一面の菜の花
塚本正巳
一面の菜の花
むかしむかし、というほど昔でもないのですが、あるところに若くて貧乏な画家が住んでいました。彼は朝から晩まで安アパートにこもって、ずっと絵ばかり描いています。
そんな暮らしぶりだったので、人と話すのは雑貨店で買い物をするときくらいです。それでも大好きな絵に囲まれているせいか、彼の表情は明るく、毎日活気に満ちあふれていました。
雑貨店に行った彼は決まって、少しのパンと卵と日用品、そしてレジ横の籠に入っているショートブレッドを買います。優しいバターの香りがするこのショートブレッドは、お店の娘であり、いつも店番をしている彼女が毎日焼いてお店に出していました。
手作りなので大きさが不揃いで、たまにいびつな形のものも混じっています。でもどんなお菓子にも負けないくらい美味しくて、とても元気が出る味です。彼はこのショートブレッドが大好きでした。
「これと、あとショートブレッドを一つください」
貧乏な彼にお金の余裕はありません。大人のくせにショートブレッドを一つしか買えない恥ずかしさはありました。でも彼は買ったあとに聞くことができる、
「はい、いつもありがとうございます」
という彼女の声が何より嬉しいのです。だから毎回赤面しながらも、彼は必ずショートブレッドを一つ買って帰るのでした。
ある日、彼はいきつけの画材屋でいつもより大きいサイズのキャンバスを買いました。普段は難しい顔をして寡黙に絵筆を走らせる彼でしたが、今回はかなり様子が違うようです。嬉しそうに口元をほころばせ、鼻歌まで漏らしながらキャンバスの上で筆を踊らせています。そうやって一週間ほどで描き上がったキャンバスには、目が覚めるほど鮮やかな青空と、どこまでも黄色い菜の花畑が描かれていました。
彼はこの絵を描き始める直前、雑貨店に行ったのです。そこでいつものようにショートブレッドを頼んだところ、お店の彼女はいつものお礼ではなく、
「毎回買ってくださいますけど美味しいですか? 心だけは込めているつもりですけど、あまり自信がなくて……」
と、恥ずかしそうに訊ねてきました。突然の問いかけに舌を噛みそうになった彼は震える声で、
「とても、美味しい、です……」
と、たどたどしく答えるだけで精一杯でした。その後、買い物袋を部屋に置いた彼は一目散に画材屋へ向かったのです。
出来上がった絵は、あのときの胸の内を描き出したもの。澄み渡った青空は彼の気持ちで、暖かな春風を感じさせる菜の花畑は彼女の笑顔を思い浮かべながら描いたのでした。
週に一度、彼は石畳の中央広場へ向かいます。その一角に自分の絵を並べて、道ゆく人々に買ってもらうためです。絵はあまり売れませんでしたが、こうして絵を描いて暮らしていけるなら、彼は細々とした今の生活のままでも満足でした。
その日は何となく、描き上がったばかりの菜の花畑の絵も持って出かけました。売るつもりで持って行ったわけではありません。この絵が近くにあれば、あまり足を止めてもらえなくても気持ちが落ち込まずに済むような気がしたのです。
その日は珍しく、絵は一枚も売れませんでした。辺りは寂しい夕陽に染まり、人通りもほとんどありません。まるで町中が冬ごもりを始めた寒々しい森のようです。でも彼に寄り添うように置かれた菜の花の絵だけは、爽やかな春の陽気に包まれています。彼の顔にちょっとだけ笑みが浮かびました。こんな日だというのに笑顔になれた自分に驚かずにはいられません。
「あら、こんにちは。画家さんだったんですね」
声のほうを向くと、そこには雑貨店の彼女が立っていました。普段この曜日は店の仕入れで隣町に出かけているので、今まで彼がここで絵を売っていることを知らなかったそうです。
「素敵な絵ばかり。でも、この絵が一番好きです」
彼女ははしゃいだ声で言うと、彼の隣に寄り添っている菜の花畑の絵を指差しました。
「この絵は、おいくら?」
「あ……、これは売り物じゃないんです」
返事を聞いた途端、彼女はとても残念そうに視線を落としました。なぜかひどく心が痛みます。彼は改めて自分に、この絵を描いた理由を問わずにはいられませんでした。
「この絵は売れない。貰ってほしい、あなたに」
視線を合わせてそう言うと、彼女が目を丸くして見返してきます。いつもは恥ずかしくてすぐに目を逸らしてしまう彼ですが、その日は違いました。じっと彼女の目を見据えて、きっぱりとこう告げます。
「実は、この絵はあなたを描いたんです。だからあなたのそばが一番ふさわしい」
正直な気持ちでした。彼女は驚いたような、泣き出しそうな、とても複雑な表情をしています。ただ嫌な気持ちでないことだけは確かなようです。彼は自分が勇気を振り絞ったことをこの上なく誇らしく思いました。
彼のアパートには、菜の花畑の絵が飾ってあります。今日も絵皿の上で絵の具を溶いていると、部屋のドアが開いて朗らかな女性の声が聞こえてきました。
「行ってくるね。お昼には一旦戻るけど、お腹が減ったらテーブルの上のショートブレッドをつまんでおいて」
彼女はそう言い残し、実家の雑貨店に出かけて行きました。今、彼女はこのアパートに住んでいます。それだけではありません。あれから交際を重ねた末、彼女は彼と結婚して妻となったのです。心がこもった美味しいショートブレッドは、もちろん毎日食べています。
彼女と一緒になってから、絵は驚くほど売れるようになりました。彼女は彼が描いた絵を、どれも素敵だと褒めてくれます。彼はその笑顔が何より嬉しくて、もっと彼女を喜ばせようとどんどん絵を描きました。
作品は順調に売れ続け、今では多くの画商が絵を買い付けに来たり、大金持ちから絵の製作を依頼されたりと大忙しです。
すべては彼女と、菜の花畑の絵のおかげ。そう思った彼は部屋の一番いい場所にあの絵を飾り、彼女をとても大事にしました。そんな彼に応えるかのように、彼女も甲斐甲斐しく彼を支えてくれます。
彼はあるとき、ふと菜の花畑の絵に目を留めました。じっくりと眺めては、満足げな溜め息をつく彼。不思議とこの絵は、年々美しくなっていくような気がします。そのことに気づいた彼は、なおさらこの絵と彼女のことが愛おしくなるのでした。
不幸は前触れもなくやってきました。彼女が恐ろしい疫病に冒されてしまったのです。部屋でずっと絵を描いている彼より、毎日お店に出ている彼女のほうが感染しやすいことは明らかでした。
疫病が流行り始めても、彼女はこれまで通り店番に出かけていました。彼は彼女の出勤を止めなかったことをひどく後悔しました。今は絵が売れるので、お金には困っていません。でも彼女は、馴染みのお客さんたちが待っているから、と言って頑なに仕事を続けました。何度断られようとも、諦めずに説得すべきだった。今さらそんな後悔をしたところでどうしようもありません。
やがて彼女は眠るように息を引き取りました。重い病と闘い続けて、さぞ辛い日々だったに違いありません。しかし彼女は一度も弱音を吐くことなく、優しい微笑みを浮かべたまま天に召されました。
高熱にうなされながらも笑顔を絶やさず、自分は幸せだと最期まで彼に囁き続けた彼女。あの言葉と笑顔はもしかすると、彼女の出勤を許した彼に自分の死の責任を感じてほしくなかったからなのかもしれません。そのことに気づいた瞬間、枯れ尽くしたはずの涙が再び彼の頰を濡らすのでした。
彼に残されたのは絵を描くことだけでした。朗らかな笑い声と、最高に美味しいショートブレッドと、まぶしく輝いていた未来。すべてを同時に失った彼は、悪夢から目を背けるかのように創作にのめり込んでいきました。買い物に出かけることさえ億劫になり、ひどいときはひと月以上も部屋に引きこもり続けています。
そんなある日、訪ねて来た画商が渋々話を切り出しました。
「最近、あんたの絵は売れなくてね。もう少し売れる絵を描いてくれるとありがたいんだが……」
画商の要望を聞いた彼は、いきなり両目を吊り上げて声を荒げました。
「待ってくれ。僕の絵は前よりずっと上手く、美しくなっているはずだ。売れないなんて何かの間違いに決まってる!」
「そんなことを言われても、実際売れていないんですよ。それに、注文した絵も指示通りじゃない。どうして依頼人の要望を無視するんです?」
彼は不躾に頭を掻き毟りながら、馬鹿笑いを響かせました。
「無視なんてしてないよ。でも依頼人はみんな、本気で絵を描いたことがないただの金持ちだろう? 僕はプロの画家だ。だから作品の質が落ちるような指示は受け入れられない。それに指示の意図はちゃんと汲み取って、プロのやり方でちゃんと反映させているつもりだ。取るに足らない素人の指示だからって切り捨てているわけじゃないんだよ」
画商は頭を抱えました。反論しようとしているのではなく、心底落胆しているように見えます。結局画商は何も言い返さず、彼の部屋から逃げるように帰って行きました。
その後、彼の部屋に出入りする画商はほとんどいなくなってしまいました。彼にとってこの現実は、あまりにも理不尽でした。命懸けで絵を描いているつもりですが、絵の出来を突き詰めれば突き詰めるほど、周りの人は離れていってしまいます。
前よりずっといい絵を描いているはずなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。彼にはその理由がさっぱりわかりませんでした。
やがて彼は、また元の貧乏画家に戻ってしまいました。絵を描く気力は日に日に失われ、今では絵筆も握らず朝からウイスキーの瓶ばかり弄んでいます。こんな有様では当然暮らしていけません。ついに有り金が尽きた彼は、売れ残っている絵を抱えてとぼとぼと中央広場に向かいました。
一時は人気画家として名を馳せた彼ですが、今は広場に絵を並べても誰ひとり足を止めてくれません。無精髭を生やしてみすぼらしい身なりになってしまった彼を、有名画家と気づく人がいるはずもありません。
なぜ僕の絵の素晴らしさがわからない。どうして絵の魅力と感動を理解しようとしないんだ。彼は素通りしていく人々を睨みつけながら、心の中で何度も何度もそんな恨み言を繰り返しました。
結局絵は一枚も売れず、西日が街を赤く染め始めました。人通りは少なくなり、彼の絵に目を向ける者は一人もいません。目の前の現実はすっかり色を失い、もはや彼はこの世に何の彩りも見出せなくなっていました。
残っている絵はすべて燃やしてしまおう。そして自分も──。覚悟を決めた彼が絵を片づけていると、後ろから急に声をかけられました。
「ねえ、この素敵な絵、おじさんが描いたの?」
振り向くと、髪を左右に結った十歳くらいの女の子が一枚の絵を熱心に見つめていました。女の子の手には、絵の具や筆などを入れるスケッチ箱が握られています。きっと絵を描くのが好きなのでしょう。もしかすると、どこかで習っているのかもしれません。
「この絵が素敵……? 他のじゃなくて、こんなのがいいの?」
女の子の視線の先には、ずいぶん前に描いた菜の花畑の絵がありました。彼は一旦片づけた絵をすべて広げ直し、女の子の前に並べて見せました。彼女はそれらを一枚ずつ丁寧に吟味すると、少し眉を寄せてぽつりと呟きました。
「やっぱりお花畑のが一番いい。他のはとても上手だけど……なんかつまんない」
思わずあっと声が出ました。女の子の素直な感想が、複雑にもつれていた彼の頭の中を一気に解きほぐしたのです。
どれほど上手く優れた作品を描いても、人が見てつまらないものに価値などあるはずがありません。彼は画家としての力量にこだわるあまり、見る人のことをすっかり忘れてしまっていたのです。
不意に妻の顔が蘇ってきて、その場に膝を折らずにはいられませんでした。色や形は不揃いでしたが、いつだって飛び切り美味しかった彼女のショートブレッド。彼女はあのお菓子を作りながら、食べてくれる人の笑顔を思い浮かべていたに違いありません。
それから彼は、彼女との結婚生活を思い返しました。互いに相手のことを大事にしていたあの時期は、まぶしい笑顔の記憶しかありません。そして彼は、彼女を笑顔にするためにたくさん絵を描きました。それらが飛ぶように売れ、彼女がいなくなった後の絵が全く売れない理由が今でははっきりとわかります。
彼は改めて、菜の花畑の絵をゆっくりと眺めました。この絵を描いているとき、どんな気持ちだったか。この絵を褒められたとき、心にどんな変化が起きたか。思い出せば思い出すほど、涙で何も見えなくなっていきます。彼は往来にいることも忘れて、ひとしきり声を上げて泣きました。
女の子が心配そうに彼の顔を覗き込んでいます。そのことに気づいた彼は、菜の花畑の絵をそっと差し出しました。
「この絵が気に入ったなら君にあげるよ。喜んでくれる人が持っていたほうが、絵も喜ぶから」
それを聞いた女の子はかぶりを振ると、にこりと笑って彼に言い返しました。
「絵はいらない。でも、私もこんな絵が描けるようになりたい。だから私に絵を教えて」
彼は一番星が輝く夕暮れの空を仰いだまま、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。明日から始まる忙しい生活が、たちまち頭の中をいっぱいにしたからです。
(了)
一面の菜の花 塚本正巳 @tkmt_masami
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