第20話

 朝の陽ざしで、真理が目を覚ます。


 拓海の胸に包まれた真理が、目の前の拓海の頬に手を触れた。


 ――夢みたい。


 穏やかな日常、信頼できるパートナー。


 ほんの少し前まで、全てを失っていたのが嘘のようだ。


 腰かけ就職のつもりだった『カフェ・ド・アルエット』への就職。


 それがまさか、永久就職になるかもしれないなんて。


 人生、何があるかわからない。


 すべては優美の支援が始まりだった気がした。


 座敷童が結ぶ縁――そんな奇妙な感覚に、真理は頬を緩ませた。


 ――『やりたいことを思うようにやる』、か。


 言うのは簡単だ。


 だけど一歩踏み出すのは、とても難しい。


 背中を後押ししてくれる優美の存在に感謝しながら、真理は拓海の胸に頬を埋めた。



 スマホのアラームが鳴り、拓海が目を覚ます。


「……おはよう、真理」


「おはよう、拓海さん」


 ゆっくりと起き上がった拓海が、欠伸を噛み殺しながら真理の頭を撫でた。


 アラームを止め、拓海が洗面台に向かう。


 真理もその後を追って、顔を洗いに向かった。





****


 拓海が着替えを済ませて真理に告げる。


「じゃあ先に店に行ってるから。

 真理はいつも通りでいいよ」


 拓海がパタパタとあわただしく玄関を飛び出る。


 真理はその姿を見送ったあと、一人残された部屋を見回す。


 拓海の残り香を胸に吸い込みながら、これからのことを考えていた。


 ――キャリアプラン、どうしようかな。


 拓海と結婚して、共に喫茶店経営に関わる。


 それが一番安定しているだろう。


 だが働く一人の女性として、武器になるスキルを身に付けてもみたかった。


 考えたくはないが、この関係がずっと続くとは限らない。


 その時の保険を作るためにも、外に仕事を求めることも考えるべきかもしれない。


 ふぅ、と真理がため息をついた。


 ――今から破局を視野に入れるなんて、不誠実だ。


 頭を振った真理は、元気に立ち上がって気合を入れた。


 やりたいことを、思った時にやる。


 今は拓海と喫茶店を切り盛りするのが、やりたいことと言えた。


 それを胸に確認してから、真理は着替えをしに自分の部屋に向かった。





****


 開店した喫茶店のカウンターで、真理は拓海と隣り合ってコーヒーを飲んでいた。


 拓海が真理に告げる。


「真理はやりたいこと、見つけられそう?」


 きょとんとした顔で真理が拓海を見つめた。


「どうしたの? 急に」


「ほら、喫茶店の従業員じゃつぶしが効かないだろう?

 それに今なら、真理もやりたい仕事が見つかるかも。

 そう思っただけだよ」


 真理が拓海の頬を指で引っ張りながら告げる。


「なあに? 私を店から追い出して、女の子でもつれ込みたいの?」


 拓海が楽しそうに微笑みながら、真理の手に触れた。


「僕らの年齢って、大切な時期だろう?

 飲食業って忙しくて時間が無くなるしさ。

 やりたいことがあれば、それを優先した方がいいよ」


「お店はどうするの?

 人手が足りないから求人広告をだしたんでしょ?」


「接客対応が充分にできないのは確かだけど。

 また誰か、新しい人を雇えばいいだけだし。

 元気になれた真理なら、やりたいことが見えるんじゃないかな」


 真理が拓海の目を見つめた。


「本気でそれを言っているの?」


「本音を言えば、今のままがいいなって思う」


 真理がフッと微笑んで拓海の唇を奪った。


「それなら余計な気を回さなくていいわよ。

 いいじゃない、ここで働きながらバリスタの資格でも取れば。

 それは立派に一つの働き方よ」


「……ありがとう、真理」


「どういたしまして」


 微笑みあいながら、カウンターの中で真理は拓海に包まれた。





****


 昼食をはさんで、真理は拓海からコーヒーの淹れ方を教わっていた。


 普段は使われないが、店内にはエスプレッソマシンも置いてある。


 それを使ってエスプレッソを作り、拓海がカフェラテを淹れていった。


 ラテアートを器用に作る拓海のスキルに感心しながら、真理が告げる。


「こんなこともできないといけないのね」


「別に必須じゃないよ。

 お客さん受けがいいから、チェーン店だと求められるけどね。

 バリスタは資格がなくてもなれる仕事だから」


「拓海さんはどうやって覚えたの?」


「オーナーに専門学校に通わせてもらったよ。

 一応、資格は持ってる」


 真理がおずおずと尋ねる。


「その資格って、簡単?」


「普段からコーヒーを淹れ慣れてれば、難しいことはないよ。

 問題があるとしたら、この店じゃ使い道がないことかな?」


 真理が小さく息をついた。


「なんだか、バリスタの世界もややこしいのね」


「もっとシンプルに考えればいいのさ。

 お客さんにコーヒーを楽しんでもらう。

 そんなサービスを提供するのがバリスタだからね。

 名前なんて、実はどうだっていいんだ」


 真理は少し考えてから拓海に尋ねる。


「私がバリスタの資格を取るとして、学校に通った方が良いの?」


「他でも通用するバリスタになりたいなら、通った方が無難かな。

 一年か二年、通いながら資格を取得する感じ。

 僕は一年で資格を取得して、それで終わりにしちゃった」


 学校に通うとなれば、日中の接客業務はできなくなる。


 週三日のコースだとしても、週の半分は休まなければならない。


 ふぅ、と憂鬱なため息をつく真理に、拓海が告げる。


「お店のことは心配しなくていいよ。

 やりたいこをがあるなら、それを優先して」


 ――やりたいことか。


 この店でいつまでも拓海と一緒に働きたい。


 今はそれ以上の未来絵図を思い描くことが、真理にはできなかった。


 ぼんやりしている真理が、拓海に尋ねる。


「私、このままでいいのかな」


「別に構わないんじゃない?

 無理にキャリアを作る必要もないし。

 やりたいことがみつからないなら、じっくり待つのも手だよ」


 真理がクスリと笑った。


「さすが、『自分探し』のプロが言うことは違うわね?」


 拓海が唇を尖らせて応える。


「あー酷いなぁ。

 今はきちんと店を切り盛りしてるだろう?」


「それで満足できてるの?」


 拓海がカフェラテを見つめながら応える。


「……こうして真理と巡り合えたからね。

 きっと親父の跡を継ぐのが、正しい道なんだよ。

 だから店が潰れるまでは、守っていこうかなって」


 真理が拓海の手にそっと触れた。


「私にその手伝いをさせてもらえる?

 拓海さんのそばで、お店を守る手伝いを」


 拓海が真理に振り向いて尋ねる。


「それで本当に後悔しない?

 僕は真理の幸せを大切にしたい」


 真理がニコリと微笑んだ。


「後悔ならするかもしれない。

 でもそうなったら、また立ち上がればいいだけ。

 あとで悔やむことを恐れて、今ベストを尽くさないなんて不誠実よ。

 すべてを含めて私なんだもの。

 失敗を恐れる必要なんて、ないんじゃない?」


 拓海が嬉しそうに微笑んで、真理の頬にキスをした。


 真理が拓海に抱き着き、拓海がそれを受け止める。


 刹那主義かもしれない――それでも今は、この幸せを。


 ようやく手にした明るい未来、それを二人は胸いっぱいに吸い込んでいた。

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