第十一話 街の巨大な歯車の音
もう街には朝日が差しているのに、魔光灯の明かりがロドヴィコの横顔を照らしていた。倉庫区画に隣接する応接室の暖炉には、既に火が入っていない。彼はカーテンが閉められた部屋に佇み、グラスを傾けていた。黒檀の机の上には、魔法科学ギルドの公印が押された書類が広げられているそれを見下ろしつつ、彼は少し唸ったような声を上げる。
「まったく。近頃は純血種が少ないな」
ロドヴィコの声は、まるで研究室で使用人に命じる時のように淡々としていた。統括官は深々と頭を下げる。青いコートの下、その襟元には、高位の貴族を示す銀の刺繍が施されている。その刺繍は魔光灯の中で、青ざめて見えた。
「ご意志のままに」
数時間前、大時計塔の前で忙しくエルフを機関車に詰め込んでいた統括官が答えた。ロドヴィコは鋭く補足の言葉を伝える。
「データの記録は欠かすな。魔力の純度、反応値、個体差……。すべてを克明に」
その時、倉庫から悲鳴が響いた。エルフの子供の声だった。
「騒音は抑えよ」
ロドヴィコは無感情に言った。
「はい」
統括官はそう答えた後、書類を確認して報告する。
「ところで、暗殺ギルドの施設からの流出品が手に入るかもしれません」
統括官の言葉に、ロドヴィコは再び向き直る。その瞳には、魔導灯と同じ、青い光が宿っていた。
「あの娘の救貧院か。ふん。やっかいなものを作ってくれたものだ。だがギルドのナワバリを跨ぐなら、手を出すことはできないだろう? どうするのだ?」
初老の統括官はシワのある顔に笑みを浮かべる。シワが作る魔光灯の影が、色濃くなった。
「違法な無許可の奴隷商を利用する作戦を思いつきまして、つきましては認可を」
「ふん」
ロドヴィコはワイングラスの中の高級な酒を飲み干し、それを机に置いた。
「いいだろう。だがトラブルは起こすなよ。冒険者ギルドのアホどもが……動いているのも気になる」
その声は氷のように冷たく部屋に響く。魔法科学ギルドの紋章が刻まれた指輪が、魔光の明かりに不吉な輝きを放った。
統括官は一礼して立ち去る。扉が閉まると同時に、ロドヴィコは暖炉に視線を移した。そこには、自身が開発した永久燃焼装置が据えられている。エルフの血から抽出した魔力で永遠に燃え続けるはずの炎は、今は冷たく沈黙していた。
まるで、この街の良心のように。
ワインの深い色が、グラスの中で魔光灯の光を屈折させる。ロドヴィコはその光を見つめながら、16歳で街に魔導灯をもたらした日々を思い返していた。理想に燃えた青年は、いつしか非情な科学者へと姿を変えていた。
「エルフの血か」
ロドヴィコは机の上から、冒険者ギルドの要職にしか閲覧できないはずの資料を手に取る。そこにはルゥリィという名前があった。娼館生まれのエルフ。そんな文字が付記されている。
「吸血鬼騒動か。我々の他にも、エルフの血の有用性に気づいている者が?」
その独り言は、先ほどまでの調子よりも、敵意に満ちているように聞こえた。
古い教会を改装した救貧院には、独特の静けさが満ちていた。夕陽を受けたステンドグラスの光は、街の喧噪を閉め出すように床に落ちる。その光は汚れた者を拒むかのようで、暗殺者のレカは決してその中には入らない。いつも影に身を潜めるように、礼拝堂の端に佇むだけだった。
リリアは静かに蝋燭を灯していく。その仕草には、慈悲という言葉では形容しきれない深い愛情が滲んでいた。貧民街で拾った古い蝋燭は、不揃いで傾いているものばかり。それでも彼女の手にかかれば、まるで聖女の祭壇のように美しく輝いていく。
「お待ちしていました」
来訪者に振り向いたリリアの白いドレスが、夕陽に染まる。その姿は、まさに救貧院の象徴だった。
「冒険者ギルドの...」
ルゥリィは言葉を詰まらせる。オレンジのケープの下から覗く金槌級のバッジが、蝋燭の光を反射した。街での正義の象徴であるはずのそれが、この場所では場違いに見える。
「ええ、父から伺っています」
リリアの声は揺るがない。
「最近のエルフを狙った吸血鬼事件のことも」
傍らに立つレカの赤い瞳が、光を放った。白に近い金髪が、窓からの夕陽に照らされて揺れる。その姿は美しく、そして危険だった。暗殺者の瞳には、すでに殺気が満ちている。
「ええ、私たちはそに事件を追っているけど、状況が変わり始めてる」
ルゥリィが静かに答える。
「暗殺ギルドならこの件について協力してくれると思っていたの。吸血鬼の正体はまだわからないけれど、この状況に便乗して魔法科学ギルドがエルフ狩りを進めようとしてるわ。この救貧院は暗殺ギルドに強力に守られていて、この前自称奴隷商人がやってきたというのはイレギュラーに過ぎない。でも貧民街各所のエルフのコミュニティは襲われてるわ。……彼らは獣人からも除け者。吸血鬼騒ぎまで起きれば、隅っこで身を寄せ合うしかない。そこを一網打尽にされている。そして……」
言葉が、宙に浮く。蝋燭の炎が、三人の影を壁に映し出す。純白の聖女、オレンジの正義、そして漆黒の暗殺者。それぞれが背負う宿命が、光と影となって踊る。
「もうすでに魔法科学ギルドの上層部が動いているみてえだな」
レカが言った。
「エルフの純血は、高く売れるそうだ」
レカの指が震える。過去の記憶が、おぼろげに蘇る。タティオンに保護された記憶。自分はエルフではないが、確実に同じ立場の存在だった。この救貧院にも、似たような境遇のエルフでも獣人でもない子供が大勢いる。ルゥリィは頷く。
「ええ、案の定ね。混血にエルフは……いくらでも生まれてくる。でもエルフ同士の純血はなかなか生まれない。とても貴重な存在。彼らがそこにどのような価値を見出しているのかわからないけれど……」
ルゥリィの声は、氷のように冷たかった。憎悪。確かにそれがある。だがしかしその奥には、同胞への温かさが隠されている。リリアが言う。
「あの夜、スタヴロ兄さんが調べてくれたわ。彼らが見せた令状は偽物とも本物とも言えないシロモノなの。正規の手続きで発行されてるものじゃないって。魔法科学ギルドの上層部の誰かが、違法な奴隷商人たちに仮発行の免状を流しているらしいの」
「ボス・タティオンには?」
レカが訊ね、リリアが答える。
「父にはまだ報告は……兄さんに止められてて。そう軽々に報告できることじゃないって」
レカは僅かに目を細める。この街の闇の最深部、そこに巣食う腐敗への怒りが、胸の奥で渦を巻く。下手をすればギルド間の争いになりかねないのに、おそらく貴族の誰かが、私利私欲で高価な奴隷を借り尽くそうとしているのだろう。
『お前は我がギルドの暗殺短剣(スティレット)でしかない』
スタヴロの言葉が、耳の奥で反響する。暗殺者としての使命と、街を守る者としての憤り。その二つの感情が、レカの中で交錯していた。
その時、ハアハアという荒い息が聞こえた。耳で捉えることができたのはレカだけだ。一瞬身構えるが、その吐息が小さな体から発せられたものだとすぐ気づく。
「リリアさま! レカ姉ちゃん!」
礼拝堂の扉を開けて駆け込んできたのは、黒猫族のタンザ。路地の月明かりを受けて、その小さな体が小刻みに震えていた。黒い毛皮から滲み出る冷や汗が、月の光を細かく弾く。
「レカ姉ちゃん! キナが……キナが連れて行かれた!」
叫び声に混じる絶望と怒り、シリアスな兄妹への想い。タンザの猫の耳が激しく震える。リリアが心配そうに駆け寄る中、単座の叫びがこだまする。レカはすぐに近づき、荒い息でなかなか言葉が出てこないタンザを気遣う。
「いつも……いつものガラクタ集めで……ミーチャさんたちのところに持ってく分を、キナと一緒に……」
言葉の端々で、獣人の尾が地面を掻く。本能的な不安が、その体を支配している。レカがその背中を撫でつつ訊ねる。
「自動人形はいたか? こう、四角いブリキ細工みてえな……」
キナは頭を横に振った。
「七人……荒くれ者を連れた男たちが……魔法科学ギルドの令状を持って…….」
「令状?」
リリアとルゥリィが、同時に声を上げる。だがその響きは、まるで正反対だった。驚きと恐れに染まったリリアの声。そして、確信に満ちた冷たさを帯びたルゥリィの声。
「なんとかしてよ、レカ姉ちゃん!」
タンザが叫ぶ。
「姉ちゃんは殺しはしないでしょ? でもあらごとは大体解決してくれるじゃないか! 貧民街じゃ、姉ちゃんの言うことなら、みんな聞くのに……!」
レカは一瞬、自分の冷たい表情に動揺が浮かんだのを自覚した。リリアは気づいていない。聡い娘だが、人を信用しすぎる彼女は、レカの裏の仕事について勘付いてはいない。だがルゥリィは、レカの一瞬の赤い瞳の揺らぎを見逃していなかった。
(あーしは休暇中……下手に動けばギルド間のバランスにも影響が……。だが、このまま見過ごせば……あーしも奴らと変わらねえ)
レカの赤い瞳が、月明かりに妖しく輝く。影の中で、彼女の指が無意識に脈打つ。暗殺者の本能が目覚める。スタヴロの言葉が耳の奥で反響する。
「落ち着けよ」
レカは建物の側面を滑るように降りてくる。その足音は、夜露に濡れた石畳にすら届かない。子供の頃、このタンザのような獣人の子供たちと路地を走り回っていた記憶が蘇る。タティオンに拾われる前、ろくに食事も与えられず、エルフの血を理由に虐げられていた日々。
「どこに連れて行かれた?」
「港区の旧倉庫...でも」
タンザの声が掠れる。その猫の黒い毛が逆立つ。
「中には…入れなくて...奴らは、本物の奴隷商人じゃなかった。チンピラみたいな連中で、でも魔法科学ギルドの令状を持ってて……」
少年の声に混じる怒りと無力感。それはレカ自身の心の痛みと重なった。誰もが自由になれるはずの街で、弱者は今も苦しみ続けている。そんな現実への怒りが、レカの中で渦巻く。
沈黙が流れる。タンザが不安そうにレカと、リリアと、ルゥリィを見上げる。ルゥリィとはこの前路地で助けてもらっただけだが、レカやリリアと同じく、タンザの目には信頼できる大人への親愛の色が溢れていた。しかしその瞳には今この状況での苦悩もまた混在していた。レカは耳をそばだてる。周囲には誰もいないようだ。リリアの護衛のスタブロの配下の気配だけが読み取れた。街の喧噪が遠くから聞こえてくる。その中には、エルフの母親の泣き声も混じっているような気がした。
「……倉庫の周辺は私が」
ルゥリィが言った。レカに対して。信頼の青い瞳がレカを見つめる。
「だから、レカさんは倉庫の中からその子を救い出して。あなたの身体能力ならできるはず」
レカは苦笑しつつ肩をすくめる。
「っへ、お見通しってわけか」
しかしレカは複雑な思いを抱く。ルゥリィはまるで違う道を歩む者。高位の冒険者となり、光の中で堂々と戦える者。しかし自分はどうだろう。影に潜んで血を流す者。今回は血を流さずに済みそうだが……。運命の差は、生まれながらの境遇か、それとも選択の結果なのか。レカの赤い瞳が、一瞬だけルゥリィに嫉妬の視線を送る。ルゥリィはそれに気づいたのかそうでないのか、すぐに目を逸らした。
「一緒に行きましょう」
ルゥリィが遮る。その声には、レカへの理解が込められている。
「私には冒険者ギルドの権限がある。あなたには……あなたにしかできない仕事があるはず」
レカは僅かに目を細める。その言葉の意味するところを、彼女は理解していた。光の中の正義では届かない場所がある。そこにこそ、影の存在が必要とされる。時には、闇をもって闇を祓うことも必要なのだ。
ともかく、時間的猶予はない。レカは決意を固め、少年の頭を撫でた。
「タンザ」
レカが少年を見下ろす。その赤い瞳に、かつてない強さが宿る。
「あーしに任せな」
タンザは息を潜めて二人を見守る。その黒い瞳には、路地裏で初めて出会った当時のレカの姿が映っていた。あの頃からずっと、レカお姉ちゃんは彼にとって一番頼れる人だ。貧民街でみんなを救う様を、この獣人の少年はずっとで見てきた。「ルゥリィ」
レカの声が、夜露のように冷たく落ちる。
「オメーは昼間の中の人間だ。夜が明けるまでは……あーしが責任を持つせ」
ルゥリィは小さく首を振る。
「街には、法の光だけでは救えない命がある。それは……あなたが一番よく知っているでしょう。でもね、一人でそれに立ち向かう必要なんてないんじゃないかな」
その言葉に、レカが意外そうな顔をする。ルゥリィが庭園の水盆のように広い帽子を被り直す。
「レカさん、これからもっと協力できるといいな。私はエリオンと一緒にこの街の昼の光を、もっと強くするから」
レカの唇が僅かに緩む。
「っへ、ルゥリィ」
レカが言う。
「正面は任せた。影は...」
ルゥリィもそれに応えるように笑みを浮かべた。
「ええ、あなたに任せるわ」
月が雲に隠れ、街が一瞬だけ深い闇に沈む。魔光灯の光も、その闇を貫くことはできない。その暗闇の中で、レカの姿が闇に溶け、黒い風になって進む。向かう先は、この街の港、倉庫外だ。
『マリオネットとスティレット』AI改善版 北條カズマレ @Tangsten_animal
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