を持って動き出したことにより吃驚してカラダを跳ね上がらせた。

 人の波をかきわけてピッタリとドアに張り付いた。

 ドンドン、カリカリ、ドンドン、ドン、ドンドン、ガリガリガリ、カリ、ドンドン。

 血走った目をしながら、このままガラスが割れてしまうのではないかと不安になるほどに強い力で叩き、引っ掻いて、男の拳は赤くなっている。

 乗客たちは男の奇行をとがめられずに一斉に目をそらし、怯えた表情を浮かべながら時間が早く過ぎ去って欲しいと願うしか出来なかった。

 未だにトビラを殴り続ける男に注意するものはいない。

 目的の駅に到着してトビラが開いた瞬間、高槻は飛び出していった。

 入り口付近で人とぶつかったが気づかないようで、無我夢中で今にも転んでしまいそうなおぼつかない足取りで走っている。走っていると言っても、早歩き程度なのだが。

 高槻を追っている途中にあったリサイクルショップで一枚の絵を見かけた。

 女踊りをしている女だ。

 大変美しい女で、もっと近くで見たいものだと思ってしまう。しかし、高槻を任された責任があるので途中で放り出すわけにはいかないのだ。

 ほんの一瞬であったが絵に惹かれて目を離してしまったせいで高槻の姿は何処にも見えなくなってしまった。

 慌てて探すが高槻らしい姿は見つからない。

 若干赤みのある紫色の空になって諦めかけ、自分に任した人間に責任転嫁して帰ろうとした瞬間、高槻の姿が見えた。

 人の波に揉まれて前へ進んでは後ろに戻ってなかなか進まないことに怒りを募らせながら、高槻を目で追う。高槻は何故かスイスイと人の波の隙間を異常な速さで通り抜けていくので今にも見失いそうになる。

 視界から小さくなって消えて行ってしまうのに焦って無理やり人の群れを突き進む。多少の怒鳴り声が聞こえた気がするが気にする余裕はなく急いで前の高槻を追いかけた。

 暫く徘徊している高槻を追いかけているとピタリと止まった。

 音楽が鳴り出す。

 阿波踊りが開始されるアナウンスが流れ、高槻は現れた踊り子たちを凝視する。

 踊り子の列から離れてゆっくりとコチラに近づく女がニコリと笑い、自分がいる方向に手を振った。

 周囲の人間は誰も女に反応せずに踊りを鑑賞している。

 列から離れた女は高槻に抱きついた。

 女の肉体がホロホロと崩れて空に溶けていく。

 抱きつかれた高槻も女の肉体の崩壊に巻き込まれて幸せそうに一緒に消えてしまった。

 最初から何事もなかったようにしている周囲に、自分は夢を見ているのではないか、高槻という同僚も女も初めからいなかったのだと錯覚してしまう。

 消失した高槻を探さずにこの日は一人で帰った。

 不思議なことに帰宅していないはずの高槻の所在を確かめられることも、責められることもなかった。

 昨日の出来事は夢であったのだと自分に言い聞かせて眠った。

 その後も高槻と会うこともなく会社に出社して、隣の席を何気なく見ると虚ろな目をした高槻が黙々と仕事をしていると思いきや見知らぬ真面目そうな後輩に変わっていた。


 もう二度と近寄らないだろうと思っていた。しかし、会社の出張先に指定されては行かなければならず、あの場所の近くを再び訪れることになった。

 仕事を終え、奇妙な体験をした夏に見てから気になっていた女の絵を思い出し、リサイクルショップに見に行ってみようかと思って行ってみた。

 女の絵はなかったが、あの夏に見かけた女と同僚であった高槻に似た男性が微笑みながら身を寄せ合っている絵があった。

 淡く繊細な筆使いで、今にも消えてしまいそうなほどに薄い色をしているが妙に存在感がある、不思議な絵だった。

 その絵を店員に言ってガラスケースから出してもらう。

 無名の人物が描いたのか、驚くことに絵の出来に似合わぬほどに安い値段で購入できてしまった。

  

 絵を購入してから暫く経った後、真夜中に喉の渇きを感じて布団から這い出て、台所に行こうとするとリビングから何やら物音が聞こえた。

 おそるおそる覗いてみると女が踊って、高槻が床に座り込んでそれを見ている。

 他に異変がないか周囲を見回すとその部屋に飾っておいたはずの絵は真っ白になっていて、あるべきはずの男女の姿がなくなっていた。

 幸せそうな男女の逢瀬おうせは朝まで続いた。

 高槻と女が消えると同時に絵はもとに戻っていた。

女も高槻に惚れていて、高槻の思いは遂げられたのだ。

二人だけの空間である絵の中できっと幸福な時間を過ごしているのだろう。


 あれから気になって絵について探ってみたが、作者名すら調べることが出来なかった。

 詳細が分からないまま年月は過ぎていき、女と高槻の逢瀬を見ることはなく、夢だったのではないかと思い始めるようになった。けれど、不思議なことにお盆の時期だけ絵の中の男女が消えているのだと気がついた。


 自宅のリビングにはお盆の期間だけ絵が消える不思議な絵を今も飾っている。

 今でも真相は分からないままだが、どうしてか手放す気になれないのだ。

 現物がなくなってしまえば、夢だと言い聞かせられるのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誘い絵 雪村リオ @himarayayukinosita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画