イカサマジェムと女神の祝福

汐屋キトリ

女神ヒルテの御導き

 暗い部屋、併設された洗面台の上で、一人の青年が盛大に嘔吐えずいていた。

 

「おぇぇ……ぐっ、かはっ……!」


――ジャラ、ジャラジャラッ!

 

 逆流した胃の内容物とともに、小さな欠片が擦れて洗面台に叩きつけられる音が室内に響き渡る。

 

 酸性の液体でぬめり輝くを掴んだ彼は、蛇口の水に直接顔を付け、不快な口内を濯いだ。

 滴る雫が、肩まで伸びた彼のハニーブロンドの髪を濡らしていく。


 歳の頃は二十前後。それはそれは類稀なる美貌の持ち主だった。

 

 その青年は袖で濡れた口を乱雑に拭き、目の前の鏡を睨みつけたかと思うと、端正な唇の形を歪めて笑う。

 

「はっ……女神ヒルテ。巫山戯ふざけた呪いだぜ」


 

 鏡に映った彼の碧眼は、暗闇でも爛々と輝いていた。



 


 レオナルドはである。

 

 その日、彼は上機嫌で街を歩いていた。つい先日の仕事で大成功を収め、手元にまとまった金がたんまり入ったからだ。しばらく街ゆく女や店を冷やかしていく。


 黒髪黒目はありきたりな色だが、レオナルドの長身と整った容貌に流し目を向ける女は少なくなかった。


 悪い気分ではなかったが途中でニコチンが切れ、段々と煙草のことしか考えられなくなってくる。喫煙できそうな場所を視線で探しながらポケットを探ると、煙草の箱の中身はもう無くなりかけていた。


 今日はいつもよりワングレード上の銘柄を買ってみようか。


 そんなことを思っていると、後ろから声がかけられる。


「そこの方、このあたりにヒルテ教の教会があるとお聞きしたのだけれど……道を教えていただけませんか?」


 ヒルテ教。この国で古くから広く信仰されている唯一神、女神ヒルテを崇めた宗教だ。

 

 大人ぶっているのか少し上擦ったような女の声に、レオナルドは笑顔で振り向いた。


「ここから少し先にありますよ。礼拝ですか?」


 振り向いた先に居たのは、ライトブラウンの瞳に同色の髪を後ろで結い上げている少女。十人が十人美人と認めるだろう、非常に整った顔立ちだ。

 歳の頃は十代後半と言ったところか、とレオナルドは見立てる。


 彼女は品の良い薄桃色のワンピースドレスに、白い毛皮のジャケットを羽織っていた。流行りの型ではあるが、その光沢から生地は良質なものを使っていると分かる。


 彼女が不安気に上目遣いになると、耳を飾る澄んだ青いイヤリングが揺れた。サファイアだろうか。


「ええ、そうなんですの。女神ヒルテに願い事があるのですが、このあたりは初めてで」


 少し視線を落としてみれば、太めのベロア生地の黒チョーカーに重ねるようにして、小粒の青い石がいくつも繋がれたネックレスが首元で輝いていた。


「僕もヒルテ教徒なんですよ。なるほど……しかし、あの教会は少し分かりにくい場所にあるんです」


 レオナルドはぴたりと煙草への渇望が止むのを感じる。頭は一瞬にして仕事モードに切り替わっていた。

 

 まだらなジャケットの模様はおそらくリンクスの毛皮、高級品だ。彼女の全身が、金持ちの世間知らずなお嬢さんだと主張している。


「僕はレイ。既に礼拝を終えましたが、よろしければ手前まで案内しますよ」

「私はエリザ。助かりますわ」


 ”レイ”はこの街で使っている偽名の一つだ。そもそも”レオナルド”という名も、彼の生まれ持ってのものでは無かったが。


 歩きながら「そういえば」と何気ないように話しかける。


「願い事、と言いましたね。お聞きしても?」


 少し躊躇ったのちに、エリザはふわりと儚く笑った。表社会の男なら一発でコロリと落ちてしまっただろう。

 

「……初対面の方に言うのは恥ずかしいけれど、婚約者に浮気されてしまって。次の良縁を祈りに来たのです」


 しかし裏社会にいるレイモンドはというと、内心舌なめずりをしていた。

 

(こんなところにカモがノコノコやって来るとは)


「お辛かったでしょう。こんなにも綺麗な人だ、僕なら絶対によそ見なんてしないのにな」


 少し熱を瞳に込めてやれば、簡単に彼女は頬を染める。確認したレオナルドは、完璧な角度で目を伏せた。


「なんて、慰めにもなりませんよね。馴れ馴れしかったかな」

「そ、そんな! 嬉しいです……」

「これも何かの縁でしょう。よろしければ礼拝の後、お茶でもいかがですか?」

「ええ、もちろん」


 簡単だ。これはもう何百回と繰り返した、彼の常套手段である。

 

 一緒に教会で女神ヒルテ祈り、近くのカフェに入った。

 コーヒーを飲みながら会話する中で、レオナルドは冷静に分析していた。


 とりあえず目に見える装飾品を擦り取って金に変えてしまうか、それともしばらく泳がせて大金を引き出すか。

 どちらがより効果的に金を得られるか。知りたいのはそれだけだった。


 聞けば、エリザは最近手を広げている宝石商の娘らしい。普段は護衛がついているが、次の縁談が決まる前にとこっそりと家を抜け出してきたのだそう。確かにそこは最近勢力を上げている商会で、ちょうどレオナルドも目をつけていた。


 警戒心のかけらも無い娘、後ろにはそれなりの商会。


 こういう手合いには、結婚詐欺で最大限ぶん取るに限る。浮気されて良縁を探しているというならなおのこと。

 いつもならそのような判断を下すレオナルドだったがしかし、嫌な予感がした。彼はこういう時、自らの直感を信じることにしていた。


(深入りはやめておくか)


 元々この街はレオナルドの拠点ではない。偵察に来ただけだったが、めぼしい場所も物も人も無さそうだった。

 

 とりあえず今日は、彼女からサファイアのイヤリングとネックレスをスるだけにしておこう。


 支払おうとするエリザを制止し、全額会計を支払う。紅茶とスイーツ程度、先行投資のようなものだ。彼女から盗む装飾品を換金すれば、その何百倍にもなるのだから。


「もう、お別れですの……?」

「エリザ嬢」


 寂しそうな彼女の手を引き、路地裏に引き込んだ。そこで情熱的に抱きしめてやる。


 女はこういうのが好きなのだ。そろそろと片手をネックレスに忍ばせながら、もう片手で顎を軽く持ち上げ、見つめてやる。


「あぁ、女神ヒルテの御導きでしょうか……僕は貴女に、一目で恋に落ちてしまった」


 そのまま顔を近づけ、エリザの唇に触れるその寸前……レオナルドは動きを止めた。


「――お前、か?」


 直後、背中に冷たく硬いものが押し当てられる。

――銃だ。


「バレた? ま、そう簡単に本職は騙せないわな――詐欺師さん?」


 瑞々しい唇から発せられたのは、先程までよりも数段低いテノールボイス。少年のようなそれであったが、紛れもなく男の声だった。

 

 無意識に詰めていた息を吐き、レオナルドは問う。


「……銃とは穏やかじゃないな。どうして俺の正体が分かった?」

「天才詐欺師、“枉惑家おうわくかレオナルド“、こっちの世界では有名人だろ。流れるような手法はアンタの十八番だからな」

「その呼び方はやめてくれ、ただのイカサマ師だ」


 “枉惑家おうわくかレオナルド“。

 恥ずかしい通り名だ。あまり呼ばれたくはない。


「俺も耳にしたことがある。女顔の凄腕暗殺者がいるってな。お前、”凶麗のジュナ”か?」

 

 ”凶麗のジュナ”。

 レオナルドからしたらこちらも恥ずかしい異名だと思うが、彼もまた裏社会の有名人だった。

 

「ご名答! おれの女装で騙し切れなかったやつなんて居なかったんだけどな。どうして男だと分かった?」

「直感」


 路地裏で小柄な背中と細い腰を抱いた瞬間、女にしては骨盤の高さがおかしいと思った。

 

 そしてそれまでの違和感が一瞬で形作られ、レオナルドの直感がこれは男だと警笛を鳴らしたのだった。


 厚手のチョーカーに視線を向ける。彼はこれで喉仏を隠していたのだろう。

 暑かろうに、店で紅茶を飲むにもファーのジャケットを脱がなかったのは、肩周りのラインを見せないようにしていたのか。


(はは、しくじったな)

 

 最近仕事が上手くいっていたからと気が抜けていたのだろう。


「で? 何が目的だ。俺の命じゃないんだろ」


 レオナルドは確信を持った口調で言う。

 もし彼の狙いが命なら、自分はさっさと撃ち殺されているはずだからだ。


「察しが良くて助かるよ」


 ジュナはにやりと不敵な笑みを浮かべる。突きつけられていた銃が背中から離された。


「おれのにならない?」

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