三つのわだかまり

森本 晃次

第1話 時代の流れの速さ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか?


 万引きというのは、今も昔も変わりなく起きている。昔から、スーパーなどでは、

「万引きGメン」

 などという、取り締まりの人がいたりして、活躍をしているという。

 彼らは、警備会社に雇われ、研修などを経てから、各スーパーに派遣されるということで、

「警察とは違う」

 公務員でもないので、抵抗された時、

「公務執行妨害」

 ということは使えない。

 だから、拘束は、現行犯でしかできない。

 これは、警察官と原則は同じだが、逆に違うところでもある。しかも、仕事としては、あくまでも、標的は、

「万引き」

 であり、万引き犯が出なければ、ただ、店内を客に紛れて一人で歩き回るという、

「単純で、孤独な仕事」

 ということになる。

 しかも、これが、誤認であったり、必要以上に店内で騒ぎを起こしたりして、それが客入りなどに影響があると、問題となるだろう。

 しかも、この逮捕、拘束というものが、誤認であれば、相手に対して、

「謝って済む」

 という問題ではない。

 それだけに、精神的に、大きな問題となることだろう。

 だから、万引き犯を捕まえた時、他の客に気づかれないように、速やかに、バックヤードの事務所に連れていき、そこで、いろいろ詰問することになる。

 そうでないと、

「犯人と思しき人間の人権」

 何といっても、まだ、万引きが確定していないのに、いきなりの犯人扱いでは、人権問題にかかわるということになるというものだ。

 また、そこで騒ぎ立てれば。

「万引きに狙われた店」

 ということで、それがウワサにでもなると、

「安心して買い物にもいけない」

 ということになったり、

「万引きしやすい店」

 ということになれば、客の信用にも関わるというもので、また、

「万引きというのが、冤罪かも知れない」

 と考えると、

「いつも万引きに狙われているから、警備員がいるんだわ」

 ということになり。もし、これが冤罪だということになると、

「もし、少しでも怪しいと警備員に思われる行動をとると、何もしていないのに、犯人扱いをいつされるか分からない」

 と思ってしまうのである。

 それを考えると、

「警備員がいつ見張っているか分からないと思うと、万引きなどしないのに、いつ万引きと疑われるか分からない」

 ということで、

「こんな店で、買い物なんか怖くてできないわ」

 ということになる。

 店としては、万引き被害というのも怖いが、

「警備において、行き過ぎや、勘違いなどがあって、それが、店の信用にかかわり、売上が落ち込んでしまう」

 ということは許されないのであった。

 下手をすれば、チェーン店などになると、

「売上がどんどん減ることで、赤自店舗は閉鎖しよう」

 ということになるだろう。

 チェーン店でなければ、

「直に会社経営というものを危機に追いやる」

 ということで、

「閉店」

 ということも当たり前にあるだろう。

 万引きという問題は、スーパーに限ったことではない。

 昔からの個人店舗などにも言えることで、

「アーケードのある市場の店舗」

 あるいは、

「本屋やレコード店、さらには文房具屋」

 などというところは、よく狙われたことだろう。

 今でいえば、それらの店はどんどん閉店していっていることもあり、一番考えられるのは、

「コンビニ」

 ということであろう。

 コンビニというと、

「狭い店舗で、限られたものしか売っていない」

 ということで、その変わり、店舗がかなり多い。

 場所によっては、見える範囲で、同系列のコンビニがあったり、都市部の中心駅のようなところでは、同じコンビニが複数軒あったりする。

「各ホームにある」

 などということもあるようで、それは鉄道会社の事情というものが絡んでいた李する。

 というのは、

「JRなどで国鉄時代からあった、キオスクなどという販売店は、10年くらい前から、その営業をコンビニに委託しているという」

 昔であれば、駅での朝の風景というと、

「キオスクの店舗では、一番前には、新聞が、筒状になった状態で置かれていて、それをドリル上にすることで、客が引き抜き安くしてある。

 という光景があり、

 それを、スーツ姿のサラリーマンが引き抜いて、さらに、ビン牛乳と、菓子パンを買って、朝食にするという光景が見られた。

 それだけ、朝の喧騒とした時間は、あわただしいということであり、

「まるで、刑事の張り込みのようではないか?」

 といって今から思えば、何とも異様な光景なのかも知れない。

 それもそのはず。今であれば、カフェのチェーン店のようなものが駅やその周辺には何軒もあり、そこに立ち寄る人も結構いたことであろう。

 それを思えば、昔はそんなものがなかったのだから、駅でパンと牛乳を買うというのの当たり前のことであった。

 では、

「なぜ、そんなに急いで出てくるというのか?」

 というと、理由は分かっている気がする。

 そう、

「時差出勤」

 という感覚である。

 サラリーマンの始業時間というのは、大体の会社は決まっている。そうなると、駅前に会社が集中しているということを考えると、

「9時が始業時間」

  ということを考えると、

「8時半くらいまでには、ターミナル駅についていないといけない」

 ということになるだろう。

 そうなると、乗る駅が、30分以内というのが、通勤圏内のベッドタウンだと考えると、逆算して、8時くらいから8時半くらいまでが、ラッシュのピークだと思えば、その時間の電車は避けようと思うだろう。

 となると、

「できるだけ早く、都心部に移動しておこう」

 という考えになり、

「ゆっくり、家で朝食などを食べている暇なんかないんだ」

 ということになるだろう。

 それを思えば、

「駅についてから、パンと牛乳を買って、食べながら会社に行こう」

 と思う人も多いことだろう。

 だから、8時前くらいでも、駅の売店というのは、人が多かったりするものだ。

 そんな光景は、もう今では見られない。

 一つには、車通勤の人が増えたのか、それとも、電車の本数が増えたのか、同じ本数でも、

「連結車両が増えたのかも知れない」

 ともいえるだろう。

 特に、

「女性専用車両」

 などというものができてから、車両が増えたような気がするのは気のせいであろうか?

 もっとも、

「鉄道会社が、利益を考えずに乗客のために、車両を増やすなど考えられない」

 と思うからだ。

 しかし、確かに、昔ほどの通勤時間のラッシュがひどくはない。それだけ、時間差出勤というものが浸透してきたのかも知れない。

 ただ、乗客のマナーが決していいとはいえない。

 ラッシュの時間でも、入口では、押し込まないと入れない状態なのに、通路のしかも、座席に近いところあたりでは、まだまだ余裕があるという状態である。

 つまり、

「皆が、一歩でもずれてあげると、余裕で乗れるのに」

 という状態を、知ってか知らずか、知っている確信犯であれば、

「これ以上、たちが悪いということはない」

 ということになるだろう。

 そんな状態で、駅にて、パンや牛乳を飲んでいる姿が、実に懐かしいと思っている人も多いだろう、

 しかし、今は駅のホームに売店があるということもなくなった。

 大きな駅でなくても、以前は、駅の券売機の近くに、売店があり、

「そこでおばちゃんが一人で販売員をしている」

 などという姿が結構見られたりしたものだった。

 しかし、今ではそんなこともない。

「客が減ってきた」

 ということもあるだろう。

 これは、社会の発展により、新しく便利なものが出てきたことで、

「古いものは消えていく」

 という状態になっていくのだろう。

 例えば、

「インターネットの普及」

 である。

 これは、街の商店街や、駅ビルなどを違った形に変貌させたものということの一つであり、というのは、

「一番大きいのは、紙媒体のものがなくなってきた」

 ということだ。

 今では、

「ネットで新聞を見たり、本を購入することもでき、紙媒体ではなく、ネットで直接見られるようになった」

 しかも、昔であれば、パソコンでしか見れなかったものだが、今では、

「スマホの普及によって、インターネットの世界がそのまま、スマホで再現できるという時代になった」

 ということで、

「パソコンすら持っていない」

 という若者が増えてきたということである。

 部屋に、

「テレビもパソコンもない」

 という、

「スマホ1台あれば十分」

 という人もいれば、逆に。

「スマホを数台持ちたいから、パソコンもテレビももったいない」

 という人が増えてきたのだろう。

 テレビは、かなり安くなっては来たが、パソコンは、まだまだ普通に買えば、ノートパソコンなどは、スペックを気にせずに使えて、

「パソコンでしかできないようなアプリ」

 ということになれば、それこそ、

「20万円以上のものでないと不便で使えない」

 というものが出てきているのであった。

 それなら、

「スマホの機種を増やして、何台も持っている方がいい」

 という人が多いようだ。

 そもそも会社にいけば、仕事用のパソコンは、会社が用意してくれている。

 ということもあるし、今の時代は、

「個人情報の保護」

 ということもあり、以前のように。

「仕事を家に持って帰ってやる」

 ということができなくなったのである。

「会社の情報を、勝手に持って帰る」

 あるいは、

「表に持ち出す」

 ということは、

「なくしてしまった時の問題がある」

 ということで、許されないことなのだ。

 そうなると、パソコンを家で使う何かの趣味でもない限り、必要のないものということになるだろう。

 特に、SNSや、テレビ替わりにユーチューブなどを見るというような場合には、スマホがあればいい」

 ということになるのである。

 時代の流れは実に早いといってもいいだろう。

 携帯電話が普及してきたのが、

「21世紀になった頃」

 ということなので、

「そろそろ四半世紀」

 といってしまうと、

「結構長いな」

 と感じるのであろうが、それだけではない。

 何といっても、その間に、パソコンのインターネットもいろいろと変化し、それに付随するようなサービスやアプリもいろいろ開発され、消えていったものも多いのだが、その分、

「洗練されたものが残った」

 といってもいいだろう。

 そして、残ったものも、次第に開発されていき、便利になってくる。

 しかし、それは、

「便利になるがゆえに、専門的な人間にとっては、物足りない」

 と思っている人も多いだろう。

 インターネットが普及した頃、

「個人で、ホームページを作る」

 ということが流行っていた。

 各プロバイダーであったり、いろいろなレンタルサーバーの会社があり、

「有料」

 あるいは、中には、制限はあるが、

「無料提供」

 というところもあり、ある程度自由に、自分でデザインできたりしていた。

 完全に、自分の領域のスペースなので、今のSNSとは少し違っている。

 今のSNSなどというのは、一つの大きなサービスの中で、自分のスペースがあり、それは、ほぼ決まったデザインの中で作られている。

 もちろん、画像を変えたりすることで、オリジナリティを出すことができるが、何かのコンセプトを持ったものであったり、個人がデザインの中で、自由にコンテンツを選べるというような形ではなかった。

 昔のホームページであれば、

「写真や、お絵描きを公開したり」

「小説や、エッセイなどを公開したり」

 という芸術的な作品発表のものも結構あったが、今のSNSでは、自由なデザインというのはできず、決まったテンプレートの中に、ただ、画像をアップしたりするくらいで、なかなか自由にはできない。

 できるとすれば、

「それぞれに特化したSNSをそれぞれで借りて、リンクを張るトップページのようなものを作れるアプリを使って、そこからリンクする」

 という形にしかならないだろう。

 それを考えると、

「SNSというのは、少し寂しくなった」

 といえる。

 確かに、自分だけは、昔のホームページのようにできるかも知れないが、ほとんどの人はそこまでこったことをしようとは思わない。

 昔のホームページは、

「自分のページをホームグラウンドにして、それぞれに交流する掲示板に書き込んだり、リンクでつながったりして楽しむものだった。

 やはり、アプリが充実してきて、

「便利さを求める」

 ということになれば、

「いろいろ苦労してでも、自分で楽しみを見つける」

 ということができなくなってしまったということに、寂しさを覚える人は、かなり少なくなってしまったのだろう。

「時代の流れの速さに、ついていけていない」

 ということになるのだろうか?

 やはり、

「黎明期」

 というのは、その時代に必ずいいことはあるといってもいいのではないだろうか?

 そんなホームページは、あくまでも、スペースを借りるということで、あったが、今のほとんどのSNSというのは、

「あるアプリの中で、自分の部屋がある」

 というものだ。

 だから、ホームページのように、知り合いのホームには、

「リンクで飛ばす」

 というページを作り、気に入った相手だけとつながる。

 ということができた。

 しかし、SNS、いわゆる有名なところで、旧ツイッターというところは、そういうわけにはいかなかった。

 というのは、

「全体が一つのホームになっているので、つながるというのが、難しいということで、そこで考えられたのが、フォローという考え方だ」

 というものである。

 他のSNSでは、

「チャンネル登録」

 などが同じ意味なのだろうが、

 交流のある相手とのつながりということで、

「フォローという機能」

 があるのだった。

 今までのホームページのトップと、ブログを合わせたようなページをホームとし、そのホームで投稿された記事が、フォローしている人を中心に流れてくるという、ページが存在する。

 そのページを見て、反応するのは、いちいち、フォローしている人のホームにいかないでも見ることができるというのは利点ではある。

 しかし、フォローというのは、結構頻繁に起こっていることなので、肝心の自分が見たいページが、フォローが増えれば増えるほど、見えなくなるということになるのだ。

 それを考えれば、

「SNSというのは、昔の人間から見れば、理解できないと思えるものになるのではないだろうか?」

 ただそれは、

「パソコンを知らない世代の人で、昔のマウスのないコンピュータを知っている人」

 というのは、マウスができた時、

「なんて不便なんだ?」

 ということであったが、それ以上に、

「なんだ、これは?」

 と考えた人がほとんどだったはずだ。

 そして次に、

「面倒くさい」

 ということで、高齢になればなるほど、

「パソコンアレルギー」

 というものが強くなってくる。

 しかし、時代はそのうちに、

「パソコンを知らない」

 ということでは、会社で仕事ができないということになり、

「仕方なく覚える」

 という人が増えてきたので、

「パソコン教室」

 なるものが増えてきて、通う人も、うなぎ上りだったという時代だったのだ。

 今では、ほとんどパソコン教室など見かけない。

 英会話教室よりも多かった時代があったのに、今では、ほとんど英会話教室だ。

 つまりは、

「昔に戻った」

 ということになるのだろう。

 それを思えば、

「時代が繰り返す」

 といってもいいのではないだろうか?

 それが、時代の流れを早くしている証拠でもあるのだろう。


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